鈴狐



「あの、境木綾(さかき りょう)さんですか?」
「……はい?」
 聞き覚えのない声に返事をするのを多少ためらい、しかし大学構内で大きな問題が起こることもないだろうと判断し、ふり返る。
 声の主は、派手すぎず、地味すぎず、平均的に普通な感じの同年代の女の子。まぁ、それなりにかわいい、と評価してもさほど異論はでなさそうではあるが、だからといって特別目を引くことは確実にない。印象に残らない雰囲気だ。
 例えば明日、構内ですれ違っても気づかないだろう。
 何気なく失礼なことを考えている綾に女の子はぺこりと頭を下げる。
「人文の水野里香と言います。あの、えぇと、山下栄美って覚えてますか? 私、同じ科で」
 唐突に出てきた名前に綾は眉をひそめる。
 聞いたことあるような、ないような。
「あの、同じ高校だったみたいなんですけど。和藤高校で」
 ヒントが出されさらに考える。
「……ぼくと同じ学年の方ですよね?」
 綾が確認すると里香は肯く。
「山下、山下栄美さんね」
 名前がカケラも思い出せないということは、同じクラスになったことはないはずだ。
 何のかかわりもなかった、ただ同じ学年だっただけの同級生では記憶に残っていない可能性が高い。目の前にいる水野と同じようなタイプだとしたら尚更だ。
 綾はうすく笑みをはいてみせる。
「山下さんがどうかされましたか?」
 

 かっこいい人だと思う。
 キレイめな顔立ちに、細いフレームの眼鏡。きつい雰囲気に見えそうなところを、柔らかな口調と笑みがそれを相殺している。
 声をかけるのに勇気を使い果たしていた里香はほっと息をつく。
「栄美が、あなたに会いたがってるんです」
「ぼくは山下さんとはほぼ面識ないんですけれど。それもご本人でなく、水野さんが来られたのはどうしてですか?」
 柳眉をひそめて困惑したように綾が尋ねる。
「栄美、今入院してて……」


 面倒な展開になってきた。
 穏やかな表情をくずさず、綾は内心ため息をつく。
「お医者さんも、原因がわからないって。でも日に日に弱ってて。でも境木さんに会いたいって繰り返してて」
 いい迷惑だ。
 面識もない人に会いたいと望まれても何も嬉しくない。それも原因不明で衰弱してる? ますます冗談じゃない。
 などということはおくびにも出さずに、曖昧な表情を浮かべておく。
「ですが、山下さんがそのような状態のときに、ぼくのような親しくしていたわけでもない人間が伺うのも却ってご迷惑なのでは?」
 やんわりと断りの言葉をはくと里香はきっと顔をあげる。
「あのっ、でも……栄美が望んでることですからっ……それに、あの、えぇと……原因不明なの、霊とかじゃないかって話もあって。で、境木さん、お祓いみたいなことできるって」
 最悪だ。
「家のものがそういうことをしているというのは事実ですけど……ぼくが行っても役に立てないと思いますよ? それでも良ければ一度伺います」
 ここまでバレているのなら、さっさと最低限のことを済ませて解放されたい。
 声をかけられたとき、立ち止まらなければ良かったと心底後悔した。


 実のところ半信半疑だったのだけれど。
 栄美が言っていたのもまんざら嘘だったわけでもないらしい。
 快諾というわけではないけれど、とりあえずお見舞いには行ってくれるようだし、優しい人なんだろうと思う。
 見た目も良いんだし、栄美が好きだと言って騒ぐのも良くわかる。
「あの、じゃあ今日、夕方大丈夫ですか?」
 勢い込んで聞くと綾はちょっと苦笑する。
「ぼくは五限まであるので、そのあとでよければ」
「ありがとうございますっ」
「お役に立てるとは限りませんよ?」
 困ったように静かに微笑む。
「いえ、会えるだけで栄美、よろこぶと思います。すごく」
 待ち合わせ場所を打ち合わせると、綾は目礼して校舎に戻っていった。


 病室に入った途端、こめかみが一瞬きしみ、綾は顔をしかめる。
 ベッドと、テレビの載ったキャビネット、椅子が二つ。それだけの小さな個室。白い壁に白いカーテンが引かれているせいで、白い小箱に押し込められたような圧迫感がある。
「栄美、寝てるの?」
 ベッドに横たわる病人に里香が声をかける。
 その後ろから身動ぎさえしないベッドの主の顔をそっとのぞく。
 血の気のない顔色の寝顔はやはり見覚えがない。
 道中で聞いたところによると、入院して三ヵ月、症状としては眩暈、倦怠感等々。
 当初は貧血かとも思われたが血液検査では何の問題もでない。その他検査もいろいろしてみるものの原因ははっきりしない。
 その後、微熱が続き、呼吸困難をたびたび起こすという風に状態は悪化の一途をたどる。
 こけた頬、浅い呼気がもれる。
「当たりかな」
 里香に聞こえないようぽつりと呟く。
「ごめんなさい。せっかく来てもらったのに。もう少しいてもらって良いですか? たぶん、そのうち起きると思うので」
 ふりむいた里香に綾は微笑む。
「構いませんよ」
 乗りかかった船だ。手に余らないことを願うが。
「ありがとうございますっ。飲み物買ってきますね。座っててください」
 言い残して足早に病室を出て行く里香を確認して綾はポケットの中から鍵を出す。
 ぱん。
 鍵を握ったまま手をたたく。鍵につけられた鈴がつられるようにりんと鳴る。
「《吾が詞声を掛けまく御魂。吾、ここにあるを乞わん。【白夜】》」
 鈴をそっとつつむように握り、吐息とともに名を呼ぶ。
 ふわりと空気が揺らぎ、眼前に手のひらに載る程度の狐に似た生き物が現れる。
『久しぶりね、綾。元気?』
 綾の肩に乗った狐は二又の尾をそよがせ気軽な声をだす。
「うん。まぁね。面倒ごとに巻き込まれてる気はするけどね」
『あなたが私を呼ぶときはたいてい面倒ごとの最中だと思うわ』
 呆れたように狐は笑い、ベッドの方を真剣な目で見る。
「白夜?」
『巣食ってるわね。……ねぇ、綾。あなた、八方美人やめたほうがいいんじゃない?』
 溜息まじりの声に綾は眉をひそめる。
「何、唐突に。今更なことを」
『あなた見てくれは良いけど、本性は結構最低だし、恋情も醒めると思うのよ』
 使鬼の正直すぎる発言に文句をつける気もなくし、綾はため息をつく。
「なに、つまり恋情が原因だってこと? それもおれに対する」
 白夜は眠る栄美の布団の上に降り、肯く。
『そう。この子、自分で呼び寄せてるわ。魔が憑けばそれを口実にあなたに会えるから。あなたの命令なら私は魔を食べるのは構わないけれど、繰り返すわよ。きっと』
 繰り返す。そのたびに白夜に食べさせるわけにはいかない。命令に必要な対価は自分の生命力。たまのことなら問題ないが、頻繁に与えていては自分の命に関わってくる。
 しかし、そう思わせるほど魔との関わりを外に見せてはいなかったはずなのだが。それも恋心所以なのだろうか。
 なんてめんどくさい。
「とりあえず《許す。祓え》」
『ぞんざいな詞声ねぇ。まぁ、いいわ』
 白夜の姿が消えて、栄美の体がうっすらと光る。
「高くつきそうだな、今回は」
 クッションの良くない椅子にぐったりと身体をあずけ、深々と溜息を吐き出した。


 ドアが開かない。
 錠はついていないのに何度引いてもぴくりとも動かない病室の扉に里香は困って立ち尽くす。
「……声?」
 ドアにくっつき、耳を澄ます。
 綾の声。内容までは聞き取れないけれど誰かと話しているような……しかし、相手の声はまったく聞こえない。
 アブナイ人だったのだろうか。
 栄美と二人きりにしたのはまずかったのではないかと初めて気付き、ドアを叩く。
 がんがんと何度も叩き続けるとようやく扉が開き柔和な微笑を浮かべた綾が顔をのぞかせた。


『綾、終わったわよ』
 栄美を覆う光は収束し、狐の姿が現れる。
「うん。ありがとう。で、もうひとつお願いがあるんだけど」
『使鬼に断る権利はないんだし、あなたが良いなら構わないわよ?』
 内容を聞かずに白夜はあっさり応える。
 対価は当然取るわけだから、確かに綾次第だといえばそうなのだが。
 廊下側からドアを叩く音が聞こえてくる。時間がない。
「《具象せよ。人形を取れ【白夜】》」
『あなた、最低ね。やっぱり』
 呟きと同時にちいさな狐の形が緩み、柔らかな髪色、黒目がちの瞳、白いワンピース姿の十七、八歳の等身大の少女の姿に変わる。
「高いからね」
 狐と同じ声が少女の口を通して発せられる。
「覚悟してます……ごめんなさい、お待たせしました」
 ドアを開けると不安と焦燥の入り混じった表情の里香が立っている。
「あのっ、……あ、」
 何かを言いかけた里香は、いつの間にかいる少女の姿を見つけ絶句する。
「綾」
 小さな声で白夜に呼ばれ、振りかえると栄美が起き上がっている。
「山下さん、気分はどうですか?」
「境木くん?」
「はい。水野さんから頼まれて伺いました。様子がおかしかったので彼女を呼んでお祓いをしました。もう大丈夫だと思います」
 そっと頭を下げる白夜の腕を引く。親密に見えるように。
「ぼくはもう行きます。山下さん、お大事に。水野さん、お先に」
 笑顔は絶やさず、相手の返答も待たず、そのまま白夜とともに病室を出る。
「ホントにあなたって最低ね」
「おかげさまで」
「で、あれでもう大丈夫だと思うの?」
「祓う為に彼女同伴でおれが来るようじゃ、魔を呼び寄せる気にもならないんじゃないの? 普通。それにもし繰り返したとしてもおれが面倒見る必要もないし。どうしてもというなら【境木】を紹介すれば良い」
 毎回無償奉仕する気もないし、親しくもない人間に煩わされるのもごめんだ。
 その点【境木】は本業だ。実家が潤うのはいいことだ。その上、紹介料として幾ばくかの実入りも望める。
『好きにすれば良いけどね』
 いつの間にか狐の姿に戻った白夜は呆れたように呟く。
「ところで相談があるんだけど」
『なに』
 嫌そうな声が返る。
「おれ、今、わりと限界なんですよ。……報酬は分割でも良いですか?」
 この状態で生命力を摂られたら確実に倒れられる。
『しみったれてるわ』
 白夜は肩に乗って嘆息する。
「ごめんなさい」
 否定できずに弱く笑みをもらす。
『たまにあなたってかわいくて嫌よね。じゃあ、今日のところは行くわ』
 やさしい声を残して白夜は姿を消す
 ポケットからはみ出た鈴がりんとひとつ響いた。

【終】




Jul. 2008
関連→連作【神鬼】