「六月病ですね」
美貌の、もう、そうとしか言いようのない美しい医師はあっさりと病名を告げた。
どこか楽し気な微笑みをたたえながら。
それがいつから始まったのかははっきりと覚えていない。
ただ何となく髪がしっとりしているなと思ったのは六月の初め、たしか三日か四日あたり。
雨が降っていたのでそのせいだろうと、その時は思ったのだ。
しかしその翌日、雨上がりのさわやかな晴天にもかかわらず髪がしっとりしていた。何なら前日よりもしっとり具合は上だった気がする。
確定的におかしいと理解したのは約一週間後。
髪はしっとりどころかぐっしょり状態になった。
いつもなら目覚ましのアラームに悪態をつきながらも、なかなか目があけられないのにその日は一気に覚醒した。
頬に触れた髪が明らかに濡れていて、枕も濡れていた。かるく絶望したよね、ほんとに。
しかし平日である。仕事がある。
天気は悪くなさそうなので枕はベランダに干しておくことにして、髪を乾かし手早く支度して家を出ようとしたところで気がつく。
肩が冷たい。
髪に触れれば寝起きほどではないにしろ、じっとりと濡れている。
鏡を見れば肩から背中にかけてしっかりと濡れ染みができていた。
「なんだ、これ」
とりあえず会社に電話すべきだろう。
こんな状態じゃ仕事にならないし、周囲に迷惑だ。
幸い忙しい時期ではないし、急な有休でも不都合はそれほどないはずだ。
体調不良(以外にどう言えばいいんだ)で休む一報を入れる。
「お大事に。無理せずゆっくり休んでください」
労りに満ちたやわらかな口調で言われ罪悪感がわく。
元気ですみません。
さておき、次にすべくは状況の改善だ。何日も仕事を休むわけにもいかない。
とりあえず、またしても水分多めになってきた髪を洗面台で絞ってバスタオルを頭に巻く。
さて、この後はどうしよう。
こういうのって何科にかかれば良いんだ?
そもそも病院案件なのか?
…………他に行くところないよな。
総合病院に行けば適切な科を案内してもらえるだろうけれど、受付の人を盛大に困惑させるだろうし、診察を受けるまでにものすごく時間がかかって、あちこち水たまりを作る羽目になりそうだ。
「近場のクリニックのがマシか」
そこで判らなくても、どこか紹介はしてもらえるはずだ。たぶん。
「髪が、濡れる?」
本日はどうされましたか? とにこやかに対応してくれた受付の人の顔がこわばる。
それでもかろうじて笑みの表情を作ったままなのはさすがだ。
なに言ってるんだって話ですよね、わかります。私自身がそう思ってるからね。
「病院で対処する症状なのかもちょっとわからないんですが、どうしたら良いかわからなくて」
困り果てた口調で眉を下げてみせると「後ほどお呼びしますね」とどうにか問診票は受け取ってもらえた。
第一関門突破?
そして待つこと三十分ほど。名前を呼ばれて診察室に入るとかぶっていたパーカーのフードを取る。続けて水をこぼさないようにと髪をまとめていれていたシャワーキャップも外す。
肩にかけていたタオルにぼたぼたと水がしたたり落ちた。
「家を出たのが今から一時間くらい前だと思います。その時には水が落ちない程度には髪を乾かしてありました」
乾かした先から湿っていくので完全乾燥はあきらめた。
「そのあと、当たり前ですが水をかぶったりもしてないです。それなのにこの通りです」
髪だけ見ればゲリラ豪雨にでも降られたかの状態だし、先ほどとったシャワーキャップの中にも水が溜まっている。
目の前に座る四十半ばほどに見える医師は目を見開いて固まっている。
どうしようと隣に立つ看護師に目をやると、同じく目を丸くしていて、しかしこちらの視線に気づいたのか立ち直り、医師の肩を軽くゆすって正気に戻そうとしてくれる。
すみません。変な患者で手間をかけさせて。
その後気を取り直した医師から発症時期や症状などの問診を受ける。
医師は難しい顔をした。
「正直、思い当たる病名はありません。総合病院を紹介することも可能ですが」
語尾を曖昧に濁される。
紹介された先でも改善する可能性はごくごく低いのだろう。
とはいえ放置しておいても改善するとは限らないし、ダメもとでも紹介してもらうべきだろう。
「お」
「あの」
お願いしますと口を開くと同時に医師の声と重なる。
視線で続きをお願いすると医師は大きく息を吐く。
「医者がこんなこと勧めるのはもう本当にどうかと思うんですが、友人の医師に不思議な現象に詳しい人間がいます。そこに行ってみるのはいかがでしょうか」
スマホのナビを頼りにたどり着いたのは、おしゃれな、カフェかレストランかと思われるような外観の一軒家だった。
「間違ってないよね」
芝生の敷かれた駐車場に車を停め、もらったメモに書かれた住所とナビを見比べる。
大丈夫そうだ。
静かに車から降り、玄関わきに取り付けられたプレートを見る。
【sakaki clinic】
診療科目も何も書いていないシンプル過ぎる病院名も教えられたものと同じだ。
「連絡は入れておきます。チャイムを鳴らせば普通に応答があると思いますから」
紹介してくれた医師は「症状が改善すること、祈ってます」と医者らしくない言葉を付け加えて見送ってくれた。良い人だ。
あまりに病院っぽくない外観で気後れするけれど、ずっとここで佇んでいても仕方ない。
また水がたまりだしたのか頭も重たくなってきた。
意を決してチャイムのボタンを押す。
明るい電子音が響き、少しの間をおいて応答がある。
「開いてます。入ってください」
穏やかでやわらかな口調が先ほどの医師とどことなく似ていて、さすが友人同士とどうでもいい感想が浮かんだ。
「スリッパに履きかえてあがってください。すぐ左の、ドアの開いてる部屋にどうぞ」
中に入ると普通に民家だった。
靴を脱いで、揃えてあったスリッパを履き、部屋の中を覗くと声の主がソファに座っていた。
その顔を見て硬直した私は悪くないと思う。
美しい人だった。
かっこいいとかキレイとか、そういうのよりもうずっと整いすぎていた。
年齢は三十前後くらいだろうか。
医師には見えなかった。かといって俳優やモデルに見えるかと言ったらそうも見えず、あえて言うなら人形のように見えた。
「葛城さん? お掛けになってくださいな?」
面白がった口調で表情が和らぐ。人間だったわ。普通に。美貌に変わりはないけれど。
「す、みません。失礼します」
咳ばらいを一つして向かいのソファに座る。
いいクッションだ。気持ち良く沈む。
病院の雰囲気は全くない。
落ち着いた調度の揃った普通に品のいい応接室だ。
多少緊張がほぐれた気がする。
「高木の方からさっくりと状況は聞いてるので、今の状態を見せてもらっても良いですか?」
促され、先のクリニックと同じようにフードとシャワーキャップを外す。
水の溜まりが先ほどより早くなっている気がして思わず顔をしかめる。
「これはすごいですねぇ」
シャワーキャップを手にしてたまった水を眺め、ぐっしょりと濡れた髪を見て感嘆の声を漏らす。
顔もどことなく上気していて興奮しているようにも見える。
ちょっと大丈夫なのか、この人。
距離を少しでも取ろうかと身動ぎしたところで前のめりになっていた医師は姿勢を戻した。
「六月病ですね」
私はずいぶん胡乱気な表情をしていたと思う。
五月病ならともかく六月病なんて聞いたこともない。
しかし病名があるということは何らかの治療方法がある可能性が高い。
そのことにわずかに安堵もした。
「とはいえ、僕がそう呼んでいるだけですが」
つまりどういうこと?
医師はくすくすと笑う。
「失礼。一喜一憂されるのが面白くて」
いや、本当に失礼だよ。こっちは真剣に困ってるんだ。
「安心してください。対処方法はわかっていますから」
笑いをかみ殺しながら医師は告げる。
それはさっさと教えてほしい情報だった。
医師は立ち上がりチェストからタオルとビニール製の袋を取り出し渡してくれる。
「使ってください。濡れたタオルは良ければこちらに」
ちょっとむっとしてたんだけどなぁ、こういうことされるとさぁ。
「ありがとうございます。助かります」
肩にかけていたタオルは水を吸ってずいぶん重くなっている。何ならパーカーもしっとりし始めてきているくらいだ。替えのタオルは有難い。
湿気ったタオルで髪をざっと拭ってから新しいタオルを肩にかける。
「それじゃ、こちらにどうぞ」
部屋を出て、そのまま玄関とは逆の奥へと向かう医師のあとをついていく。
通されたのは片付けられてはいるけれど生活感のあるリビング。
大きな窓から庭の様子が見えて落ち着く空間だ。
良いなぁ。こういうところでのんびり過ごしたい。
「しまった。履物がないな。ま、いいか」
窓を開け医師はそのまま庭へ降り、こちらを手招きする。
「葛城さんもスリッパのままでどうぞ」
なんというか見た目に反して雑な人だな、この医師。
多少抵抗はあるけれど家主が率先してスリッパで出ているのだし、庭に六月病に関係することがあるはずなので後に続く。
整えられすぎていない、無造作にもみえる草花が広がる庭。
その片隅にある淡い水色の紫陽花の前で医師は立ち止まった。
「紫陽花に近付いてしゃがんでもらえますか?」
なにを考えているかわからない微笑み。
有無を言わせない美しさだな。すごい。
言われるままに紫陽花に近付きしゃがむ。
「失礼します」
医師は私の髪をひと房すくいとり、一番近い紫陽花の花の上にそっとのせた。
な、なに?
「見えますか? 雨虫です」
髪を離した指でさされた紫陽花の上を見るが何も見えない。ん? 何となくぼんやりとした靄のようなものがあるようなないような?
よく見ようと紫陽花に顔を近づけようとすると顔の前に手の平を差し入れられる。
「あまり近付くと逃げるかも……これで少しは見やすくなりませんか?」
目元にかする程度に指が触れると同時に紫陽花の上の靄がくっきりと姿を現した。
なんだこれ。
紫陽花の上にいたのは、綿毛というか毛玉のような形状で、ただ毛ではなく水分でできているような何とも言い難いものだった。
雨虫っていうくらいだから生き物なのか? 目も口も見当たらないけど。
「梅雨時になるとどこからともなく現れます。基本的には植物のそばにいることが多いんですが、葛城さんを花と間違えましたかねぇ」
雨虫を指先でつついて楽しそうに笑う。
この美人め、他意はないことはわかるがなんてこと言うんだ。聞く人が聞いたら口説き文句だぞ。おまえの笑顔の方が花のようだ!
暑くなった頬が濡れた髪で冷やされて助かる。落ち着こう。
「雨虫も移動したのでもう髪が濡れることはないはずですよ。お疲れさまでした」
労う言葉にほっと息が零れた
「ありがとうございました」
ほんとに、わけのわからない状態になって、治るかどうかもわからなくて結構なストレスだった。
「どういたしまして、あ。降ってきちゃったねぇ、入って入って。スリッパここで脱いで上がっちゃって」
手を引かれて家の中に入る。
……なんかさ、雑じゃない? いや不快じゃないけどさ。医師と患者じゃなくて友人感覚でない?
「お茶入れるから、良かったらその間にドライヤー使って。洗面所はそっち」
「……えぇと、先生?」
呼びかけるとすっと視線を逸らされる。
「そうだった。今は先生だったね。うん。とりあえず風邪ひくといけないから、髪乾かして」
ひらひらと追いやるように医師は手を振った。
有難く髪を乾かし戻ってくるとリビングの方でお茶を出される。
もとの応接室じゃないんだ?
いくつか確認したいことがあったのだけれど、どう聞いていいものか迷っているうちにお茶を飲み切ってしまう。
医師はちらりと時計を見上げた。
「ごめんね。ゆっくりしていってもらいたいところなんだけれど次の予定があるんだ」
いや。ゆっくりする必要はない。
確認したかったことは、まぁ良いや。知らなくても別に。
「あの、お代は」
「今回は良いよ。じゃ、またね。気を付けて」
さくさくと玄関先まで送り出され見送られる。
ぱたんと背後でドアが閉まる音がして我に返る。
「え? またって何? もう来ないよ?」
こぼれた言葉は医師に届くはずもなく細く降る雨の中にとけた。
医師の不吉な言葉が正しかったことを知るのはまた別のお話。
Jun. 2025