その時までは、確かに好きだった。
告白は佳樹の方からだった。
美化委員という、微妙に活動の多いハズレ委員会に決まって、初めての活動日は顔合わせで、簡単な自己紹介をすることになった。
「一年七組、吉敷ま」
「はいぃ」
私が名前を言いかけたところで、妙な返事をして立ち上がった男子が佳樹だった。
どうも寝ぼけて、自分の名前が呼ばれたと勘違いしたらしい。
「呼んでないぞ、二-七。三田村佳樹。そして寝るな」
知り合いなのか、前に立つ委員長が呆れたように声をかける。
教室内はかみ殺し切れていない笑い声が起きていた。
私が笑われているんじゃないけど、私が恥ずかしい。
「一年七組、吉敷まなかです。よろしくおねがいします」
もう一度名乗りなおして、そそくさと座った。
委員会が終わった後、佳樹は「さっきはごめんね」と私の席まで謝りにきた。
それから、週一である委員会活動でよく話すようになった。
話しやすいし、一緒に作業していても楽しいし、ちょっと好きかもなぁって思い始めたころだった。
ゴールデンウィーク中、花壇の水やり当番が佳樹と一緒で、その日の佳樹はいつもより口数少な目で、機嫌が悪いのかなって思った。
居心地悪い中、さくさくと水やりを終えて「おつかれさまでした」って、帰ろうとしたところを引き留められて、告白されて付き合うことになった。
うれしかった。
付き合って二か月目、初めてキスをした。
この日も委員会の活動日で、校庭の草取りをした後だった。
じゃんけんに負けた佳樹が、道具を回収して倉庫に持っていくのに付き合った。
棚に片づけて「つかれたねー」って笑ったら、「キスしていい?」って聞かれた。
こういうのって聞くものなのかな? でも唐突にされてもびっくりするから、聞いてもらえた方が助かるかな? でもいま汗くさくないかな。大丈夫かな。
少し迷ってうなずいた。
肩に手おかれて、佳樹の顔が近づいて、目を閉じた。
そして柔らかか感触と同時に唐突に頭の中に女の子の顔が浮かんだ。
ちょっとつり目の、すごくかわいい女の子が目を閉じてキスを待つ。
「っわ」
思わず佳樹をはねのけていた。
「ごめん。……えぇと、汗臭いかなって、気になっちゃって」
わたわたと誤魔化す。
実際、汗をかいたあとだし、言い訳だけど嘘でもない。
それよりも、今見えたのは何だったんだ?
「全然気にならないのに。ま、帰ろっか」
手を握られ、そのまま並んで歩く。
佳樹は何か話していたけれど、私は何となく聞き流しながら適当な相づちを打つだけで精いっぱいだった。
あの女の子は誰だったんだ。
家に帰り、ご飯を食べながらも頭の中であのかわいい女の子の顔がぐるぐる回ってた。
「あ」
今、テレビに映った子。
弟が好きなアイドルグループの中の一人。
「この子だ!」
ちょうどクローズアップされた顔はやっぱりあの女の子と同じに見えた。
「なに、ねーちゃん。真咲ちゃん推しなの?」
「あら、この子ちょっと、まなかに似てるわねぇ」
母親の欲目って怖いわ。似てないよ、全然。
「似てねーよ。ねーちゃんは目つき悪いだけだけど、真咲ちゃんは子猫っぽくてかわいい!」
そして弟の的確な口の悪さといったら。
いつもなら言い返すところだけれど、今はそんな気にもならず、ただテレビの中の真咲ちゃんとやらを見つめる。
「えぇ? 似てるわよぉ。髪の長さも同じくらいだし、細っこくてシルエットが似てるし。……あぁ、でも胸はちょっとだいぶ、あれかな?」
画面と私を見比べる。うん。母親も割とひどい。
「それはもう似てないって言うんだよ」
他愛もない言い合いをしている母と弟に口をはさむ気にもならない。
女の子の正体は分かった。だけど、なんで突然あの顔が浮かんだかはわからないままだ。
「ごちそうさまぁ」
お茶で流し込むようにして食事を終わらせた。
そして二回目がやってきた。
何がって、キスだ。そしてあの映像。
多少免疫ができたせいか、前回のように佳樹をはねのけることはせずに済んだ。
照れたように微笑む顔。そして『もういっかい』と目を閉じ顔を近づける。
「まなか?」
よろめいた私を心配そうに見つめる佳樹がそこにいた。
ちょっと待って? いま、ちょっとあり得ないことを考えてる。
どうしよう。……確認、する?
うん。ずっともやもやしてるよりマシだ。どうせ勘違いだ。
佳樹の手を掴んで、ちょっとだけ背伸びして、くちびるを重ねた。
「ねぇ、佳樹ってTONEの真咲が好きなの?」
思わず口に出して聞いていた。
キスの後の唐突な私の問いかけに佳樹はあからさまに狼狽えた。
キスの時、浮かんだ映像は深いくちづけ。そしてそこから先に進もうとボタンをはずそうとする手。
相手の顔は真咲だった。
なんかもう、すとんと納得できてしまった。
見えたのは佳樹の思考なんだろう。
別に、好きなアイドルの一人や二人いるのは全然問題ない。私だって好きな俳優さんもいるし。
ただ、代わりにされているみたいなのは、ちょっと、かなり、うん。イヤだな。
多分、私のことだって好きでいてくれてるとは思うけれど、それでも。
「ごめん。帰るね」
あんな映像、私のただの妄想の産物かもしれないのに、そうでなくても、見えないはずのものを勝手に見ておいて佳樹のせいにするのは違うとも思うんだけど。
どうしようもない気持ちのまま、逃げるようにその場を後にした。
「こんにちは。ん、こんばんは、かな?」
夜というにはまだ明るくて、でも「こんにちは」にはそぐわない時間だ、確かに。
それより、誰だろう。
あのあと、まっすぐ家に帰る気にもなれず、だからといって行くところもなく、駅前のベンチでぼんやりと時間をつぶしていたところだった。
声は明るいけれど、影のように真っ黒な服装の同年代の男子。
「隣に座ってもいい?」
「……どうぞ?」
人懐こい笑顔の男子の声にうなずく。丁度いい。
相手が座ったのと入れ違う形で立ち上がる。
いいかげん帰ろう。
「ぅわ。それはないでしょ。待って待って。僕はキミに答えをあげられるよ!」
手首を掴まれ、仕方なく振り返る。
「なに?」
「ごめん。通報はやめて。話を聞いて」
スマホを出した意味を正確に把握したらしい男子は慌てて手を離す。
その様子がおかしくて、少し笑った。
「何の話って?」
人一人分あけた隣に浅く座って、とりあえず話を聞いてみることにした。
「で、答えって?」
こちらの顔を見ながらにこにこしたまま話し始める様子もない男子に促す。
「そうだった。うん。どこから話そうか。とりあえず自己紹介。僕は蒼汰って言います」
名乗って、こちらを窺うように見つめる。私にも名乗れってことか?
「まなかです」
「いや、それは知ってる。うん。そうだよね。単刀直入に言うとキスの呪いを解きに来ました」
なんとなくさみしげに微笑ったあと、蒼汰は表情をまじめなものに変えた。
「呪い?」
「そう。気づいてるでしょう、まなかちゃんも。キスをすると相手の心の中が見えてるって」
「……本当に?」
そうじゃないかと思っていたけれど、見ず知らずの他人から言われると半信半疑な話だ。「だって、実際見えたんでしょう?」
「だけど、気のせいかもしれないし……それにどうして蒼汰くんは初対面なのに知ってるの……ストーカー?」
「誤解だ。濡れ衣だ。違う。まなかちゃんの頭の中で見えたかどうかなんて僕がわかるはずないでしょ、たとえ覗いていたとしても!」
必死の否定が余計に怪しいんだけど。
「だから、そうじゃなくて、僕は知ってるだけなんだ。ごめんね」
なんで謝るんだろう。
「呪いって言ってたよね? 私、誰かに恨まれてるの?」
実際、地味に困る呪いだろう。好きな人ができてもキスできない。
自分のことを本当に好きか確認できる! 便利! とかはさすがに考えられない。怖い。
「ちがう。そうじゃない」
「なんでそんなことわかるの」
詰め寄ると蒼汰は目を伏せた。
「わかる。本当はあれはただの約束だった。呪いにするつもりなんてなかった。ごめん。僕のせいなんだ、全部」
「……意味が分からない」
「だよね。ちゃんと話す。ただ、本当に悪意は全然なかったから。ただ、まなかちゃんのことが好きだっただけ」
なんだかかなしそうな顔で、でも柔らかく静かな声でそんなこと言われたら。
「…………待って。初対面、だよ、ね」
「ちがう。会ったことある。っていうか、仲良しだったよ。ずっと小さな頃だけど」
「小さい頃って……私、記憶力ないからなぁ。いつくらい?」
「僕は六歳でまなかちゃんは四歳かな。家が近所でね」
懐かしむ声。でも、思い出せない。なんだか申し訳なくなる。
「ん? ちょっと待って。二つも年上なの?」
同じ歳か一つくらい年下かと思ってた。童顔だ。
蒼汰はなぜか困ったように笑った。
「あぁ、うん。で、僕が引っ越すことになってね、よく一緒に遊んでたから、まなかちゃんが駄々をこねてね」
でも表情や話し方とかはやっぱり落ち着いているかな。
「駄々?」
「うん。泣いてね、僕の服をつかんで離さなくって、困ったけどうれしかったな。僕も本当はずっと一緒にいたかったし。その時に約束したんだ。絶対会いに戻ってくるって」
うかがうように蒼汰はこっちを見たけれど、やっぱり思い出せない。
幼稚園くらいのころの記憶なんて、全然ない。蒼汰のことに限らず。
「ごめん」
「謝ることないよ。まなかちゃん、小さかったし。それにあの時自分で『早くしないと忘れちゃうかも、忘れんぼでいつも怒られるの』って言ってたし」
思い出したのか、楽しそうに蒼汰は笑う。
ちょっと、恥ずかしいからやめてほしい。
「……ねぇ、その約束がどうして『呪い』につながるの?」
幼い微笑ましい再会の約束が、キスすると相手の考えていることがわかる呪いになるのか。
「まなかちゃんがわすれても、僕が忘れないから大丈夫って言ったんだ。でも、納得してくれなくて……その時にテレビで観た『キスすれば全部わかっちゃうよ』って話をして」
「何それ」
「僕も子供だったから、うろ覚えだし解釈間違ってるかもだけど、恋愛ものでたぶんキスをすれば嘘くらい見抜けるみたいな話だったんじゃないかなぁ。で、キスしたら、まなかちゃんが『ほんとだね』って笑ってくれて」
えぇと、どこから突っ込むべきなのか。とりあえずファーストキスはずいぶん前に終えていたようだ。
「どうして『呪い』にかかっちゃったのかはわからない。でも原因は確実にその時のせい。ごめんね」
「蒼汰くんが謝ることじゃないと思うけど」
聞き分けのなかった当時の私も悪いんだし。
「で、どうやって呪いを解くの?」
「また会えてうれしいよ」
まっすぐにこちらを見る蒼汰に両手首をつかまれる。
「な、どしたの、急に」
「ずっと会いに来たかったんだ」
なんだか泣きそうな表情から目が離せないでいるなか、くちびるが触れ合った。
懐かしい想い出が、見えた。
「……蒼ちゃん」
「もう、大丈夫だよ」
そして一瞬の瞬きの間に、蒼汰の姿はもうなかった。
「おかーさん。蒼ちゃんって覚えてるっ?」
「まなか、忘れてるのかと思ったわ……なら、あの時教えてあげれば良かったね」
ただいまも言わず駆け込んだ私に母は静かに目を伏せた。
「あの時?」
「もともと体が弱くて、引っ越しも病院に近いところへって話だったのよ」
母たちは細々と付き合いが続いていたらしい。
「だんだん元気になってきていたって聞いていたんだけれど、二年前」
つまり、もう二度と会えないってことだ。
掴んだ手の力や、ふれた感触も覚えているのに。
思い出してしまったのに。
「もう忘れないから、戻ってきてよ」
部屋に入り、ベッドに突っ伏す。
一緒に本を読んだりお絵かきをしたりしていた。わがままを言っても、いつもにこにこ笑って許してくれていた。
大好きだった。たぶん、きっと初恋だった。
だから、別れがかなしくてかなしくて、忘れてしまった。
「ごめん。蒼ちゃんはずっと覚えていてくれたのに」
思い浮かぶのは、今日会った笑顔の、だけどどこか悲し気な蒼汰で。
もう何も伝えられないことが、どうしようもなく寂しかった。
ぼんやりとしたまま、一日の授業をなんとか終わらせ、昨日と同じ駅前のベンチに立ち寄る。
昨日と同じくらいの時間になっても、蒼汰は現れない。当たり前だ。
そろそろ帰った方が良いことは分かっていても、立ち上がる元気が出ずに足元に伸びる影を眺める。
「まなか!」
慌てて顔を上げる。
うん。わかってた。声も、呼び方も違う。
そして、すっかり忘れてた。
「佳樹」
本当に忘れっぽいな、私は。
あの時は結構ショックを受けていたはずなのに、蒼汰に会ったことですっかり抜け落ちていた。
「おれ、何かしたか? 気に障ることしたなら謝る」
「……ちがう。そういうのじゃ、ないんだけど」
完全に違うわけでもないけれど、勝手に記憶を見て、それを佳樹のせいにするのもどうかと思うし。適当な言い訳を探す。
「ごめん。子どものころのことを急に思い出して、……ごめん」
「そんなに謝らなくても……なぁ、それって」
私の表情で察したらしい佳樹が眉をひそめた。
「ごめん。わかれよう」
蒼汰は『もう大丈夫だよ』と言ってくれたけれど、何にも知らなかった時と同じように佳樹とはいられない。
そしてまだしばらくは蒼汰のことを引きずりそうだった。
「大丈夫じゃないよ、蒼ちゃん」
小さく笑って、こぼした。
Jul. 2020
関連→とどまる約束