ひそかの裏庭



 それがいつから始まったかは覚えていない。
 小学生の頃は、確かなかった気がする。
 気にとめていなかっただけかも、知れないけれど。
 はじめは目の錯覚というか、見間違いとか気のせいだと思っていた。
 視界の端を何かがよぎり、振り向いても何もない。
 それがごくたまに。
 月に数度。
 週に二,三度。
 徐々にその頻度は上がってきた。
 特定の時間とか決まった場所とかはなく。
 だから、まだ気のせいだと思っていた。
 決定的だったのは高校受験の日だった。
 その学校が本命で、でも成績的には特に問題はなく合格できるだろうとは言われていた。
 指定されたのは窓側一番後ろの席で、背後に他の受験生の気配を感じなくて済むのはちょっとラッキーだなと思った。
 試験官が答案用紙を配る最中、やっぱり視界の端に何かがよぎった。
 またか、と思う程度には慣れていたけれど、それでもつい癖でほんの少し振り返った。
 その先に、何かがいた。目が、合った。
 ――そのあと、どうやって試験を受け、家に帰りついたかは覚えていない。
 熱を出して数日寝込み、そして届いたのは不合格通知だった。


 本命の高校に落ち、だからといって高校浪人するわけにもいかず、滑り止めで合格していた女子高に通うことになった。
 偏差値的には普通レベルの学校で、ただ歴史は古く、小学校から高校まである一貫校で、高校からの編入は全体の三分の一程度。
 今はそうでもないけれど、もともとは良家の子女が通うお嬢様学校だったせいなのか、穏やかな校風の学校で、高校編入組でも特に疎外感なく受け入れられていた。
 そんな中、私はクラスに馴染めず、一人でいた。
 相変わらず、何かが視界の端をよぎる状況は変わらなかった。
 多いと日に数度もあるそれに、今はもう決して振り返らなかった。
 ただその先にあの『目』があるかと思うと、それがよぎるたびに、体が強張る。
 視界が広ければ見る可能性が高い気がして、うつむきがちになった。
 当初は話しかけてくれていたクラスメイトも、急に体を強張らせ、視線を合わせないような私に次第にかかわらなくなったのは仕方ないことだと思う。
 無視されたり排斥されているわけではなかった。
 挨拶もするし、グループ学習とかは問題なく輪の中に入れてもらえていた。
 ただ、クラスメイトだったというだけで友達ではなかっただけだった。 
 

「ごきげんよう?」
 増築された校舎と塀の間に忘れ去られたようにぽつんと一つあるベンチを昼休みの定位置にしていた。
 誰も来なくて、誰にも見られなくてちょうどいいって思っていたのに、こちらを覗き込むように首をかしげる美少女が現れた。
 クラスメイトの顔と名前もろくに一致していない自分が、別のクラスだというのに知っているくらいに目立つ子だ。
 どことなく神秘的な雰囲気のせいか、群れずにはいるけれど、はみ出している自分とは違って凛としていて孤高のイメージがある。
 それなのになんでこんなところに。
「ここ、良い?」
 声音は思ったより柔らかかったけれど、反射的に立ち上がる。
 わかってる。遠回しにどっか行けってことだ、これ。
「ど、どうぞ」
 広げかけていたお弁当を慌ててしまいこみ、ベンチを開ける。
「うわ。ちょっと待って。追い出すつもりはないんだよ! お昼一緒にして良いかなって思っただけで、ダメなら私がどっかに行くよ!」
 引き留めるようにボレロの裾を掴む。
「え?」
「え、って。私そんなに怖いかな? クラスでも微妙に遠巻きにされてるんだよね」
 肩で切りそろえられたまっすぐな黒髪、黒目がちで、まつ毛長くて肌が白くて、小柄だけど顔も小さくて姿勢が良いからスタイルも良く見えて、お嬢様学校の名残の「ごきげんよう」のあいさつが違和感なくしっくり似合う美少女は、小さく頬を膨らませ少し幼い表情で眉を顰める。
「そ、れは、たぶん薙笹(ちささ)さんが美人、だから近寄りがたいっていうか」
 改めて近くで見るとやっぱり美少女で、直視できずに目をそらす。
「それはやっぱり怖いということじゃ……美人って言われるのは嬉しいけど、避けられてたら本末転倒。っていうか中身ばれたら余計に避けられるやつかな。残念過ぎて」
 ぽそぽそと独り言のつもりなんだろうけれど、まる聞こえだ。
 やっぱり私は立ち去った方が良いのでは。幸いボレロを掴んでいた手ははなれているし。
「うわ。やっぱり逃げようとしてるでしょ」
 何か察知したようだ。今度は袖口を掴まれる。
「やっぱり怖い?」
「怖くは、ないです」
 上目遣いで見てくる様子はどちらかというと可愛らしい。
「じゃ、一緒にお弁当食べよう!」


「え、と。薙笹さんは何でこんなところに?」
 もぐもぐと三つ目のパンを頬張っていた薙笹さんは目を瞬かせながら首をかしげる。
 癖なのかな。小動物みたいでかわいいけど。
「薙笹さんって呼びにくいから響でいいよ、視附(みつけ)さん。私も灯里ちゃんって呼んで良い?」
 反射的にうなずいたけれど、質問の答えにはなってないし、確かに「さ」が多くて呼びにくい。けれど何よりこちらの名前を、それもフルネームで知っていたことに驚いた。
 薙笹さんのように目立つ容姿でもないし、できるだけ人目につかないように一人でいたし、……それが悪目立ちしていた可能性もあるけど。
「気になってたの、ずっと。話してみたいって思ってたんだ、灯里ちゃんと」
 屈託なく笑う、でもその目はやっぱり吸い込まれそうなほど神秘的だった。


 会話が弾むほどではないけれど、気詰まりでもない程度にぽつぽつと話をしながら昼食を終えた。
 響ちゃん――と呼ぶようにしつこく言われた――は、総菜パンや菓子パンを併せて五個ぺろりと平らげていた。小柄で細い体のどこに入っていったんだろう。謎だ。
「明日もここにいる?」
「う、ん」
「じゃ、また明日ね。灯里ちゃん」
 次が体育だから先に行くね、と口をはさむ間もなく走って行ってしまう。
 そして自分以外誰もいない、いつも通りの静かな場所になった。
 静寂がいつもより深い気がするし、日陰が濃い気もする。
 たぶん久々に誰かと一緒だった反動だろうとはわかっている。でも、それが少し怖くて、いつもならチャイムぎりぎりまで居座るベンチから逃げるように教室に戻った。


 あれから毎日響ちゃんは校舎裏のベンチに来るようになった。
 一緒にお昼ご飯を食べて、授業の話や取りとめない話をして、昼休みが終わる少し前に二人で校舎に戻る。
 クラスでは相変わらず一人だけれど、以前よりは気構えずにクラスメイトに挨拶もできるようになった気がする、少し。
 だから、気が緩んでいたのかもしれない。
 その日は朝から曇りがちで、予報は夕方から雨。お昼休みくらいは何とか大丈夫だろうといつものベンチで二人でご飯を食べはじめた。
 あと少しで食べ終わるというところで、ポツンの頭に冷たいものが落ちた。
「うわ。降ってきたね」
 同時に気が付いたのか、響ちゃんが残っていたパンを慌てて食べ終える。
 私もお弁当箱の中身を空にして、本降りになる前にと急いで顔を上げたのが良くなかった。
 目の前を何かがよぎった。
 慌てて下を向くと、そこに『目』があった。
「――っ」
 こんな風にがっつり『目』があうのはすごく久しぶりで、思わず飛び退く。
 ……やってしまった。
 心臓がばくばくと音を立てる原因は『目』のせいなのか、響ちゃんの前で奇行をさらしてしまったせいなのか。
 『目』も怖いけれど、せっかく少し仲良くなった響ちゃんに避けられるのもつらい。
 どう、誤魔化そう。なにか、なにか。
「灯里ちゃん、やっぱり見える人なんだ」
「……え?」
 おそるおそる顔を上げると、いつも通りよりは少し凛とした眼差しでこちらを見つめる響ちゃんがいた。

 
「とりあえず、追い払うね」
 響ちゃんはお昼のパンが入っていたトートバッグから細長い袋を取りだし、中身を引き抜く。
 黒い横笛。
 響ちゃんは唇に触れさせ、目を伏せる。
 柔らかな音が紡がれる。優しくて、少しさみしくも聞こえる。その音が、すごく心地よくて、強ばっていた身体から力が抜けた。
 もう、『目』はいなくなったと感じた。
 ゆっくりと音が収束して、響ちゃんが笛をしまってもまだ体の中に音がひびいている気がした。
「もう、大丈夫?」
 夢現のように、ぼんやりしている中に声をかけられ、あわててかくかくと頷く。
「結構、濡れちゃったね。ごめんね。これ、良かったら使って」
 バッグから出したタオルを渡すと響ちゃんはそのまま行ってしまう。
 いつもみたいに「また明日」とも言わずに、自分も濡れたままなのに。
 まったく良くわからないまま、それでも予鈴が鳴ったので、仕方なく教室に戻った。


 雨は翌日も降り続いて、お昼には土砂降りだったせいで、響ちゃんとは会えなかった。
 雨の場合のお昼の場所を打ち合わせておくべきだった。
 その翌日からは祝日を含めた三連休で、休み明けの火曜日はお昼になった頃、ぽつんぽつんと小さな雨を落とし始めた。
 このぐらいなら、もしかしたらといつものベンチでお弁当を食べながら待っていたけれど、響ちゃんは来なかった。
 水曜日は快晴。今日こそはと思ってたのに。
「……来ない、なぁ」
 ほんの少し前まで、一人で食べるのは当たり前だったのに、すごくすごく味気ない。
 やっぱり、気味が悪いと思われたのだろうか。
 でも、『見える』って知ってるみたいだったのに?
 単純にめんどくさいとか、つまらないって思われただけなのか。
 そして翌日木曜日。今日もやっぱり響ちゃんは来なかった。きっともう来ないつもりなんだろう。仕方ない。嫌だけど仕方ない。
 せめて借りたタオルは返して、ありがとうって伝えたい。
 明日は会いに行こう。
 拒絶されて、凹む結果になったとしても、土日休みでどうにか回復するだろう。
 決めたら、少しだけ元気が出た気がする。
 たぶんカラ元気だけど。


 心臓がバクバクする。
 足が重い。やっぱりやめておこうかと後ろ向きで安易な気持ちが強くなる。
 それでもやっぱりタオルは返さないと。
 どうにか響ちゃんのクラスまでたどり着き、教室の中をのぞく。
 いた。
 けど、窓際の席でぼんやりと外を眺めていて、こちらに気づきそうもない。
 昼休みの教室は騒がしくて、それなりの大声で呼ばないと聞えないだろう。
 できるか?
「どうしたの? 誰か、呼ぶ?」
 ドアのすぐそばの席でお弁当を広げていた子が気づいて声をかけてくれる。
「あ、あの。え、と。ひ、薙笹さんを」
「わかったー」
 気軽に請け負って、響ちゃんの席まで行って声をかけてくれる。
 こちらを振り返った響ちゃんは驚いたような、そして嬉しそうな顔をしたように見えた。
「ありがとうございます」
 席に戻ってきた彼女にお礼を言うと微笑まれる。
「薙笹さん、最近元気なかったけど、良かったよ。仲直り?」
「あ、の」
「のんびりしてるとお昼休み、終わっちゃうよ」
 どう答えたものかとまごまごしているうちに、彼女はこっちまできてくれた響ちゃんの背を思い切り押し出す。
 にこやかに手を振って見送られて、響ちゃんと顔を合わせて、小さく笑いあった。


「今更だけど、ごめんなさい」
 いつものベンチに座ったと同時に響ちゃんはがばりと頭を下げる。
「え」
 何か謝られることがあっただろうか。思い返してみても、わからない。
「だって、私、灯里ちゃんが『見える』ことがわかってたのに、もっと早くどうにかもできたのに、黙ってて」
「響ちゃんは私みたいな、気味が悪いのと一緒にいるの嫌になったのかなって思ってたんだけど」
「ないよ! 絶対ない。そんなこと言ったら、笛で『異形』を追い払う私のほうがアレだし」
 吸い込まれそうなくらいに綺麗でまっすぐな目が私を見つめる。
「いぎょう?」
「うん。灯里ちゃんが見るみたいなヤツ。とは言っても私には見えないんだけど」
 ちょっと困ったような笑みを浮かべる。
 見えないのに、私が見えることに気づいていたってことは。
「私、そんなにあからさまにおかしな行動してた?」
 気を付けていたはずだ。たとえ変な影を見ても、何もないふりをしていたつもりだ。
「……これ言うと、すごく引かれそうなんだけど。私は多分『異形』に近いんだと思う。灯里ちゃん、あったかい光をまとって見える。『異形』もそれに惹かれて灯里ちゃんに寄ってきてるんだと思う」
 うーん?
「だから入学式の時から、気になってたの。見てたの。だから気づいたの、『見える』人なんだって。ごめん。ストーカーみたいだよね。なんかもう、いろいろ、強引だったし、本当に気持ち悪いよね……ごめん。もう近づかないようにする。でも今日は会いに来てくれて嬉しかった」
 響ちゃんは必死に言いつのった後、視線をぽつんと落とす。
 なんか、良くわからないけど、これはダメだ。ちゃんと言わないと。
「ね、響ちゃん。私、響ちゃんといるの楽しいよ。会えなくて、寂しかったし。これからも一緒にいたいよ」
 手を握るのはさすがに恥ずかしくて、そっと響ちゃんの袖を引く。
 顔を上げた響ちゃんの笑顔がすごくうれしそうで、おなじだけ嬉しくて自然と頬が緩んだ。
 

【終】




Jan. 2021
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