とける月



 昏い闇。
 そこに射す、淡い灯り。
 風に鳴く湖水。
 ――ただ、それだけの日々。


「何を、しているの?」
 突然の声。
 水からとけだしたように唐突に。
「……」
 息をのむ。
「驚かせた、ね」
 おだやかな微笑。
 やわらかな雰囲気の青年。
 月の光に、仄かな影。
 不思議に現実感がない。
「……アナタは?」
 尋ねた声は、自分でも驚くほど小さかった。
 少し警戒していたのかもしれない。
「ぼくはね、散歩中」
 目を細めて、空を仰ぐ。
 本当な何をしているかではなく、誰なのかが知りたかったのだけれど。
 得体の知れない感じ。
 でも悪い人では、なさそう。
 表情、すごく優しい。
 懐かしい、ような。
「私は、月を」
 水面を見つめて、青年のはじめの質問に答える。
「そうだね。水に映る月も良いね」
 中途半端な言葉なのに、こちらの目線を追って汲んでくれる。
 声にしなかった言葉まで。
 それが、すこしうれしい。
「でも」
 青年はふりかえる。
 淡い眼がまっすぐ見つめる。
「さみしくない?」
 相変わらずの柔和な表情。
 でも、どこか哀しそうにも映る。
「アナタ、も?」
 同意を求められたような気がした。
「そう、だね」
 伏せた眼。
 なんだろう。この気持ち。
 助けてあげたい、と言うか、守ってあげたい……優しくしたい。
 微笑っているのに、だからこそ余計に辛そうに見える。
 近づき、手をのばす。
 ……触れたら、消えてしまう?
 躊躇した手が髪を撫でる。
 青年は吐息を漏らすように笑う。
「ごめんね」
 幻、ではない声が耳に触れる。
「ん」
 小さく肯く。他にどうしたらいいか判らなくて。
「ねぇ、……名前を教えて?」
 青年のためらいがちな小さな声。
 微笑いかえす。そんなこと。
「わたしは」


 水面。
 風に細波。
 揺らぐ月。
――もう、だれもいない。


「ごめんなさい」
 自己満足の謝罪。
 手にかけたのは、自分。
 独断で。
 彼女を。
 水に還した。
 髪に、残る手の感触。
「おやすみ、なさい」
 さいごに聴いた彼女の名を呟く。

【終】




Jun. 2003
関連→連作【幽想寂日】