おなかがすいた。
空腹をごまかすため、一.五リットルのペットボトルに口をつけ傾けるとごぼごぼと音をたてて水がのどを潤す。
「さすがに、限界かなぁ」
ぼやくように呟く。見あげる空は嘘くさいほどに晴れ上がった青。その視界がざらざらとかすみはじめ、倒れる前にゆっくりとしゃがみこむ。
吸血鬼が貧血なんて、しゃれにもならない。
「やっぱり、もうちょっと真面目にいただいておくべきだったなぁ」
公園に人気がないのを良いことにそのまま地面に転がり目を閉じる。
人様から血をいただく、というのは実はたいそう面倒だったりする。
だいたい吸血鬼とはいっても人間とたいした違いはない。多少人間よりも頑丈で、長命ではあるが、栄養摂取が血液でしかできないのでは不便以外のなにものでもない。
輸血用の血液パックなんて一般人では到底手に入れられないし、入手できたとしてもどんな人間の血が入っているかわからないようなもの怖くて飲めるはずもない。
ということで栄養補給のためには好みにあう人間を見つけて言葉巧みに誘ってご馳走になるしかないのだけれど、それが面倒でつい疎かにしてしまうのだ。しかしいつもはぎりぎり一歩手前で切羽詰ってどうにかこうにかそれなりに好みの人間を確保するのだけれど、今回は見つけられずにこの状態だ。己のものぐささが呪わしい。
「空腹じゃ死ねないところが忌々しいが」
このまま意識を手放したとしたら、通りすがった人間を本能がおもむくままに貪るのは目に見えている。できればその状態は勘弁してもらいたい。理性が残っているいつもは相手の生命に害がない程度の摂取でとめているが、その状態では吸い尽くしてしまいかねない。変死者を出すのは非常にまずい。今後生活する上で。
「……おにーさん、大丈夫?」
唐突にふってきたやわらかな声に薄目を開ける。
のぞき込んでいるのは白い整った顔。清廉な空気。悪運には見捨てられてなかったらしい。びっくりするほど好みのタイプだ。少々若すぎる感はあるけれど。
「いただきます」
もう言葉を尽くして騙す気力なんか残っていない。腕を伸ばし細い首筋を引き寄せる。
が、少女はふいと身をそらす。避けるなよ。
「いただきます、されるのはちょっと困るな」
嫌悪しているわけではないらしい、淡い苦笑い。
「人助けだと思って」
「おれの血は強すぎて、毒だよ」
目を伏せて、自嘲的に放たれた言葉のどこにつっこんだら良いだろう。
「おにーさんは、オンナノコがおれって言うのは感心しないなぁ」
とりあえず一番核心から遠い部分に触れる。これほど空腹なのに、話題をちゃんと選ぶ辺り我ながら余裕がある。
少女は笑う。呆れたようにではあるけれど。うん、せっかくだからそんな表情のが良い。かわいいから。
「変な人だなぁ。あえてそこをつっこむ? っていうか、おれはオトコノコなのですが」
差し出された手をつかむとひっぱり起こされる。
「そんなキレイな顔して?」
目をこする。空腹で目がいかれているわけではないようだ。声は多少低めだけれど、女で通じないほどではない。細い肩、手足、なにより整った顔立ち。……あぁ、確かに胸はないけれどな。本当に男の子だとしたら中学生といったところか? 少々発育不良気味。
「それ以上言うと、殴りますよ?」
にっこりと完璧な微笑をたたえて言う。
イヤなのか? まぁ、いいや。それより。
「で、キミは何者なの」
ただものであるはずがない。一目でこちらを見抜いた。吸血鬼ということまでわかったかどうかはしらないが、人外だということは気づいているはずだ。
「あー……まぁ、同類ってことにしておいてよ」
曖昧に微笑む。
ありえない。人間を見誤るほどもうろくはしていない。特にほぼ飢餓状態の今なら尚更。本能が選ぶ。少しでも気を抜けば、力づくにでもやりかねない狂気がくすぶっているのだ。
「キミみたいに極上の人間なかなかいないよ」
男の子じゃなかったらもっと良かったけどな。
「無防備すぎだよ、おにーさん。おれは狩人なのに」
異端を駆逐する者。確かにそういうものは存在する。何度かは遭遇したこともある。
「狩人はもう少しゆがんだ存在だよ。少なくともいただきたいとは思えない程度には」
暗い愉悦を目に宿していた。どの狩人も自分を絶対者だと驕っていた。吐き気がするほどに近寄りたくない気配を湛えていた。
眼前の少年は、男だということに目をつぶってこのままご馳走になりたいくらいに清冽だ。
「あまいなぁ、ほんとに」
やわらかな微笑を浮かべ、少年はどこからか細い銀のナイフを取り出す。
なれた手つきでその刃を薙ぐ。少年の手首に朱線がはしる。
「っおい」
滲み出す緋色は少しずつ滴りだし、しかし地には落ちずに宙に球状に溜まる。
「ナイフ出したらさぁ、少しくらい怯えてくれても良いと思うんだよ」
自分の血には頓着せず、つまらなそうに少年は呟く。
「キミにならやられても良いかと思ってね」
宙に溜まるものに目を奪われながら答える。それは本音。長い生に飽きている部分も確かにあったから。
その返答はお気に召さなかったらしくかるく黙殺される。
「こんなものかな」
大きめの飴玉大になった紅珠を少年は無造作につまみ、なにごとか囁いたあと吐息を吹きかける。
「血、止まったのか?」
「えぇ。おれ治癒能力に優れてるのであのくらいの傷はすぐです。これ、どうぞ」
透き通った珠を手のひらにのせられる。
「これ……?」
それは少年の身から出た結晶。
「とりあえず、栄養補給にどうぞ。浄化はしてあるから問題ないです」
毒とか言ってなかったか? との思いが顔に出ていたのだろう。少年は苦笑いする。
「いただきます」
いろいろ気になることはあるけれど、空腹には勝てない。
口に含むと即座にとける。飢餓感が解消されていくのがわかる。しかし同時に座っているのもつらいほどの脱力感が襲う。
「ごめんなさい。量がちょっと多かったみたいだ。……しばらくすれば元に戻ると思うけど」
「ほんとに何者だよ、キミ」
能力も知識も半端ない。つかみどころがない。こんなことする理由もわからない。
「そんなの、おれが知りたいよ」
肩をすくめて呟いた言葉は、割と本当のことを言ってる気がした。
「じゃあ、なんで?」
「気まぐれ。それにこんなとこで飢えて暴走されたら困るしね」
少年はいたずらっぽく笑って続ける。
「だから、今度はこんなになる前にちゃんと食事してね」
「……それを赦すのか?」
「なんで? 食べずには生きられないのはみんな一緒でしょ」
ひどくアタリマエに言う。
「また会えるか?」
じゃあね、と踵を返した少年の背中に声をかける。
返事がないまま小さくなっていく後姿を見送った。
「夢、か?」
いつの間にか眠っていたようだ。目を開けると瞬く星が目に入る。
何事もなかったようにひっそりとした公園。
周囲に倒れている人間がいないということは理性を失って吸血行為をしたと言うわけではなさそうだ。にもかかわらず満腹感がある。
つまり現実だったのだ、あの謎めいた少年の存在は。
「世の中には不思議なことがまだまだあるねぇ」
飽きるほど長いあいだ生きつづけても。おもわず笑みがこぼれる。
また会うこともあるだろう。きっと。
まずはとりあえず、その日まで。
「生きててみますかね」
Jan. 2007
関連→Vamp