「夕飯までそこで反省していなさい!」
苛立ちをぶつけられたドアが、バタンと大きく音を立てて閉まり、続いてカギをかけるかちゃんと軽い音が続く。
埃っぽい物置部屋。
元々広い部屋ではない上、箱が積みあがっていて圧迫感が半端ない。
ただ窓があるので閉塞感がないのは助かる。
おまけに天井の白熱灯の器具は電球が外されているので窓がなければ真っ暗だ。
数時間のこととはいえ、その状態で閉じ込められたら辛い。
「……けほっけほ」
大きくため息をつきかけたところで、ほこりを吸い込んだのか咳き込む。
換気しよう。
窓を開けて、外に顔を出す。
あぁ、空気がおいしい。
窓のすぐそばまで張り出した樹の枝に手をのばす。
うん、結構しっかりしている。
枝が外壁にぶつかって曲がってのびてしまっているせいか、手の届く場所にある枝もほどほどの太さがある。
枝に手を触れたまま、窓の下を見る。
草がほどほどに生い茂っている。
「いけるんじゃない?」
声に出してみると、本当に行けるような気がしてきた。
物置部屋からの脱出。
手の届くところに程よい太さの枝。
部屋は二階。地面には草。
最悪、失敗して落ちても大怪我はしないで済みそう。
窓枠に足をかけ、上る。
四つん這い状態になって、とりあえず右手を枝にのせ体重をかけてみる。
大きく沈むことはないけれどそれでもこのまま這っていくのは無理そうだ。
鉄棒みたいにぶら下がって握力だけで幹の方に移動するのも無理だろう。
そもそも握りこめるほど枝が細くない。
「うーん」
行けると思ったんだけどなぁ。
あ、腋の下で挟むようにしてぶら下がって移動するのはどうだろう。
これなら握力はいらないし、簡単には落ちないんじゃない?
頭の中でシミュレーションしてみる。
両腕をのばして枝にのせつつ、四つん這いでちょっとずつ足も移動させて、腕を枝に巻き付けるようにして、足をゆっくりおろして、そしてずりずり幹へ移動して幹を抱えてゆっくりと地面へ降りる。
「完璧」
にんまりと口元に笑みが浮かぶ。
そして再度枝に手をのばした。
脳内シミュレーションでは完璧なはずだったのに、どうしてこんなことに。
わきの下に挟むはずだった枝は何故だかおなかの下にある。
つまり、枝の上で半折れ状態。頭に血が上る……この場合は頭に血が下がる?
体をよじってどうにか幹の方へ近づけないかと試してみるものの、グラグラと枝がしなって動くのをやめる。
窓から確認したときはしっかりしてそうな感じだったのに、下手に動くと枝が折れそうだ。
そして落ちても大したことない、なんて思ってたけどこうしてみると結構高い。
落ちるの、怖い。
でも、どうしよう。進むのはもちろんだけど、戻るのはもっと無理。落ちるのも無理。
見つけてもらうのを待つ?
家の裏庭なんて、来たとしてもお母さんくらいだろう。
抜け出したことがばれるので、それはそれで困るなぁ。
今日はなんだかすごく機嫌が悪かった。
多少テストの点数が悪かったくらいで叱ることなんかなかったし、ましてや物置に閉じ込められるなんて初めてだ。
あの様子だと、抜け出したのがばれたら夕食抜きどころか朝まで物置で過ごせとか言われかねない。
だからといって見つけてもらえないのはもっと困る。
死因が樹に引っかかったまま干からびてとかはね、さすがにね。
いくらなんでも物置にいなくて、窓が開いてるのを見れば外を覗くだろうから、そんなことになる前に発見はしてもらえるだろうけれど。「あー羽があればよかったのに」
視界の端に飛び去る鳥の姿が見えて、思わずつぶやく。
まぁ、羽があったらそもそも抜け出すのに樹を伝わなくても良くて、こんな状況にも陥らなかったけれど。
やばい。あたま、くらくらしてきたなぁ。
これは朦朧として落ちてしまうよりは、覚悟を決めて飛び降りた方が怪我が少ないのでは? 覚悟を決めるか。
大きく深呼吸を繰り返す。
よし! と思ってもやっぱり思いきれずまた深呼吸。
「ねぇ。手助け、いる?」
それを数度繰り返して尚、まだ身動きできないるところに声をかけられる。
聞いたことのない男の人の声。
誰だ。
首を動かすと視界の端に白い翼のようなものがはたはた動いているのが見えた。
地面には誰もいない。
え。鳥?
っていうか、助けてほしいという願望による幻聴か?
「降ろしてもらえるなら、おろしてほしいです」
幻聴かもしれないけれど、それでも一縷の望みを託して助けを求める。
「わかった。じっとしていて」
静かな声とともに腰に手の感触。
ふわりと風が吹くと同時にふわりと体が浮かび上がった。
「だいじょうぶ?」
わずかな時間浮遊して、地面に足がつく。
ほっとして、大きなため息がこぼれた。
少し足はがくがくと震えているけれど顔を上げる。
「ありが……天使?」
目の前にいたのは二十歳くらいの男の人。
見た目はその辺に普通にいておかしくない感じ。服装も背の高さも特筆するところのない。
ただその背中に真っ白で大きな羽が有り余るほどの違和感を醸し出している。
「そう、だね。一応」
たどたどしいわけではないけれど、どことなくぼんやりとした口調なのは天使だからなのか、この人の持ち味なのか。
やわらかい声は耳にやさしく、おかげで震えも収まってきた。
「えぇと、すみません。助けてくれてありがとうございました。おかげで落ちずに、怪我せずに済みました」
先ほど中途半端に止めてしまったお礼を言いなおし深く頭を下げる。
「それは、べつに。でも、なんで樹に?」
「…………窓から、脱出しようと思って」
改めて下から窓を見上げると、結構な高さだ。
そして窓から幹までの距離も伝ってわたるには距離がある。
「無謀」
無表情で一言。
うん。わかってる。自分でも今そう思ったけど、この天使、微妙に辛辣だな。
天使って慈愛に満ちた存在のイメージだったんだけど。まぁ、服装も白い布巻いた感じ、ではなくて現代風だし、そのあたりも変化してきたんだろう。きっと。
なぜ脱出しようとしていたのかとか余計な詮索をされないのは少し助かる。
「ところであなたは何をしていたんです? うちの裏庭で」
上空から私のピンチに気づいて助けに来た、という感じではなかった。
これだけ大きなものが滑空してきたら気づくだろう、さすがに。
だからすぐそばにいたのではないかと思ったんだけど。
「休憩。……この樹、ちょうど良かった」
ほんのわずかにばつが悪そうに、視線を逸らす。
後ろめたいことなのか? 休憩というかサボってた?
つまり天使にも仕事があるということか?
世知辛いな。
「確かに樹の上で昼寝とかできたら気持ちよさそう。羽があれば落ちる心配もないし。うらやましい」
木漏れ日の中、風が通って、葉擦れの音が聞こえて、誰にも見つからずに、絶対気持ちいい。
落ちる心配さえなければ、ぜひやってみたい。
「そんな、理由」
あきれたような小さな笑顔がうれしくて、思い切り笑みかえした。
※ ※ ※
天使の仕事というのはひどく退屈だ。
ただ空を飛び、地上の様子を眺めてまわるだけ。
地上に祝福をもたらすわけでもない。
そこで起こる、大小さまざまな事件や事故、災害に対して手を差し伸べることもなく傍観するだけ。
それをする意味があるのかどうかさえ、我々天使には知らされることはない。
退屈で苦痛な仕事の息抜き中に彼女に出会った。
助けたのは気まぐれだったのか、反射的に動いてしまったのか、自分でもわからない。
落ちそうになっていた彼女を地面におろしてから失敗したことに気が付いた。
我々天使は地上の人間と関わることを禁じられている。
それなのに、ぽつぽつと交わす会話が楽しくて、こちらの言葉に反応して表情を変える彼女がかわいらしかった。
日が暮れ、彼女が元の部屋に戻るのを手伝い、見送るしかできないのが惜しかった。
だからまたあの樹の上にとどまった。
翌日、彼女は窓からではなく樹の下へあらわれた。
手を振ってぼくを呼ぶ彼女が光を浴びて眩しかった。
毎日、彼女が学校に行くのを樹の上で見送り、「ただいま」と樹の下に挨拶に来る彼女と話をした。
特に目新しいことが起こるわけではない彼女の日常は、ぼくが日々傍観していた光景と変わらないはずなのに、ひどく楽し気でそれを聞くだけで幸せだった。
彼女が帰ってくるのを待つだけ時間がひどく心地よかった。
※ ※ ※
「最近、ずっと下にいるんだね?」
以前はずっと樹の上にいて、帰ってきた私が下から声をかけるとふわりと羽を広げて降りてきていたのに。
ここのところ、いつも樹の幹にもたれて待っている。
「……そういう、気分」
ほのかに笑う。
「本当に? 何か、元気なくない?」
もともと元気にはきはき喋るタイプではないけれど、ここ最近は精彩を欠いている気がした。
病気とかだったらどうしよう。天使って病院に連れて行っちゃまずいよね。
「大丈夫だよ。……ただ」
「ただ?」
言いよどむ天使の顔を見上げる。
やっぱり少し顔色が悪い気がする。
「だいすきだよ、ずっと」
そっと抱き寄せられ、耳元に落とされる言葉。
「ぅえ?」
なに。え。顔、あつい。
そんなの、私もだ。
ここで天使がいてくれたから、頑張れていた。ずっと。
心地よい胸のなかで、それをどう伝えようかと逡巡する。
ぱさり。
羽音に慌てて顔を上げる。
そこに天使の姿はもうなく、抱き寄せられていた腕の感触もいつの間にかなくなってしまっていた。
「どこ?」
なんとなくすぐそばに気配がある気がして手をのばすけれど、ただ空をつかむばかりで。
ただ小さくなっていく羽音とともに柔らかな風が頬をなでる。
「いかないで」
※ ※ ※
姿を見せないようにして、彼女からわずかに離れる。
背の羽を動かすたび、羽根がぽろぽろと零れ落ちる。
もう、飛ぶこともできない。
役目を全うしないまま長く過ごし過ぎた罰だ。
多分、このまま消えてなくなるのだろう。
それでも最期までこの樹の下で、彼女のそばで、彼女の声を聴きながら。
Jul. 2023