いつもの夢の入り口だった。
寂れた改札口。
ただ、いつもいる姿勢が良く、愛想が悪い駅員の姿はなかった。
「ただの夢、なのか?」
ぽつりとこぼした声が奇妙に響いた。
もともと多少不眠気味だった。
ただ医者にかかるほどでも、薬を飲むほどでもなく、たまに眠れない日があるというだけ。
そんな中、ひょんなことで手に入れた怪しげな定期券。
眠れない夜、持って布団に入ればすぐに眠れるという優れもの。
夢の中で人に会い、話をしないといけないという副産物はついては来るけれど、さほど手間ではなかったから愛用していた。
が、今日は定期券を持って眠らなかったはずだ。眠るのに苦労した記憶もない。
「まぁ、良いか」
このまま、ここにいても仕方がない。
いつもの夢なのか、よく似た普通の夢かはわからないけれど、とりあえず改札を抜ける。
本来なら駅員が対象の人物の写真を渡してくれるが、いないからスルーする。
どちらにしろ、出会うのは一人しかいないから顔を覚える必要もない。
いつも通りホームに停まっている二両編成のレトロな赤い電車に乗り込む。
なんとなく定位置にしている座席につくと、程なくして扉が閉まり、電車は動き出す。
がたんごとんと揺れる音を聞きながらゆるゆると眠りに落ちた。
「んー」
車内ではあるけれど、他に誰もいないので心置きなく伸びをする。
良く寝た。
「なんか時間かかってるよな」
いつもなら電車が停まった衝撃で目が覚めるのだけれど、身体が凝るくらいまで寝たにもかかわらず電車はまだ走っている。
外は街灯の明かりもなく真っ暗で、窓にはぼんやりと自分の姿が映っている。
しばらく、ただ黒いだけの景色を眺めていたけれど、電車は停まる気配もない。
いつもと違いすぎる。やっぱりただの夢なのか?
それにしては感覚がはっきりしているというか、ただの夢ならそろそろ覚めてほしいというか、目覚ましかけたっけ? 明日も学校だから寝坊したらまずいなぁ。
いつもの夢と違うなら、いつもと違う行動をした方が良いかもしれない。
立ち上がり、前の車両に移動する。
うん。誰もいない。運転席も空っぽだ。
どうにか停車させられないかと運転席への扉を引くが、びくともしない。
無理か。
そのほかぐるりと見渡しても、特になにも変わったところはない。
「困ったな」
実際は、寝て夢を見ているだけなので困るわけではないけれど、なんとなく。
いつもと違う車両は何となく落ち着かず、元の車両に戻ろうと連結部分の扉を開いたところで息をのむ。
乗客がいる。
自分の定位置の向かい側、反対隅の座席に、スーツ姿の男が一人。
うつむいていて顔が見えないが、若そうな雰囲気。
とりあえず元の座席につき、そっと様子をうかがう。
たぶん、寝てる。
今は静かに移動したけれど、扉をあけたときにはある程度の音はしたはずなのに、何の反応もなかったし。
それより停車もしていないのに、どこから乗ってきたのだろう。
まぁ、夢に整合性を求めても仕方ないのかもしれないけれど。
がたんごとんがたんごとん。
電車の走る音が続くだけで景色も変わらず、斜向かいの男が目を覚ますこともなく、そして夢からも覚めない。
いつものように眠ってしまえれば良いのに、全く眠気がない。
「変な夢」
ぽつりとこぼした独り言は、思ったより大きく車内に響いた。
しかし、男は目覚めない。
「……」
あれ、寝てるだけだよな。うつむいたまま、ピクリとも動かないけど。実は死んでるとか、ないよな?
一度思いついた考えは消えず、だんだん不安になってくる。
仕方ない。確認しよう。
どうせやることもないし、死体じゃないと分かれば安心もするし。
うん。生きてるはずだ。
そっと近づき、目の前に立ってみる。
相変わらず反応はない。
「こんばんはー」
返事もない。
どうしよう。
揺すって、起こすか? けど、万が一生きてなかったら、怖い。
少し考えて、うつむいている男の顔の下に手を差し入れる。
吐息の感触。気色いいものではないけれど、ほっと息を吐く。
「生きてた、かぁ」
寝てるだけなら放置で良いか。
いろいろ気にはなることはあるけれど、生きてることが分かったなら、起こすのも申し訳ない。
席に戻ろうとしたところで手首を掴まれた。
「っ」
叫ばなかった自分をほめたい。心臓停まるかと思った。
振り返ったら、さっきまで寝ていた男がぼんやりとこちらを見上げていた。
「ここは、……電車の中?」
掴んだ手はそのままに、男はきょろきょろと車内を見渡す。
「そうですけど」
それ以外の何物でもない、普通の電車の内装だ。
「どうして。おれは、飛び込んだはずなのに」
聞き捨てならないことを男はつぶやいた。
飛び込んだって、どこに。
普通なら海とか川とかプールとか? でも話の流れ的にもう少し不穏なものを感じてしまう。
まさか、電車に?
「おかしいな、彼女が一緒だったはずなのに。ほかの乗客はいないのか?」
もう一度、ぐるりと車内を見渡した男は不審げにこちらを見る。
なんだろう。なんかこの人。
「そうみたいですね。ぼくは前の車両も見てきましたが」
こわい。
たぶん二十代半ばくらいで、どちらかと言えば大人しめの雰囲気で、口調も表情も戸惑って見えるもののごく普通で、身体も細身で、ケンカになったとしても余裕でこちらが勝てそうな感じなのに。
距離を取りたい。手を離してほしい。
「彼女はどこに行ったんだ?」
そんなこと聞かれても。
「電車、乗り遅れちゃったんですかね、彼女さん」
なんて答えるのが正解なのかわからず、それでも男の視線から逃れられずに、当たり障りのないことを口にする。
「そうじゃない。ちがう。いってしまったんだ。そうだ、彼女は、おれを置いて」
記憶が混乱してるのか?
さっきまで怖いと思っていたのに、こぼした溜息がひどく悲しげで心配になる。
「結婚するはずだったのに。幸せになるはずだったのに」
いってしまったというのは、亡くなったということなのだろうか。
うつむいている男にかける言葉が見つからない。
「約束したのに。どうして」
声は平坦なまま、手首をつかむ力がギリギリと強まる。
痛い。
「おまえか?」
「は?」
ぎり、とより強まる力に思わず顔をしかめる。
「おまえが、彼女を唆したんだろう。お前が隠してるんだろう、返せ、返せ」
血走った男の目がにらみつけてくる。
手を振りほどこうとするが、骨がみしみしなりそうなほどに強まる力がかかり外れない。
「ちょ、痛いって、無関係だって、おれは」
混乱している男に無駄だろうと思いながら言ったにもかかわらず、予想外にも男の手が離れた。
急に放されたせいで、よろめき、しりもちをつく。
ゆらりと男が立ち上がった。
「おまえのせいだ」
その思い込みの激しさに彼女が付いていけなくなって逃げたんじゃないのか?
なんて言ったら火に油だよな。
「あなたのせいじゃないです」
ようやく声が届いたようだ。
ほんの少しだけ、視線が緩む。
「で、ぼくはあなたの彼女のこと知らないし、無関係です。誰かのせいにしたくなる気持ちもわかりますけど」
「じゃあ、なんで彼女は」
「……それは、わからないですけど。でもタイミングが合わなかったり、悪かったり、たぶんそういうどうしようもないことって、あると思うんですよね」
そういう風に呑み込んでいかないと前を向けなかった。そういうことは、ある。
自分とは状況は違うけれど、諦めに近い感じでも、うまく折り合いをつけてもらえれば。
「なにも、知らないやつが、適当なことを」
いったん落ち着いていた男の目が血走り始める。
駄目だったか。
まぁ、そうなるか。普通。
見ず知らずの高校生に諭されて、簡単に納得するようなら、こんな状況になってないだろう。
とりあえず、距離を取りたいところだけれど、視線を外すと襲い掛かられそうな気配なんだよなぁ。
逃げるにしても二両しかない車内じゃ限界がある。
とりあえず床についた手に力を入れて、立ち上がるタイミングを計る。
じりじりと男が近づいてくる。
足を引っかけて転ばせるか?
うまくいけばいいけど、自分の方に倒れてきたら最悪だよな。
余計なことを考えているあいだに間近に迫った男の手から逃げるように反転して立ち上がる。
「っく」
パーカーのフード部分を引っ張られ首が地味に締まる。
「逃げるなんて、後ろ暗いことがあるんだろ。やっぱり、」
妙に冷静な低い声。
「っない、って」
締まらないように首元に手を入れて、どうにか反論するが、フードを引っ張る力はより強くなる。
聞く気ないよな。知ってた!
つくづく相手に背を向けたのは失敗だった。反撃もできない。
これ、このままいくと苦しいなぁと思いながら目が覚めるのか?
ふと以前教えられたことが頭をよぎる。
『けがをすれば、現実でも相応の傷を負う』
つまり永眠の可能性もあるのか。
それは勘弁してほしい。
どう切り抜ける。
ぱりん。
奇妙なほど涼やかな音とほぼ同時にフードにかかっていた力が消える。
振り返ってみた男の手にはフードの切れ端。
そして床に突き刺さった矢が一本。
「殺す気かよ、渡井!」
割れた窓に向かって思わず叫ぶと、すぐ隣の窓を突き破ってもう一本矢が飛んで、今度は壁に突き刺さり、電車が急停止した。
停車の揺れにあらがえず、たたらを踏む。
何とか転ばずに済んだが、男はしりもちをついて呆然としていた。
そしてそこに三射目の矢が、貫いた。
「っ」
反射的に目を閉じる。
が、男がどうにかなっている気配もなく、おそるおそる目を開ける。
「いない」
突き刺さった矢は残っている。が、血痕はもちろん男がいた形跡が一つもない。
ただ、さっきまで掴まれていたパーカーの切れ端が脇に落ちているから、男の存在は幻ではなかったんだろう、たぶん。
「……つ、かれた」
よろよろと移動し、座席に座り込む。
「疲れた、じゃねぇよ。何、勝手に乗ってるんだよ」
渡井はいつもの駅員姿ではあるものの、制帽をかぶっていないので表情が良く解る。怒ってらっしゃる。
「そこに電車があったし? いや、定期持って寝てないのに不思議には思ったけどさ」
「定期持ってないなら乗るな。無賃乗車だ」
渡井は深々と溜息をついて、向かいの座席に腰を下ろす。
間に合ってよかった、とごく小さく聞こえた気がした
「ごめん」
不機嫌そうな視線と、深いため息がもう一度吐かれる。
「定期券なしに乗るな、二度と。……それ以前に定期返せ。おまえ、親和性が高すぎる」
「さっきの男は?」
「強制排除しただけだ。別に殺してはない」
説明が雑すぎるが、死んでないなら良かった。
「言っておくが、おれが来なければおまえは死んでたからな」
「渡井は命の恩人だって言うのはわかってるよ。ありがと、助かった」
「そういうことじゃない」
三度目の大きなため息とともに、疲れたように首を垂れる。
「死なれたら、さすがに寝覚めが悪い」
「わかるけど、まぁそれもおれの自己責任だし、もしそうなったとしても、渡井は気に病むな」
かるく答えると、今日一番の凶悪な視線が突き刺さる。
「いや、死にたくないし、死ぬつもりもないからな?」
「おまえは逆の立場な時、それを許容できるのか、水弥」
言い訳じみた付け足しは黙殺され、抑えた低い声が返される。
「悪い」
「……定期券を返せ」
有耶無耶にしたつもりだったのに、蒸し返すか。
「考えておく。とりあえず、渡井のいないときには電車には乗らないから」
「少しは懲りろ。学習しろ。馬鹿か」
どこかあきらめたような口調で渡井は、好きにしろと続けた。
そして目が覚めた。
いつも通りの朝。
……あの男は、目が覚めたのだろうか。
ちらりと思い浮かんだそれを、頭の片隅に追いやった。
Jun. 2021
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