すれ違いの環



 天気が良いっていうのは気分も良い。
 つまり、幸先が良い。
 でも、うきうきとした気分は、すぐに消沈した。
――
 とぼとぼと、どこをどう歩いたのか。
 ふと聞こえた声が大事な人のものに似ていて、思わず顔を上げた。
 周囲はシャッターの降りた部分の方が多い商店街。当然のように人気はない。
 きょろきょろしていると、またかすかな声が聞こえて、音をたどる。
 商店街の向こう側、何やら古びた黒っぽい、不気味な建物の屋上に人影があった。
 声の主が気になったのもあったけれど、大きな墓標のようにも見えるそれは、なんだか今の気分にものすごくぴったりに思えて、誘われるように足を向けた。


 商店と商店の間のごく狭い路地を通り抜けて、ようやくその建物の前に立つ。
 今は声は止んでいて、見上げても死角になっているのか人の姿は見えない。
 雨染みで黒ずんだコンクリート外壁の、いかにも廃墟な建物なんかに、いつもなら入ったりはしない。
 が、今日はもう、どうにでもなれな気分でいっぱいで、躊躇わず扉を開く。
 予想していたような抵抗はなく、割とあっさりと開いたドアから中を覗きこむ。
 窓から陽射しが注いでいるおかげで思ったより明るく、内部の様子がはっきりと見て取れた。
 床が抜けたりしないか少々不安になりつつ、足を踏み入れるとふわりと埃が舞い上がり、差し込む光にきらきらと反射する。ムダに幻想的な雰囲気ではあるけれど、所詮ほこり。のどに入り込み、咳き込む羽目になる。
「見間違い、だったかなぁ」
 なんとなく人が入った気配がないように思えた。
 それでも、ここまで入ったんだし、と中央にある階段にをゆっくりと登って屋上を目指した。


 建物としては三階建てだけれど、屋上まで入れると四階分になる階段を上りきって、膝に手をつく。
 地味に、つらい。
 上がった息と心臓を少々落ちつかせてから、屋上に通じるドアを引く。
 目の前に広がったのは庭園、と呼ぶには少々かなり荒れはてた感じの庭。そして、その向こうに広がる町並み。
 そして耳に心地よい歌声。
 やっぱり少し彼女の声に似ている。
「……ドナドナ?」
 明るく可憐な歌声ではあるが、どことなくやりきれない感じの歌詞に何とも言えない気持ちにさせられる。
 何故その歌を選んだ?
「あ、お客様?」
 屋上への出入り口にもなっている塔部分の陰から金の髪の少女がぴょこんと顔をだす。
 日本人じゃないとか、こんな子供がなんでこんなところにとか、思うところはいろいろあったが。
「……コスプレ?」
 ギリギリ常識の範囲内のことを口にすると少女はいたずらっぽく笑った。
 思わず口走ったのは、少女の背中に天使のような真っ白な羽が見えたからだったのだけれど、その羽が風に揺らされてるのとは違う感じで動いていることに気が付き、目をこする。
 電動式とか?
「コスプレじゃないよー、本物だよ」
 どこか面白がってる風に少女はより大きく羽を動かす。
「…………天使?」
「そ」
 少女はくるりと回ってみせる。
「疲れてるのか、精神的ショックでおかしくなったのか、そのついでに召されたのか……」
 天国にしてはずいぶん荒れた庭で、町並みは近くに見えるけれど。
「生きてるし、一応正常だよ。ま、その精神的ショックとかで私が見えるようになった可能性は高いけどね」
 安心して。とにこやかに笑ってくれたけども、普通に見えないものが見えてるって時点でヤバいんじゃないのか?
「ま、ここで出会えたのも何かの縁。お兄さんのお悩みを聞いてあげましょう」
 こちらの不審げなまなざしをものともせず、興味津々といった風情で少女は翼をひよひよと動かす。
 面白がってるだろ。
 それ以前に、天使とはいえ、こんな子供に話すのも、どうかと思う。
「見た目はこんなだけど、実はお兄さんよりも年上かもよ? 天使と人間じゃあ成長速度も違うしね」
 心を読んでるのかとも思えるタイミングで少女は口を挟んでくる。
「心が読めるんじゃなくて、お兄さんが顔に出しすぎなの。わかりやすすぎ。とりあえず、話してみてよ。赤の他人、通りすがり相手の方が後腐れなくていいんじゃない?」
 塔にもたれかかり、空を仰ぐ少女はひどく大人びて見えた。
 少女の言うことにも一理ある。こんなこと、情けなくて身近な誰にも話せない。
「相手も同じ気持ちだと、思ってたんだけどさ、思い込みだったみたいだ」
 少女の横にしゃがみ込んで、同じく空を見上げて零す。
 普通に仲良くしていたと思う。
 多少、ケンカはあったけれど、直ぐに仲直りもしてきた。一緒にいるのが心地良くて、ずっとそれを続けたいって思ってた。
「付き合ってるつもりだった。仕事にも慣れてきたし、そろそろ良いかなって、プロポーズするつもりだった」
 彼女が気に入ってたっぽい指輪も買って、いつ、どうやって渡そうかとどきどきしながら待ち合わせ場所に向かった。
「彼女はもう来てて、偶然会ったのかな? 友達っぽい人と話をしてた」
「男の人だったの?」
 天使の問いに首を横に振る。
「女の人だったよ。でも、話の邪魔しちゃ悪いかなって思って、彼女には声をかけずに近づいたら二人の会話が聞こえてきたんだ」
 二人はたぶん自分の存在に気付いていなかった。
 お友達が彼女に「待ち合わせ? カレシ?」って聞いてた。
 彼女の返事の後で声をかければちょうどいいかなって思った。ついでに友達にも挨拶できたらとか、考えてた。
「思ってもみなかったんだ。彼女があんな返事するなんて」
 困った声で「違うよ、トモダチ」って。
 肩をたたこうとしていた手を慌ててひっこめて、すぐにその場を立ち去った。
「おれの独り相撲だったんだ。勘違い。結婚どころか、彼氏でさえなかったって。ばっかみたいだろ」
 笑って見せたつもりだけれど、声はすごく情けないものになった。
 少女は軽く首をかしげる。
「んー。あるかなぁ。プロポーズ考えるくらいだったのに、恋人でさえないって。おにーさん、そこまで思い込み激しそうに見えないんだよねぇ」
 そう思いたいのはやまやまだけれど、はっきりと彼女はそう言ったんだし。
「カノジョさんが嘘ついたかもしれない」
「何のために?」
 希望にすがりたくなってしまうのを抑えるように、なるべく冷静に聞く。
「私はカノジョさんじゃないから、本当のところはわからないけど。お友達さんとはさほど仲良くなくて、そういうこと教えたくない感じだったとか。ほら、他人の幸せを許せないとか、かき回す人って、いるじゃない?」
「天使でも、そういうのってあるのか?」
 妙に実感こもっているような気がして、思わず尋ねると、天使はあいまいに微笑う。
「真意はカノジョさんに聞かないとわからないけどさ。ちゃんと聞いたほうが良いよ」
 そうは言っても、自らとどめを刺されに行くのは、ちょっとな。
「本当に恋人だと思われてなかったら現状維持だし、カノジョさんが嘘ついてたんなら浮上できる。確認する方が得だと思うけど?」
 そういう問題か?
「でもなぁ」
「別に無理強いはしないよ。ただ聞けるんだから。聞いたほうが良いって私は思う」
 少女は遠くを見つめる。
 寂しげに見える横顔に、かける言葉を探していると場違いに軽やかな電子音が響く。
 スマホには彼女の名前。
「がんばれ」
 少女はそれだけ言い残して、建物の中に入ってしまう。
「もしもし? あのさ、」


 ばたばたと階段を駆け下りる足音。
 埃が舞い、きらきら光を反射する。
 こちらの姿を探す視線が自分を通り過ぎる。
 もう、見えないだろう。その必要がなくなったから。
「ありがとう!」
 出ていく間際、青年は振りかえる。
 建物全部に響き渡りそうな大声。
「おしあわせに」
 聞こえないだろうけれど、心を込めて言い返した。

【終】




Mar. 2016
関連→連作【カラノトビラ】