先客がいた。
呼び出された橋の欄干から川底を覗き込むように身を乗り出した女性。
「何か、いますか?」
静かに声をかけると、女性ははっとしたように顔を上げる。
そして逃げるようにその場を立ち去った。
一瞬あった女性の昏い色の眼が残像のようにちらつく。
気にはなったものの、用件を済ませるのが先だろうと、追うのはやめる。
閑静な住宅街にある川の緩やかな流れをぼんやりと眺めながら待つ。
「来てくれたんですね」
唐突に掛けられた声に焦ることなく振り返った。
振り返った、その顔には多少の面影があった。
「あんなふうに呼ばれたら、来ないわけにはいかないでしょう」
困ったような、やわらかな微笑。
「人の子の成長の速いのは、目を瞠りますね。この前会った時には、このくらいだったでしょう? 立派な青年になって」
大人びた雰囲気を持ってはいたが、まだずっと子供だった。
それが今では見上げないといけないほどの背丈になっている。
「そこまで小さくなかったですよ。それじゃ、幼児じゃないですか。あの時、僕は十歳でしたよ?」
指示した手の高さを見て、青年は苦笑する。
あの頃よりも穏やかに笑うようになった。
「そうだったかしら。最近どうも記憶があいまいでいけないわね」
「それで、何の用でしたか?」
表情が曇ったような気がしたが、直ぐにそれは拭い去られる。
「ええ。あなたにお願いするのはお門違いだと重々わかってはいるのですが、私には頼る相手が他にいません」
通りすがりに、好意なのか気まぐれなのか、手を差し伸べてくれた子供。
その子供にもう一度すがることしかできない自分の無力さと図々しさにやるせなくはなる。
でも、そのまま放置はできないのだ。
「覚えていてもらえて光栄ですよ。僕でできることなら、なんなりと」
「そんな言質を与えるものではないわ。もう少し、慎重になって」
その力を悪用しようとするものだっているのだ。
たしなめると青年はやはり穏やかに笑んだ。
「あなたを信用しているから。でなければ、口にしません」
「どうかしら。あなた、結局優しいから。私の呼び出しにも応えてしまうくらいに」
「堂々巡りですよ。あなたからの要請だから応えた。それだけです」
うれしいことを言ってくれるが、それは嘘でないにしろ、事実でもないだろう。数多いる自分と同じような立場の者にも、この青年なら袖振り合うも他生の縁とばかりに、同様に応えている可能性が高い。
自分が青年の唯一無二でありたいわけでないから、それは構わない。ただ、青年が摩耗していくのが心配なだけで。
しかし、自分が口出しをしたからと言って青年の考えは変わらないだろうし、なにより頼みごとをする側から言えることでもない。
ならば早々に本題に入るべきだろう。
「私がここを離れる時が来ました」
告げると青年は痛ましげな表情をする。
「えぇ」
「もとはただの人の身で、ここまで長く留まれたのもあなたのおかげなのだから、そのような顔をする必要はないわ」
立ち止まりたいと願ったことは自分の我儘で、それを叶えてくれたのは小さな子供の頃の青年だった。
「私は私の出来うる限り、この橋を守ってきました。しかしもうその力もありません。そして今まであった私の存在がなくなれば、その空ろに引かれる者が出てきます」
その穴を埋めるように。
青年には言うまでもなくわかっているだろう。
「はい」
しかし青年は師の教えを受けるかのように神妙にうなずく。
「先刻、あなたとすれ違った女性。彼女を穴に落としたくはありません」
ここひと月ほど、時間はまちまちではあるが、毎日のように現れては川底を覗き込む女性。
日を追うごとに、その瞳は虚ろになり、より深くを求めているように見えた。
このままでは彼女が自分の後を引き継ぐことになる。
させたくなかった。
女性からしたら余計なお世話なのかもしれないが、それでも留まってほしい。
今はまだ、自分が抜けること副作用で不安定になっているだけかもしれない。
青年にこの場を平定してもらって、その後でもまだ彼女が底を求めるのであれば仕方ないけれど。
「出来る限りのことは、します」
嘘のない真摯な言葉に深々と頭を下げる。
「ありがとう」
「……ごめんなさい」
思いがけない言葉が返って顔を上げる。
「なにが?」
「こんなことしかできない。あなたを留まらせることができない」
かなしげに言葉をこぼす。
「ばかね。ほんとうなら十年も前に消えていたはずなのよ。もう充分」
あの時は見届けたいものがあった。それも今はもうない。
「本当よ?」
まだ、痛みをこらえるような顔をしている青年に静かに笑ってみせる。
伝わるといいのだけれど。
「……あなたを見送った後、空ろに護符を埋めます」
自分が抜けた穴は、青年の力があれば十分に埋められるはずだ。何も問題ない。
確認するように声に出した青年にうなずく。
「お願いね」
「……ぼくの指先に光が見えますか?」
伸ばした人差し指の先に瞬く星のような小さな光。
それがふわりと宙に浮く。
魅かれたように自分の意識もつられて浮かぶ。
高く高く昇っていく光に続く。
「おつかれさまでした、橋守姫」
声が届いた時にはもう光に包まれていた。
あの時は「まだ逝きたくない」と泣いていた人が、清々しくも見える笑顔を残して空に溶けた。
その橋守がいなくなった橋から川を見おろす。
川底にあるはずのない渦状の黒い穴。
贄を求めるそれに、用意してきた護符代わりの玉を投げ込む。
玉を呑みこんだ穴は、逆に玉に呑みこまれるかたように収縮し、消滅する。
「おしまい」
こぼした声は空々しく響く。
まだ子供だった自分が安易に力を与え、ただの幽霊をこの橋に留まらせた。
するべきではなく、してはいけないことだった。
夢伝いに届いた助けを求める声の主がこの橋守だというのはすぐに分かった。
呼ぶ声を無視することなど出来るはずもなかった。
すべては自分が蒔いた種。
「あ、の」
かすかな声に顔を上げる。
橋守が気にかけていた、あの女性だ。
やはり暗い顔をしているが、穴がふさがったせいか、先に会った時ほど川に引かれてはいないように見える。
「鳥が見えるんです」
殊更に明るい笑顔をはりつける。
穴を埋めたとはいえ、沈んだ気持ちに同調させてしまえば、どうなるかわからない。
「……鳥?」
「ほら、あそこ」
興味をひかれたような女性に何もない水面を指さしてみせる。
「あ、飛んだ」
女性が焦点を定める前に、指先と視線を上に向ける。
広がる、きれいな青空。
つられて空を見上げた女性から、大きな吐息が零れ落ちた。
Nov. 2015
関連→連作【幽想寂日】