たびだちの青



「あーるー晴れたー」
 晴れ晴れとした空に澄んだ歌声。
 うん。清々しい。
 でもドナドナってこんな明るく元気に歌うような歌詞じゃないよね。
 まぁ、子どもが歌っているようだし、詞の意味なんか特に考えていないのだろう。楽しそうに歌っているのは、微笑ましいし。
 っていうか、どこで歌っているんだろう。
 ここら辺は廃れた商店街で、開いてるシャッターなど一つもない。
 私の子供の頃にすでに寂れていて、その時は妖怪みたいなおばあちゃんが店番してる八百屋さんと、なんだか怪しげな壺とか売ってる骨董屋さんっぽい店が開いていたけれど、今はそれさえもない。
 元店舗の二階で、まだ住んでいる人はいるのだろうけれど、生活感というか人の気配がない中、歌声だけが高らかに響いている。
 これが曇り空で歌声が薄暗かったらホラー映画の中に迷い込んだかと心配になりそうなシチュエーションだ。
 ただ正反対に明るい状況ではあっても、妙な非現実感はある。怖くはないけれど。
 とりあえず、歌声の主を探そうと声の出所を探る。
 相変わらず牛が売られていく様子がうきうきした歌声でうたわれている。
 歌詞もはっきり聞き取れるし、そんなに遠くじゃないと思うんだけどなぁ。
 きょろきょろとあたりを見渡す。
「あ。お化け塔」
 商店街の奥にある黒ずんだコンクリート造りの建物。中央が塔のようになっているせいで大きなお墓のようにも見えたせいか子供の間ではお化け塔と呼ばれていた。なつかしい。
 その屋上の縁に座っている白い人影が歌の主のようだ。
「なんであんなところに」
 もともとはデパートで、何十年も前に廃墟になっている建物だ。当然立入禁止になっているはずで。そして屋上には柵がない。
 落ちたらどうするんだ。
 それ以前に老朽化で建物の強度自体も心配だ。
 遠目で確認できる外見からも声からも、小学生ぐらいに見えて嫌な想像に鼓動が早くなる。
 商店の隙間を通ってお化け塔のある方へ向かう。
 屋上の女の子を驚かせないように静かに建物に近づく。
 突然声を掛けたら驚くよね。その拍子に落ちたりしたら……。
 ここまで来たのは良いけれど、どうするべきか悩んで立ちすくむ。
 視線だけは歌い続ける少女を見つめたまま。
「おねーさん、何してるの? そんなところで」
 歌い終わった少女はこちらに気づいて、にこにこと手を振ってきた。
「危ないから! 降りてきなさい」
「ここからは、無理かなぁ?」
 下をのぞき込むな! そうじゃない。
「中からに決まってるでしょ!」
「んー。わかったけど、おねーさんも中に入って来てよ」
 危なげなく立ち上がり、少女はひょい縁から降りる。
 とりあえず落ちなかったことにほっとしつつ、どうするべきか迷う。
 このまま帰ってしまっても問題ないけれど、あの少女は中に来てと言っていたし、この朽ちかけたような建物の中、きちんと外に出てくるのを確認しないと心配だし、ぶっちゃければ、ちょっと中に入ってみたい気もするし。
「よし、入ろう」
 今日を逃せば二度とここに入ることはないだろう。
 古い重厚な扉を細く開く。
 窓から入ってくる陽光のおかげで、室内は思ったよりも明るい。
 そっと建物に入るとふわりと舞う埃が光に反射して妙に幻想的だった。
「いらっしゃーい」
 無邪気な声が聞こえる方に顔を向けると、正面の階段から弾んだ足取りで先ほどの少女が降りてくる。
 いらっしゃいってなんだよ、キミはここに住んでるのか? とか突っ込むこともできなかった。
 動きにあわせてふわりふわりと揺れる白いワンピースの裾とか、光を受けてキラキラはねる金の髪も、見惚れるに十分な要件だったけれど、その背にある真白い翼の存在が言葉を飲み込ませた。
「おねーさん、起きてる? 立ったまま、寝てる? 目、開いてるけど、寝てる?」
 正面に立った少女はひらひらと目の前で手を振ってくれる。
「夢?」
 手を伸ばして少女の背の翼に触れる。柔らかくてさらさらした触り心地。うっすらあったかくて、そしてひよひよと動く。動く?
「現実ー。天使なのだよ! まぁ、一応だけど」
 少女のいたずらっぽい笑顔が、大人びた微苦笑にかわる。
「謹慎中だからね。特別なことは何もできないんだ。ただ、ここにいるだけ。だから、おねーさんが来てくれて嬉しい」
「そっか」
 何して謹慎になったのかとか、少し気になるけれど、聞かれたくなさそうだから触れないままただ頷く。
「おねーさんは、どうしてここに? この辺の人?」
「子供のころ、少し離れたところに住んでたんだよ」
 同じ小学校区内だけれど学校をはさんで反対側だから近いとは微妙に言いづらい。
「今は違うところに住んでるのに、今日はわざわざ来たんだ?」
 立ちっぱなしも疲れたので、階段にハンカチを敷いて座る。
「そう。懐かしい場所訪問ツアー」
「ふぅん」
 なんとなく納得していないような相づち。
 まぁ、言った私自身、なんだそれって思ってるから仕方ない。
「うん。じゃあ、上に行こう」
 曖昧に笑ってごまかす私の手を、天使は楽しそうに引っ張る。
「上? 何があるの?」
「行けばわかるよ! ほら、はやく」
 しょうがないなぁ。
 天使は何の苦もなく登り切ったけれど、三階+屋上までの階段は結構きつい。
 息が上がる。
「こっちだよー」
 ドアを開けて先に行ってしまった天使に小さく手を振る。
 わかってるけど、ちょっと待って。話すのもつらいし足はがくがくしてるし。
 多少マシな状態まで呼吸を整えて、屋上に出る。
 そこには寂れた庭園があった。
 あちこち雑草が伸び放題で、樹も枯れる一歩手前みたいな感じではあるけれど、廃墟になる前はすてきな庭だったんだろうと想像できる。
「良くない? 庭はちょっとくたびれちゃってるけど、これはこれで味があるっていうか。それに、見晴らしも良いし」
「そうだね。良いね」
 周囲にさほど大きな建物がないおかげで、確かに遠くまで見通せる。
 風が、気持ちいい。
「良かった。ちょっと元気になった?」
 こちらを見上げるやさしい笑顔。
 やだな。こんな小さな子に心配かけてたか。
「ありがと。優しいね」
「別に、ふつうだよ。話、聞こうか? 私、見た目ほど子供じゃないよ? 天使だからね」
 大人びた柔らかな声。
「うん。大したことじゃないよ。たぶん、マリッジブルーってやつ」
 相手が海外勤務になってしまい、結婚してついていくことになって。
 もちろん、好きだからついていくんだけど、不安もいっぱいある。
「英語、そんなに得意じゃないし、他に知り合いのいないところだし、そもそも一緒に暮らすって大丈夫なのかとかって」
 今まで見えてなかった部分も見るだろうし、見られるだろうし、それも知らない土地で、余裕のない状況で。
 なんとなく落ち着かなくて、子どもの頃に住んでいた場所を見たくなった。
 両親も引っ越してしまっているから、きっともうここに来る機会はない気がした。
「そっかー。案ずるより産むが易し、って他人事だから言えることだしねぇ」
「うん。でも実際、そうなんだよ。わかってるんだけどね」
 今更なんだ。仕事もやめて、引っ越す準備だって着々と進めてる。
「おねーさん、左手を貸して」
 言われるままに手のひらを差し出すと、反転させられる。
「おねーさんの先行きが幸いなものでありますように」
 薬指に嵌められた指輪にそっと口づけを落とされる。
「謹慎中の天使の祝福じゃ、御利益もないかもだけど」
 照れたように笑う。
「うれしい。ありがとう。がんばる」
 頑張るはちょっと違うかな。
「疲れたり、愚痴が言いたかったら、また遊びに来てよ」


 建物を出て、屋上を見上げる彼女に大きく手を振る。
 たぶん、もう見えていないだろうけれど。
 二度と会うこともないだろうけれど。
「幸せになってね」
 

【終】




Apr. 2021
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