※ ※ ※
首にかけられる手。
暗闇。息の温度。
ぼんやりと浮かぶ顔。
徐々に力が込められる指先。
「おじ、うえ……」
息苦しさより先に、生きていてくれたという喜びがわく。
そんなはずがないことは、自分が一番よくわかっているにも関わらず。
夢だと、わかっていても。
この首に込められる負荷に身を任せ、何もかも放棄してしまえれば、楽になれるのに。
形を変え、幾度もあらわれる自分の罪を、もう見なくてすむのに。
※ ※ ※
指先で窓をたたき、コツコツと音をたてる。
きちんと手入れのされた邸宅であるにも関わらず、どこか廃墟めいた雰囲気をかもし出していることに
返事はないだろうと予想していた。
『力』を使って鍵をあけ、なかに入る。
仄暗い部屋の中、ベッドの周辺が、より暗く沈んでいた。
小さくため息をこぼし、ベッドに近づく。
布団の中、眠る少女の閉じられた目からは絶え間なく涙が流れ落ちる。すべてを放棄したような表情が痛々しい。
形を保てないような低級魔を寄りつかせるほど弱っているとは思わなかった。
「『退け』」
短く術言を吐き、淀みを散らす。
「
少女を呼ぶ。
捕らえている、夢の檻を壊すために。
「流希、起きろ」
細い首に残る魔の痕跡に触れ、ゆっくりと癒しの力を伝える。
「流希。おれに後悔させるな」
守りたいからこそ、離れていたのに。
こんなところで、取り返しのつかない事態に陥るなんてことになったら。
「……りょ、にぃ……泣いて、るの?」
静かな声が耳に届く。
自分を見つめる淡い色の目に気づき、良は半ば安堵のため息をつく。
「あのさ。泣いてるのは流希だろ?」
「……私に、泣く権利は、ないよ?」
目を伏せ、淡々と呟く。
負ってしまった傷を、なかったことには出来ない。
「おれに黙って死ぬ権利もないよ。流希には」
あえて厳しい言葉を使う。
自分勝手な言い分だとは承知の上で、枷を与える。
「生きる、権利なんてない」
流希は顔を背ける。
それほどまでに、深く食いこんだ傷。
不可抗力とはいえ、伯父を殺めたという事実。
その記憶を封じてしまえば、きっと楽になれるだろう。けれど、それは結局その場しのぎでしかない。
その時に、自分がその場所にいられたら、自分が手を下せたのに。
それが、流希の罪悪感を更に増すことになったとしても。
決して口には出来ない、今となっては無意味な繰言。
かけるべき言葉を見つけられず、ベッドにもたれ、後ろ手に流希の後頭部に触れる。
「《ばくは、おもっていました。さみしいと。》」
幼いころ、悪夢を見て眠れずにいる流希によく読んだ絵本。
もう、諳んじられるほどに。
流希から力が抜けるのがわかって、そのまま物語を続けた。
――。
「さ、て」
途中で流希が眠りに落ちたことはわかっていたが最後まで語り終え、身体を起こす。
やわらかな寝息。
これ以上、悪夢を見ないように、淀みが近寄れないようにベッドの頭部に魔除けの紋を描き、部屋を出る。
「まったく、あのバカは何のために日参してるんだ」
顔を見にくるだけでは意味がない。
廊下に立ち込める、先ほどとは比にならない濃い淀みに苦々しく吐き捨てる。
息苦しいほどの瘴気に気付かないほど鈍感なのか、弟は。
「どっちにしろ、使えないな」
とりあえず、今出てきた流希の部屋のドアに浄化の紋を描く。
片っ端から浄化紋を描かなければならないことを考えて、その作業量にうんざりする。
ここまで放っておいた弟に、何らかの報復をすることを決意して、良は作業に取り掛かった。
どれだけ紋を描いただろうか。
無駄に広い屋敷、多い部屋数。
機械的に作業をこなす。
突き当たった部屋の扉にも、同様に紋を描きかけて、途中で手を止める。
寒々しい悪意。
凝縮された淀みが、開けたドアからあふれ出ようとするのを押し留める為、慌てて閉める。
吐き気がするほど重い澱。
音ならぬ嗤い声が響く。
自らの死による束縛を叶えた、暗い歓喜。
血の臭い。灼きついた思念。
壁にもたれ、崩れそうになる身体を何とか支える。
「……見せたくないな」
こんな現場。
体験した流希はもちろんのこと。
「浄化だ、浄化」
自分に言い聞かせるように声に出す。
例え、どんな感情であろうとも人の思念の浄化は不遜な行いだという思いが拭いきれない。
けれど、その考えも傲慢な言い訳に過ぎない。
余計な思考を一旦頭の隅に押さえ込むと良は姿勢を低くし、床に指で同心円を描く。
形として目には映らない円の中に浄化のための文言を書き入れ、中央に座すと低く詠う。
空気が緩みはじめるのを感じとり、声を止める。
一度に完全な浄化をするには淀みが大きすぎる。無理な浄化は、別のひずみを作る原因となりかねない。
きっかけさえつくっておけば、ゆっくりとであっても、確実な浄化につながる。そのための布石を敷いて良は部屋を後にした。
「まだ、寝てるな」
すべての部屋のドアに紋を描き、流希の部屋に戻ってきた良は浅い寝息をたてている姿を見て目を細める。
出来ることなら、安全な場所の閉じ込めてでも守りたかった。良自身が、辛くなりたくないためだけに。
それを甘受するような流希であれば、こんなに大切に思わなかったかもしれないけれど。
勝手な想いに自嘲の笑みを漏らす。
時は戻らない。
どれだけ強い力ももってしても、進むしかない。
「また、来るよ」
そっと流希の髪に触れ、来たときと同じように窓からバルコニーに出た。
コツコツ。
前夜とおなじように良は窓をたたく。
予めわかっていたかのように、すぐに窓があけられる。
「良にぃ、玄関から入ってくればいいのに」
静かな声。
非難するでもなく、ただ淡々と。
「今日は泣いてないな? 顔色もだいぶよくなってる」
流希の顎に手をかけ、ほのかな明りの下で確認する。
「……昨日も泣いてないよ」
その言い分に良が笑みを漏らすと、流希はそっぽを向く。
「わかってるよ」
どちらとも取れる言葉を口にした良は、窓を閉めソファに腰を下ろす。
「昨日、ありがと。ごめん。大変だった、よね」
「いや」
部屋に備え付けられたミニキッチンの前に立ち、小さく呟く流希の背に短く応じる。
お茶を入れて戻ってきた流希が良の前にカップを置く。
「ありがと。いただきます」
あまい香りの紅茶に口をつける。
流希も向かいに座り、手にしたカップからゆれる湯気をぼんやり眺めている。
静かな空気が流れる。
お互いに無言が苦になる間柄ではなく、さほど気になる間ではない。いつもなら。
なんとなく流希が言葉を探しているように感じられ、良は目線で促す。
「……良にぃ、いいの?」
躊躇うようにカップに触れた流希は、それでもまっすぐ良を見つけて尋ねる。
「いいよ」
何を指しているか、すぐにわかった。
良の即答に、流希はくちびるをかむ。
「よくないよ。私は、一人でもいいんだから。良にぃを、巻き込めない」
先日、カノジョと一緒にいるところを見られたのも、この言葉の原因のひとつだろう。あれは失敗だった。
しかし、それとこれとは全く別問題だ。良にとっての優先順位はずっと流希にある。
「おれは初めから行くつもりだったから。流希が、行く、行かないに関わらず」
嘘はない。
しっかりと視線を合わせ、良は続ける。
「流希はいいのか? 行くしか選択肢がないと思ってるなら間違ってるよ? 流希がこのまま残るというのも有りだと思ってる」
実際、残るべきなのではないかと考えていた。
せっかく心許せる友人にも会えたのに、このまま別離を選ぶことはない。
「それはできない」
きっぱりと。
そのまっすぐな姿勢。
「なぜ?」
「決めたから」
つよい視線。
わかっていた。たぶん、答えは。
その道がいいほうに進むかどうかはわからないけれど。
「なに、良にぃ」
かすかに笑った良を流希は不審そうに見る。
悪いほうに向かわせるつもりはない。絶対。
「なんでもない。……じゃあ、一緒にいこう」
本当は、望んでいた。
そばにいて、守りたいと。
それがエゴだとわかっていても。
「後悔、するよ?」
淡く深い色の瞳に見つめられ、良は目を伏せる。
「しないよ。もし、したとしても構わない」
つよく、笑って見せる。
決めたのは自分も同じ。
「良にぃは、私に甘いからなぁ」
困ったように流希は微笑んだ。
「早かったな」
流希の部屋で待機していた良は、戻ってきた流希に声をかける。
最後だからゆっくりしてくるように伝えてあったのに、まだ正午前だ。
流希は応えずにベッドに突っ伏す。
へこんでいるらしいその様子を、良は苦笑いめいたため息を漏らし見つめる。
「ちゃんと、決めてたのに。なさけない」
残る、未練。
「大事なモノがあるっていうのは、大切だよ」
それは自己弁護の言葉かもしれない。
ここに残していく。
「強く、なるから」
顔をあげ微笑う流希に、良も笑みを返す。
大人しく、守られるだけの存在にはならないという決意。
それだからこそ、守りたい。
そのために、強くなりたい。
「……ごめん。遅れたっ」
部屋に駆け込んできた弟に良はため息をこぼす。
この手のかかる弟も、どうにか使えるようにしなければ。
それでも今は、まだ。
「じゃあ、行こうか」
新たなる場所へ。
そこを、ただの檻としないために。