しとしとしとと静かな雨音が暗闇の中、妙に耳に障る。
「……ダメだ。寝れる気がしない」
眠たいにもかかわらず、変に目がさえている。
ベッドに入ってかれこれ一時間以上。このままだと、おそらくもう二、三時間は眠れないまま、無為な時間を過ごす羽目になる。
明日、というか日付が変わっているからもう今日は普通に平日で、学校に行かないと、で。
「しょうがない、か」
ベッドから抜け出し、引出しの中から手探りで一枚のカードを取り出し、ベッドに戻る。
胡散臭い経緯で手に入れたこれは、【眠行 使用期限:無期限 眠交電車】などと、胡散臭い表記がしてありはするものの、ぐっすりと眠れるという効果は抜群の代物だった。
少々の面倒事を引き受けるという対価は必要なのが、玉に瑕だけれど、安眠には代えられない。
得体のしれない定期券を握って、しっかりと目を閉じた。
そして、気が付くといつもの寂れた改札口。
姿勢のいい愛想の悪い駅員が一人。
たぶん夢なのだろうとは思うけれど、誰の夢の中なのか。
「よ。渡井(わたらい)」
当初は慇懃に対応していた駅員は、クラスメイトだとばれた途端、態度を取り繕うのをやめ、挨拶もろくに返さない。
無言で差し出された写真を受け取る。
映っているのは特に背景もなく、人物だけ。それはいつものことだ。
「なんでモノクロ?」
いつもはごく普通のカラー写真なのに。
髪の長い女の人。結構美人。
若いけれど、大学生というよりもう少し落ち着いた感じ。二十代半ばくらいだろうか。
「いってらっしゃいませ、水弥(みずや)様」
答える気がないのか、知らないのか、こちらの疑問を黙殺して、定型句を口先だけの丁寧さで紡ぐ。
「はいはい。行ってきますよ」
怒るだけ無駄だ。渡井はこういうヤツだ。
改札を通り抜け、いつものようにホームに停まっている赤い電車に乗り込んだ。
かるい衝撃で目が覚める。
心地良い揺れに任せて、気持ちよく寝ていたのを阻害され、少々ムカつくが、仕方がない。
世の中ギブアンドテイクだ。
「働きますか、ねー」
声にしてやる気を出してみたものの、開いた電車のドアから入って来た湿気っぽい風に、思わず眉をひそめる。
「ここも雨かよ」
ホームに出ると雨の匂いが強くなる。
「傘もないし」
朝なのか昼なのか夕方なのか、さっぱりわからない薄灰色の空からは細い雨。
まぁ、こんな霧雨では傘があってもあまり役に立たないかもしれない。
憂鬱だけれど仕方がない。
諦めてホームから降りる。
周りは鄙びた雰囲気の町並み。小さな個人商店や民家が多く、全体的に背が低めの建物ばかりだ。
雨でぼやけるせいもあってか、なんだか古い映画のセットの中にいるような気分になる。
脇道がなく、直線道路の両側にひたすら並んでいるのも作り物っぽさを強調する。
「帰りたい」
人の姿のない中、ぽつりと零した声は、雨音にまぎれず、いやにはっきりと響いた。
シャツはしっとりと雨に濡れて肌に張り付き不快だし、薄暗い空も景色も気が滅入る。
だいたい、雨は嫌いだ。
以前に傷めた膝まで痛み出した気がして、足を止める。
「あー。もう。しっかりしろ」
気合を入れるように自分の頬を二度ほどたたく。
夢の中のはずなのにしっかり痛い。
そして大きく深呼吸をして顔を上げる。
ぐだぐだしていても、どうにもならない。今更、変わるわけでもない。
それよりも、さっさと対象者に会って、話して、何にも考えないで眠って、起きる。
「よし」
真っ直ぐつづくアスファルトの道を、対象者を見落とさないよう気を付けつつ、ゆっくりと歩いた。
どれくらい歩いたのか。
振り返ってももう、赤い電車の色はカケラも見えず、全てが灰色に染まっていた。
いい加減、どこかで見落としていたんじゃないだろうかと不安になる。
渡された写真はモノクロだったし、実物もそんなだったら、この灰色の景色に埋没してしまっていてもおかしくない。
「おれはカラーなんだけどなぁ」
雨に濡れて随分色濃くなってしまっているけれど、来ているシャツはくすんだ水色で、履きなれたスニーカーは紺色だ。
町の景色も雨にぼやけているせいでモノクロっぽいだけで、実際はそれぞれに色はある。
「どうするかなぁ」
戻るべきか、まだ進むべきか、周囲を見渡していると、何かが動いたような気がして目を凝らす。
少し先の店の軒先に人がいるように見えた。
驚かさないように、逃げられないように、静かに近づく。
「びしょぬれね」
向こうから声をかけられて、思わず足を止める。
「待ちくたびれちゃった」
拗ねたような顔を見せる。向けられた親しげな表情にどういう反応を返したらよいかわからず、曖昧に微笑む。
「もう。怒ってないわよ」
こちらの躊躇を勘違いして、その女の人はあきれたように笑いながら手を差し出す。
その手を思わず掴むと、軒下に引き寄せられる。
「あなたが遅刻するのも、今に始まったことじゃないんだし、……ここまで待たされるとは思わなかったけれど、傘もささずに、ずぶ濡れになって来てくれたなら、ね。文句も、どこかにいっちゃった。まぁ、出来れば傘は持ってきてくれると、私は濡れないですんだんだけど」
どこかに行ってしまったという割には、ちょいちょい文句をはさみながら、女性は肩を寄せる。
誰と勘違いしているのだろう。
どう、返せば、正しいのか。
「ごめん」
言葉にできたのは、ただ、謝罪の一言だけ。
本当の待ち人でないのが申し訳なくて、それを否定もしないことが、だましていることが、ただ申し訳なくて、視線をそらす。
「だから、もう怒ってないってば。こっちを見て。ほら」
両手で頬を挟まれ、無理矢理、目を合わせる。
呆れたようなほほえみ。
「ね、わかった? だから、もう行きましょ」
指を絡ませ、手を繋がれる。
目覚ましの音に眠りを妨げられ、手探りで音を止める。
眠れたけれど、なんだか安眠できた気はしない。
ただひたすら手をつないで歩いて行く。それだけ。
特に悪夢ではなかったけれど。
「なんか、なぁ」
無力感と言うか、割り切れないというか。
起き上がる気力がわいてこなくて、もう一度布団をかぶる。
ぱらぱらと屋根をたたく雨音が、いやに遠く聞こえた。
Jun. 2016
関連→連作【眠交電車】