とどまる約束



 ずっと、心残していた。


 気がついたら死んでいた。
 はじめに目に入ったのは、いつもいた病院のベッドだった。
 当然だが横たわる自分の姿はない。
 面会時間のほとんどを病室で過ごしていた母の姿も、コップや本などのいくつかの私物も見当たらなかった。
 今は何時くらいなのだろう。
 枕元に置いていた時計もなく、ついと外を見る。
 夜だ。病室の明かりはついているから十時より前なのだろう。
 窓には病室内の様子が反射で映っていた。
 そこに窓際にいる自分の姿は映っていなかった。
「ごきげんよう?」
 背後からの突然の声に振り返る。
 夜から溶け出したように真っ黒な服を着た、二十代半ばほどに見える男が立っていた。
 もう一度窓を見返すと、その男もまた窓には映っていなかった。
「僕は死んだんですね?」
 幽霊相手にご機嫌も何もあったものじゃないと思うけれど、実際のところずっと続いていた苦しさがなくなった分、生きていた時よりは気分はいい。とは言っても、死んでしまったらおしまいなのだけれど。
「理解が早くて助かります」
 穏やかな笑みを男は浮かべる。
「で、あなたは死神か何か?」
 死者を連れに来ると言ったら、天使か死神が定番だろう。
 男は真っ黒な服を着ているし羽根もないし、天使には見えない。大鎌を持っているわけでもないから死神に見えるわけでもないけれど。
「そんなようなものです。さて、こちらの事情をお話しする前に、聞きたいことはありますか? お答えできる範囲でお伝え出来ますよ。これは無料です」
 これは、ということは有料の時もあるのか? 死人から金をとれるものなのだろうか。
 ちなみに僕は生きていたとしても自分のお金はない。
 入院生活が長いと、院内のコンビニで買い物するくらいで、それだとプリペイドカードで済んでしまう。だから今請求されても払えるものはない。
「僕が死んで何日経ちましたか?」
「だいたい二年ですね」
「……は?」
「七百日くらい? 八百日にはなってないはず。きちんとした日数が知りたいならお調べしますが?」
 聞こえたぞ、「めんどくさいけど」って小さく言ったの。
 別に細かいことを知りたいわけじゃないから調べろとは言わないけどさ。
「で、二年ってなんで。なんで今頃」
 昨日までそのベッドで寝ていたくらいの気分なのに、数日ならまだしも、二年って。
「まぁ、いろいろとあるんですよ、事情が。それはまた追々。とりあえず、キミには責任を取っていただきましょう。遠山蒼汰くん」
「責任? 僕はあなたとは初対面な気がしますが、生前お会いしてましたか?」
 生きているときに死神に会っていたら大問題か。じゃ、死んでからの記憶のない二年の間か?
「いえいえ。私とは正真正銘初対面ですよ。キミが責任を取るのはキミの想い人に対してです」
「…………まなか、ちゃん」
 想い人なんて一人しか思い浮かばなかった。幼馴染の二つ下の女の子。幼いころの可愛らしい想い出で、たぶん覚えているのは自分だけだ。
 どれだけ体調が悪くても、治療が苦しくても、ずっともう一度会いたいと願ってた。
 結局、叶わないまま死んでしまったけれど。
「キミのした、約束が彼女に障っている。キミにはそれを解いてきてもらいます」
「……意味が、よくわからない」
「彼女とした約束を覚えていますか?」
 男はずっと笑顔のまま、でも少し目線が鋭くなった気がする。
「絶対に、会いに戻るって」
 あれは僕が六歳の時だった。
 転院することになり、そのままでは通院するのが難しいということで引っ越しすることになった。
 彼女は大泣きして「行っちゃだめ」だと駄々をこねた。引き留めてもらえたのがすごくうれしかった。
 僕も大好きで、離れがたかったから。
 それでも、新しい病院に行けば元気になれるって母親から言い聞かされていたから、だから。
「それだけじゃないよね」
 そう。納得はしてくれなかった。
『はやくしないと忘れちゃうかも』って僕の服を掴んで離さなかった。
「そう。……そう、大丈夫だよって。キスすれば全部わかっちゃうから、って」
 確かテレビで観たものの受け売りだった。おそらく本来の解釈とは違っていたのだろうけれど、幼い僕はそのままの意味で伝えて、キスをした。
 今思い出しても何やってるんだって感じだけれど、『ほんとだね』って笑ってくれた彼女がかわいかったことがすごく心に残っている。
「それが障り、ある意味呪いですね。あなたの言葉は深く彼女に浸透してしまいました」
「浸透するとどうなるんです?」
「今回の場合ですと、キスをしたら相手の考えていることがまるっと見えてしまいます」
 説明する男の笑みが深くなる。どことなく楽しそうだ。
「つまり?」
「彼女はこの先キスをするたび、相手の感情を見てしまいます。良い面もなくはないですが、まぁ負担ですよね、普通。人はお綺麗なことを考えてるばっかりじゃないですし」
 キスなんて出来なくなるかもしれない。
 一瞬、悪い考えがよぎる。
 そのままにしておけば、彼女は他の男とキスできない。
「どうすれば良いんですか?」
 でも、もう僕は死んでいて、彼女を幸せにすることは絶対にできない。
 だから男が言った通り責任を取らなければいけなかった。


 今の彼女は高校生だった。
 僕の中では、ずっと小さな子のままだったから少し変な気分だ。でも、やっぱり面影はあるし、懐かしい。
「かわいくなったなぁ、と浸っているところ申し訳ありませんが、あとはお任せします。首尾よく終わらせていただけると信じてますよ」
 ざっくりとした対処法を教えられ、彼女のところまで連れてこられた。
 が、まさか軽口一言残して立ち去られるとは思わなかった。
 あの男、職務怠慢にもほどがあるだろう。どうやって声をかけろと言うんだ。
 僕は現在、いわゆる幽霊なので彼女も含めて姿は認知されないらしい。
 僕の方から、彼女に声をかければ見えるようになり、会話も可能とのこと。
 でも、見ず知らずの男から声をかけられたら警戒されるよな、普通に。
 きっと僕のことなんか覚えていないだろうし。
 とりあえず、様子を見ていよう。いい感じに声をかけられるタイミングがあれば良いのだけれど。
 学校内で話しかける隙はないだろうとは思いつつ、行き場もないので教室後ろにあるロッカーの上に座って、彼女と一緒に授業を受け、休み時間中にクラスメイトと談笑する姿を眺め、帰宅する彼女の隣に並んで歩く。
 かなりストーカーっぽい。っていうか、姿が見えていたら完全にストーカーだ。
 それにしても彼氏と一緒に帰ったりしないのだろうか。
 同じ学校の先輩だという話をあの男から聞いてはいる。そして、三日前にキスをして彼氏の考えていることを見てしまったということも。
 あの男がどうしてそんなことまで知っているのかは教えてもらえなかった。ただ、何を見たかはあの男も知らないらしい。
 嫌なものを見ていないと良いのだけれど。
 まぁ、普通に考えて好きな女の子とキスなんて幸せいっぱいでほかのことなんて考えないとは思うけど。
 横顔を眺めながら、溜息をつく。
 家の中にまでついていくのはさすがにどうかと思うので、庭先で彼女が玄関を開けるのを見送った。


 翌朝は眠たそうな彼女と一緒に登校して、同じように授業を受けて、まっすぐ帰宅。
 その翌日も同じような感じ。クラスメイトとの会話にも彼氏の話は出てこない。
 本当に、いるんだよな? 
 いなければ良いのにっていう自分の願望だって言うのは解ってるけど。
 そんな感じで三日過ぎ、今日も同じ感じかとかばんを持った彼女の横に並ぶ。
「まなか」
 廊下に出たところを、にこにことした男子生徒が彼女を呼ぶと、彼女も笑みを返した。
 あぁ、これが彼氏か。


 花壇の水やり当番だったようだ。
 作業を終え、彼女が帰ろうとするところを彼氏が呼び止めて、キスをした。
 誰もいないだろうと思ってのことだろうけれど、実は僕はばっちり見ていた。
 そして彼女がその瞬間、眉根をよせたことも。
 よろめいた彼女の顔は蒼白だった。
 彼氏が心配そうに声をかける中、何かを決意したような彼女は小さな背伸びをして、自分から彼氏に口づけた。


 彼氏と二言三言会話した後、彼女は一人で下校した。
 その一歩後ろをついて歩いた。
 まだ顔色の悪い彼女が、倒れそうになった時に手を貸せるように。
 そんな機会はないまま、彼女は駅前のベンチにくたびれたように座り込んだ。
 何を見たかまではわからないけれど、やっぱりショックなことだったんだろう。
 もう少し早く接触しておけば、彼女にあんな顔させずに済んだのに。今更、後の祭りだけれど。
 日が傾き、だんだん薄暗くなってくる中、彼女は立ち上がることなく、行き交う人をただぼんやりと眺めていた。
「切っ掛けが、とか言ってる場合じゃないか」
 声をかける勇気が出ないままでいたせいで、彼女に不安な思いをさせている。
 呪いを解いて、そのことを伝えないと彼女の不安は消えないだろう。
 深呼吸して、気持ちを落ち着ける。よし。
「こんにちは。ん、こんばんは、かな?」
 なるべく警戒心を抱かせないように、とにこやかに声をかけた。
「隣に座ってもいい?」
「……どうぞ?」
 座ったと同時に立ち上がられる。そりゃそうだよね。胡散臭いよね。
「待って待って。僕はキミに答えをあげられるよ!」
 それでも何とか引き留めなければと出た言葉はますます胡散臭かった。
 おまけにとっさに手を掴んでしまった。セクハラだ。
「ごめん。通報はやめて。話を聞いて」
 振り返った彼女の反対の手にはスマホがあって、慌てて手を離す。
「何の話って?」
 彼女は呆れたように笑って、隣に座ってくれる。隙間はすごく開けられたけれど。
 それでも自分に向けられた笑顔がうれしかった。
「どこから話そうか。とりあえず自己紹介。僕は蒼汰って言います」
 顔はともかく、名前くらいは記憶に残っていないだろうかと淡い期待が実はあった。
「まなかです」
 知ってます。っていうか、覚えてないよね。知ってた。



「キスの呪いを解きに来ました」
 我ながらどうかと思う言葉だ。
 眉をひそめた彼女に、キスをすると相手の心の中が見えていることを指摘すると、少し首をかしげる。
「本当に?」
 まぁ、信じられないよね、普通。気のせいだって思うのもわかる。
「……どうして蒼汰くんは初対面なのに知ってるの」
 名前を呼ばれてうれしくて、あの頃とは違う呼び方が少しさみしい。
「僕は知ってるだけなんだ。ごめんね」
 すべては僕が引き起こしたこと。
「呪いって言ってたよね? 私、誰かに恨まれてるの?」
 彼女の不安そうな声に慌てて否定する。
「あれはただの約束だった。呪いにするつもりなんてなかった。ごめん。僕のせいなんだ、全部」
「……意味が分からない」
「だよね。ちゃんと話す。ただ、本当に悪意は全然なかったから。ただ、まなかちゃんのことが好きだっただけ」
 できるだけゆっくりと、彼女を落ち着かせるように話す。
「…………待って。初対面、だよ、ね」
 目を瞬かせる彼女にそっと微笑って、幼馴染だったことを話す。
 別れの時にした約束が呪いになってしまったことも。
「どうして『呪い』にかかっちゃったのかはわからない。でも原因は確実にその時のせい。ごめんね」
「蒼汰くんが謝ることじゃないと思うけど」
 こちらを気遣う優しい視線。
 やっぱり好きだな。
「どうやって呪いを解くの?」
「また会えてうれしいよ」
 そっと彼女の手を掴む。
「な、どしたの、急に」
 慌てる様子がかわいい。
「ずっと会いに来たかったんだ」
 彼女に顔を近づけ、くちびるを重ねる。
「……蒼ちゃん」
 懐かしい呼び方。思い出してくれた。
「もう、大丈夫だよ」
 呪いは解かれた。
 そして僕は彼女の目に映らなくなった。


「合格ー」
 余韻に浸らせるとかそういう気遣いはないものか、この男。っていうか、ずっと見てたのか、もしかして。
 歩き去る彼女の後をついていきたい気持ちを抑え、ただその背を見つめていた僕の前に唐突に現れた男は満面の笑みを浮かべている。
 お前がそこにいると彼女の姿が見えないんだけど? せめて最後まで見送らせてほしいんだが?
 言っても無駄そうなので大きくため息をこぼすだけにする。
「よくできました。さすが私が見込んだだけのことはあります。改めましてごあいさつを。私、翠と申します」
 ここに来て名乗られてもな。
「……さっさと成仏させてくれるかな?」
「何言ってるんですか、キミは私の部下として働くんですよ?」
 何言ってるはこっちのセリフだ。
「僕はもう死んでるんだぞ」
「私も死んでますよ。問題ありません。使えるものは何でも使います」
「何で僕が!」
 男はにっこりと笑う。でも目が笑ってないやつだ。
「好きな女の子に会わせて、呪いの解き方も教えてあげたでしょう? 無料で、などと申し上げましたか?」
 詐欺だ。
「大丈夫ですよ。アットホームでやりがいのある職場ですよ」
 詐欺だ!
「同僚にはかわいい女の子もいますし、……たまには彼女の姿を見に行くことくらいはできますよ」
 付け加えらた囁きはやさしかった。
 大きくため息をついて、うなずいた。

【終】




Aug. 2020
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