てまねく柳



 静寂。
 静かに、寂しい。


「落ちますよ」
 静かな声と、肩をひく手。
「え?」
 振り返ったその頭のすぐ後ろを突風が吹きぬける。
 通り過ぎる特急電車。現在地は職場最寄り駅のホームの端。
 空はわずかにオレンジを残した紺色。
 そよぐ風に木葉がゆれる。
「大丈夫ですか?」
 やわらかな声に慌てて向き直る。何ぼんやりしてるんだ。
「すみませんっ、ありがとうございましたっ」
 あわてて頭を下げて、そして相手の顔を見る。
 おだやかな雰囲気の青年が困ったような苦笑いを浮かべている。同年代くらいにみえる。
「ケガはありませんか?」
「……っあ、はい」
 あと一歩でもあのまま進んでいたら、ホーム下に落ちていた。そして間もなく来た電車になすすべもなく……考えただけでぞっとする。
「貧血とかありますか? ふらふらされてましたが」
 首を横に振る。
「いえ、そんなことはないんですけど」
 会社で受けた健康診断でも問題なかった。
 ただ、最近ぼんやりしていることは多いかもしれない。すこし疲れているのかも。
「なら、良いですけど。とりあえず、次の電車まですこし時間ありますから座って待ってた方が良いと思います」
 帰宅ラッシュの喧騒から隔離されたようなホームの端の、人のいないベンチまで背をかるく押される。
 座らせると青年はその場を立ち去る。
 あたりまえだ、ずっと一緒についててくれるはずない。単に通りすがりで、これ以上関わる必要はないわけだし。
 ただ、心細い気がしてるだけだ。なんとなく。今になって足が震える。力が入らない。
 だれもいない。なんで。いかなきゃ。
「やっぱり顔色悪いですね……これ、どうぞ」
 心配げな声。まばたきを繰り返して声の主を見る。
 自販機の紙コップを差し出してくれたのは先ほどの青年。
 ……戻ってきてくれたんだ。
 お礼を言って受け取った湯気立つコップを口に運ぶ。
 甘いココア。どちらかというと苦手だったのだけれど、あたたかくのどを通っていき、ほっとする。
 それ以上に隣に座り、何もいわずにいてくれるこの青年の雰囲気が心地良い。
「しばらく、いてくれる?」
 思わず口をついて出て自分で焦る。
「ごめっ、違くてっ」
 あわてて、ごまかそうとしてみるが青年はにこりと笑う。
「はい。います」
 ごく普通に、あたりまえのように。
「なんで?」
 ここまで親切にしてくれるんだろう。見ず知らずの他人に。
 青年は答えず曖昧な笑みを返す。寂しそうに、辛そうにも見える。
 どうしたんだろう。
 ……あぁ、電車が来る。行かなきゃ。
 立ち上がると引きとめるように手首をつかまれる。
 ふり返ると青年はどこか哀しげな表情のまま口を開く。
「いつまで、ここにいるんですか?」
 いつまで、って。今から電車に乗って、行くよ。もう。
「だめです。何度繰り返しても、無理なんです。すすむのは」
 淡々と、でも必死さが伝わってくる。意味はわからないけれど。
「行かなきゃ。放して」
 電車が出てしまう。
「駄目なんです。あなたは以前におちてしまっているから」
 青年は目を伏せる。
 おちて? 何言ってるの?
「それが事故だったのか、その時のあなたが選んだことだったのかはわかりません。わかってるいのはあなたは落ちてしまって…………そして未だにここに捕われてしまっていることだけです」
 泣き出しそうに聞こえる細い声の、言葉の意味を考える。
「私、……死んだのね?」
 直截的な言葉にしなかったのは青年の優しさだろう、きっと。
 うっすらと記憶に残る。ふわりと宙に浮く感覚。
 確認すると微かにうなずく。
「どうしたら、いいのかな?」
 このまま、ずっとここで乗れない電車を待つのかな。ひとりで。
「大丈夫です。……かえりましょう」
 帰る? どこに。
 戸惑っているとそっと抱きしめられる。
「ごめんなさい」
 耳元に小さな謝罪の吐息が最後に届く。


 ベンチの上、残された紙コップを手にする。
 ホームの向こうには外灯に照らされた柳が手招くように揺れる。
「まだ、行けないよ。おれは」
 小さく呟きを残して、紙コップを握りつぶす。
 ゴミ箱にそれを捨てて、ちょうど来た電車に乗り込む。
 過ぎる景色に、柳が見送るように、呼びもどすように揺れていた。

【終】




May. 2008
関連→連作【幽想寂日】