悪くない条件だった。
基本給も上がるし、わずかとはいえ役職手当もつく。
引っ越し手当てに家賃補助もがっつりつくし、今住んでいるアパートは今年更新だし、タイミングとしても悪くない。
新しくできる営業所に転勤。
今のところ打診ではあるけれど、会社としては「断らないよね?」の圧が隠しきれていない。
客観的に見て、人選は妥当なところだとは思う。
二十代後半、ほどほどに経験もあって、一通り業務をこなせる。独り身で身軽。
ただ、個人的にはちょっと迷うところだ。
立ち上げメンバーに少々苦手というかあまり関わり合いになりたくない同僚がいる。
別部署なので現状それほど関わらずに済んでいるが、営業所新規立ち上げとなるとそうもいかないだろう。
次いで実家に近くなるのもあまり有難くない。
不仲なわけではないけれど、できれば少し距離をとっておきたい。
知られたら「実家から通いなさいよ」と言われそうだし、断って一人暮らしをしてもあれこれと顔を合わせる回数は増えそうだ。
そして一番気乗りがしない理由は。
「……ずは、和葉、かーずは」
「は? ……あ、なぎ」
アパートの手前、街灯にぼんやりと照らされてたたずむ高校生くらいに見える男の子。
いつもより少し難しい顔をしているように見えた。
「どうしたのこんなところで。寒くない?」
日中はだいぶ春めいてきたものの、夜はまだ冷える。
尋ねるとわざとらしいくらいに大きいため息をつかれる。
「わしの心配より、和葉はどうなんだ」
見た目に反して尊大で若者らしくない口調なのは理由がある。
どこからみても男子高校生の姿をしているけれど、なぎはこの近所にある神社の主、神様だ。
自称だから本当のところは知らない。
ひょんなことから知り合って、なぜだか友人のような付き合いを初めて数年、見た目の成長は一切ないから普通の人間ではないのは確かだ。
「私? こう見えてきっちり着込んでるから寒くないよ」
コートは春物っぽく薄地に見えるがしっかりと裏地がついていて暖かい。インナーもしっかり着ているし。
年々寒さに弱くなってきているから対策はばっちりだ。
「そういうことじゃないんだがなぁ」
あきれた顔。ただまなざしは優しくて、そっと目を逸らす。
これは良くない。
「じゃあね、なぎ。またね。おやすみ」
不自然にならない程度に視線を合わせないように、いつもと変わらない風に立ち去る。
「和葉」
聞こえないふりをするにはしっかりとした声に足を止め振り返る。
「話を聞くよ?」
神と自称しつつも願いをかなえることはできない、話を聞くことしかできないと嘆く。
でも言えない言葉を飲みこんできた私にとっては話を聞いてくれるなぎの存在がとても救いで、依存気味になっている自覚もあった。
なぎ本人からも良くない傾向だと指摘を受けたこともある。
それなのに、迷って、悩んでいるのを見計らったかのように現れて「話を聞く」なんて甘やかす。
たちが悪い。
自分で決めようと、思っているのだ。
「……」
「和葉?」
「……今は、良い。おやすみっ」
優しい誘惑に負けないように話を断ち切り、小走りに自分のアパートへ向かう。
なぎは追いかけては来なかった。
ただ視線だけはずっと背中に感じていた。
部屋に入って大きく息をつく。
どうにか負けずに帰って来られたことにほっとする。
いや、不審には思われているだろうし勘づかれてもいるだろうけれど。
顔を合わせれば頼ってしまいそうで、実はなるべく会わないように、通勤の道も変えていた。
なぎの方から会いに来てくれるのは誤算だった。
「……そんなこともないか」
友人のような付き合いをしているけれど、どこか保護者のように気遣ってくれている。
あえて距離をとっていたことにも気がついていて、しばらくはそっとしておいてくれたのだと思う。
今日はいい加減心配になって様子を見に来てくれた感じなのだろう。
逃げるように立ち去ってきたので余計に心配をかけているかもしれない。
良い歳をした大人が何やってるのかとは思うけれど、今はまだ話せる段階ではないのだから仕方ない。たぶん。
「とはいえ、いい加減決めないとな」
条件のいい転勤の打診に快諾できない一番の理由がなぎの存在だ。
引っ越しをしても会えなくなるわけではない。
転勤先へは電車で片道二時間程度だから、どうしようもないほど遠いわけではないのだ。
ただ今のように気軽に、会社帰りにふらりと顔を合わせたり、立ち話したり、家に来てもらったりというのは無理だ。
なぎはこの地にある神社の神様だから。
どのくらいの自由度があるのかはわからないけれど、それほど長く土地を離れることはできないだろうし、しないだろう。
願いをかなえることはできないと言いながらも、話を聞こうとする神様だから。
「離れたく、ないなぁ」
これをなぎに伝えると、転勤するように諭されるのが目に見えていて、それが嫌で避けているだけだ。本当は。
わかっている。
どうすればいいかなんて。
「もうわしはお払い箱かと思っていたよ」
夕暮れの境内に佇むなぎは、会いに行った私にぽつりとこぼした。
半分くらいは本音なのかもしれない。
いつものなぎなら揶揄い、茶化しそうなものなのに、今は感情を見せない声だった。
すこしはさみしいと思ってもらえたのだろうか。それをうれしく思う自分の浅ましさはどうかと思うけれど。
「そんなはずないでしょ。でも今回は自分で決めないといけなかったから」
「親離れをする子を見るのは思った以上にさみしいものだな」
距離をとったままの声。
仕方がないのでこちらから近づくと社殿の柱にもたれるようにして立つなぎがいた。
「私だって成長するんだよ」
良い成長かどうかは置いておいて。
「知っておるよ。和葉は頑張り屋だからな」
こんな風に全肯定されるとちょっと言い出しにくくなるんだけどな。
緊張を抑え込むように大きく息を吐く、そして吸う。
「結婚してください、なぎ」
手を取り、乞う。
なぎは目を丸くして、手元に視線を落として、そしてまじまじと私を見た。
無言のままたっぷり数十秒は見つめあった気がする。
「……忘れておるかも知らぬが、わしはここの主だ。人ではない」
忘れるはずない。どれほど気安く付き合っていてもなぎは神様だ。結婚できる相手ではない。
「わかってる。でも、ずっと考えて」
「わかっているよ。和葉が考えなしこんなことを言い出さないことは。とりあえず場所を変えよう。ずいぶん暗くなってきたし夜は冷えるからな」
困った子供を見るような柔らかな微笑みを浮かべてを握り返してくれる。
それだけで肩に入っていた力が抜けた。
「それで、どうしてあんな突飛なことを言い出したんだ?」
私の部屋での定位置のこたつに入り込んでなぎは口を開く。
「なぎとずっと一緒にいたいなと思ったから。それなら結婚かなって」
「幼児の理屈だな」
我ながらそう思う。
「いちおう、それでもいろいろ考えたんだよ」
「考えた結論が結婚っていうのは意味が分からない。さっきも言ったがわしは人間ではない。当然戸籍もないから婚姻は結べない」
「それはそうなんだけど」
そもそも一般人が神様に求婚することが不敬だろう、この上もなく。
「ほら、もう細かいところを端折らないできちんと説明しなさいな。ゆっくりでいいから」
幼子に言い諭すような声音。
いたずらっぽく笑っているから、わざとやっているのだろう。
少しむくれてみせるとなぎは笑みを深くする。
「話を聞くよ。ちゃんと。初めから最後まで」
「きっかけは転勤の打診が来たことなの」
「それはめでたい話なのではないのか? 左遷というわけではないのだろう?」
「なぎはそう言うと思ってた。だから話したくなかったのに」
すねた声を出す私に、なぎは困った顔をする。
「和葉の仕事ぶりが認められたことを喜ぶのはダメだと」
意地の悪い言い方だ。そういうことじゃないとわかっているはずなのに。
「話を受けると引っ越す必要が出るから、そうするとなぎと会えないでしょ」
「引っ越しても会いに来ればよかろう」
ことさらに軽く流すなぎの目をじっと見つめる。
こちらもそういう問題じゃないこともわかっているはずだ。
離れたら仕事帰りに愚痴を吐くこともできなければ、こうして家でまったりと話をすることもできない。
「わしが悪かった。それで?」
「転勤は断った。ついでに退職願も出したんだけど、そっちは不受理」
転勤を断って居座るのも微妙に居心地が悪いし、今後同様の話が来た時には断りにくいだろう。
その時に辞めるよりは今の方が再就職をしやすそうだと判断したのだけれど。
会社側としては勝手を知っている社員が辞めるのは痛手のようで引き留められた。
まぁ、辞めるのはいつでもできるかと残留の意は伝えてある。
「だから当面は現状維持なんだけどね」
「そこからプロポーズまで行く理由がわしにはさっぱりなのだが。これがジェネレーションギャップか?」
なぎはゆるゆると首を横に振る。
飛躍している自覚はあるし、恥ずかしいことを言った自覚もある。
「結婚できないことはわかってる。でも、そのくらいずっと一緒にいたいって、本気で思ってる。それをわかってほしくて。なぎは良くないって言うだろうとわかってはいたけど」
それでも、どう考えても遠く離れるのは嫌だし無理だと思ってしまった。
そっと視線を向けてなぎの様子を窺う。
見たことのない無の表情をしていて、背筋が冷える。
どのくらいそのままだっただろう。
なぎが深々と息を吐きだした。
「わしはダメだのう。本来であれば適切な距離をとるべきにもかかわらず、和葉の言葉を嬉しく思う。依存させておいて放り出しては駄目だろうと言い訳まで考えて」
自嘲的な笑みのまま、やさしくこちらを見る。
「そもそも初めから和葉をひいきしているのだし、今更だな。……和葉が飽きるまで一緒にいよう」
私が飽きるまでと前提をつけてくれるのはなぎの優しさなのだろう、たぶん。
だから十分だ。
「なぎ。ありがとう」
手をのばし、なぎの手をそっと握った。