雪白文箱



 どうやってその店にたどり着いたかは覚えていない。
 頭を冷やすために当てもなく歩いて、気が付いたら古い民家の立ち並ぶ路地にいた。
 その奥にあったあたたかな色の明かりに引き寄せられた。
 それは店の看板代わりの行燈で『黄昏堂』と記されていた。
 格子戸に嵌められているのは擦り硝子で中の様子はうかがえない。
 気にはなるけれど、入るには躊躇う。
 せめて何のお店かわかればと、スマホで大体の地名と店名を併せて検索してみるけれど、何も引っかからない。
 戸をあける度胸はない。けれど、なぜか離れがたい。
 戸に手をかけて、やっぱり駄目だと手をひっこめることを繰り返し。
「っえ、あ」
 何度目かの戸に手を伸ばしたところで、からりと戸が開く。
「こんばんは。どうぞお気軽に入ってください。外は寒いでしょう?」
 三十前後の男性がやわらかな笑顔をたたえてこちらを見た。
「……ありがとう、ございます」
 恥ずかしさで熱くなる顔を隠すためうつむく
 擦り硝子だからと言って全く何も見えないというわけではない。
 店内から見えていたのだろう。まごまごしている人影が。
 店内はさほど広くなかった。
 壁沿いに古い棚がいくつも置いてあり、そこにこちらも古そうな壺やかんざしや置物と特に統一性のないものが並べてある。
 骨董屋、というやつだろうか。
 特に興味はないけれど、招き入れてもらったくせに、すぐ出ていくのもはばかられる。
 端から順番にぼんやりと眺める。
「退屈じゃないですか? 良かったらお茶をどうぞ」
 店の奥側は会計をしたり商談をしたりするのだろう。畳が敷いてあり少し高くなっている。
 火鉢の上の鉄瓶を使ってお茶を入れてくれたようだ。
 出された座布団の上に座り、湯呑を受け取る。
 冷たかった指先がじわじわと温もってくる。
「何か気になるものはありましたか?」
「……ぇえと」
「あぁ、買えという話ではないので、気になるものがなければ良いのですよ。無理に捻り出さなくても」
 小さく笑って気にしないように言う。
 なんか、落ち着く人だなぁ。
「実は、何のお店かもわからずに入ったんです。すみません。私、骨董とか、全くわからなくて」
「そうでしたか。たまに同じような方がいらっしゃいますよ。中が見えない造りですし、店名しか書いてないですし」
 相変わらず穏やかな笑顔のまま、男性は小さく肩をすくめる。
 良かった。私以外にも同類がいたようだ。
「いつもだったら、気になると思っても入りづらそうだったらすぐに諦めるんですけど、ここはなんとなく離れがたくって……不審人物でしたよね」
「素通りできなかったのなら、それはうちの店に吸引力があったということで、嬉しいことですよ」
 悪戯っぽく笑う。
「そう言ってもらえたら、ちょっと心苦しさが減ります。もう少し見ていって良いですか?」
「もちろん。ごゆっくり。気になるものがあれば価格の方もお気軽にお問い合わせを。もちろん、無理して買う必要もありませんよ」
 穏やかな口調は、建前でなくたぶん、本当にそう思っているんだろうな、と思えた。
 たすかる。多分、こういうお店の商品は高いのだろうし、それに割けるほど余裕なお金もないし。
 でも並べられている古い品々を眺めるのは、少し楽しい気がしてきた。
 飲み終わった湯呑を返して、ふと畳の奥に置いてあったものが目に付く。
「あの、あれは」
 男性は視線の先を見て、立ち上がりそれをこちらまで持ってきてくれる。
「文箱です。良かったら手に取ってみてください」
 きれいな箱だった。
 わずかに赤みがかった艶やかな、たぶん漆塗り。
 その上にきらきらときらめく蝶がモザイクで描かれている。
「こういうのって蒔絵って言うんでしたっけ」
「ええ。蒔絵螺鈿といいます。この虹色に光る部分が貝殻の内側の部分を使ってます」
 そうだ。螺鈿。そっちだ。聞いたことある。
 なめらかな手触りの蓋の端を、なるべく指の跡をつけないように気を付けながら開ける。
 箱の底部分にも螺鈿細工があった。
 小さな花。アジサイっぽいけど、花弁が五枚だし、先端がとがってるし、ちょっと違うっぽい?
 こっちもきれいで、かわいい。
 いいなぁ。
「すてきですねぇ」
 溜息と一緒に口にでてしまった。
 素敵な分、きっとお高いだろう。値段は聞かない。聞かないぞ。買えないからな。
 男性はにこりと笑ってどこからか取り出した電卓に数字を打ち込んで、こちらに見せる。電卓って、この店にそぐわないな。
 まぁ、そろばん出されても理解できないから助かるけど。
「無理強いするつもりはありませんが」
 うーん。困るなぁ、こういうの見せられると。
 買えない額じゃないのだ。思ってたより、ずっと手の届く価格。ボーナス、出たばっかりだし。
 でも、使い道がないよな、文箱。別に何入れても良いんだろうけど、素敵な箱に見合うものもない。
「この花、空木の花です。花言葉は秘密。内緒の日記とか入れておくと、良いことがあるかもしれないですよ」
 日記は書いていないけれど。でも、そうだな。
「買います」


 良いことがある、なんて言葉を信じたわけではなかった。
 ただ、内緒の日記ではないけれど行き詰った気持ちのやり場にするのも良いのかなと思った。
 メモ帳に【ごめん】と小さく書いて切り離す。
 そして買ってきたばかりの文箱に入れる。
 あの時は言い過ぎた。電話を切ってすぐ後悔したけれど、掛けなおしたとしても冷静に話せる自信はなかった。
 そして向こうからもう一度掛かっててくるかもという期待もあった。
 鳴ったらすぐに気が付けるようにスマホを握ったまま、あてもなく街中を歩いた。
 そして最後にあの店にたどり着いたけれど。
 年末のにぎやかな喧噪の中、一人だった。
 【さみしい】
 新たなメモに、また一言書く。
 こんなこと、本人に言ったことない。言えない。
 慣れない場所で仕事を必死でこなしているのを知っている。だから、足を引っ張るようなことをしたくなかった。
 もう一度文箱を開けて書いたメモを収める。
 つややかな箱の表面に映る自分の顔はなんだか泣きだしそうに見えた。
 【会いたいな】
 言っても仕方ないからと、口にしたことはないけれど無駄でも声にすれば良かったかな。
 でも、もう今更。
 文箱にしまって小さく笑う。
 年末には帰ってくる予定だった。
 年始には双方の両親に挨拶に行く予定だった。二人で。
 どきどきしながら、楽しみにしていた。ずっと。
 久しぶりに会えることも、約束がきちんと形になることも。
『ごめん。帰れなくなった』
 仕事で、どうしても身動き取れなくなってしまったと。
 わかってる。仕方ないって。わかってたけど。
 楽しみにしてたから。さみしかったし、会いたかったし、ずっと。だから。
 その気持ちの代わりに、どうしようもない悪態をついて、『もういい』って、電話を切った。
 良いわけない。
 【まだ、ずっと、すき】
 これは、明日のための予行演習。
「あした、ちゃんと、話すよ」
 メモをそっと文箱にしまって、願をかけるようにきらきら光る蝶を指先でなぞった。


「ぇっあ、」
 掛けようとした瞬間、ちょうど掛かってきてしまった電話に出てしまい慌てる。
「もしもし? 大丈夫?」
 優しい声。いつも通りの。
「う、ん」
 何を言うんだっけ。何から。
「届いたよ」
「……え? なにが」
「ひらひらと蝶が飛んできて、紗奈の声で話すの。なんて願望まみれの夢だろうと我ながら呆れたんだけどね」
 小さく笑って続ける。
「枕元に同じ言葉が書かれたメモが四枚。不思議だよね。寝る前にはなかった。でも紗奈の字だ、まちがいなく」
 スマホは耳にあてたまま、文箱を開けるとメモはあった。ただ、書いたはずの文字が消えていた。
 なんで。
「ごめん。勝手ばかりしてるのは僕の方だから、言えなかった。でも紗奈も同じ気持ちだって思っても良い? 本当は寂しいし、会いたい。ずっと好きだから」
 ずるい。私が言おうと思っていたのに。
「うん。昨日はごめん。待ってるから。ちゃんと…………だいすき」
 恥ずかしさを誤魔化すように、手元の文箱の蝶にそっと触れる。
 翅がふわりときらめいた。

【終】




Dec. 2021
関連→ 黄昏音匣