死にたい、という気持ちがある。
いつも、どこかに。
日頃は深くに沈んでいる想いはひょんな拍子に、浮かび上がる。
自殺願望では決してない。
そんな面倒なこと、したくない。
しかしそれは、甘美な誘惑として湧きあがる。
……誰かに、殺してもらいたい。
他力本願な、望み。
事故死でも、この際、病死でもいいから。
地は混沌を極めた。
人口は、極端に減った。
その後、訪れた平穏は束の間のものだった。
同じような姿の天敵が現れ、
少なくなった人口は一定以上、増加しなくなった。
「充分だけどね、これだけでも」
昔は数十階建ての建物が当たり前のようにそびえていたらしい。
しかし現在、見ることができるのはせいぜい十階までのものばかりだ。
人口も、その『昔』より激減しているのでまかなえるのだろう。
見晴らしの良い七階建てのビルの屋上から地面を見下ろす。
眼下にはそれでも多くの人々が、さしあたっての平穏に浸かり、それぞれの気分を乗せて歩いている。
落ちたら、どうなるだろうか。
「死ぬよ」
答えの解りきった問いを口にするより先に、応えが背後から投げられる。
顔だけで、振り返る。
少年とも少女ともとれる声と姿の主がひっそりとそこに居た。
「本物は、はじめて見たわ。本当にいたんだ『死神』」
人間の天敵は、死神と呼ばれている。安直に。
外見は基本的に大差ない。服装も。
銀に染まった、その爪以外には。
「……ゴウタンだね、キミ」
外見年齢は、そう自分と変わらない様に見える死神は呆れたように言う。
「手袋でもすればいーのに。そうすれば怪しまれずに近づいて、殺せるでしょう?」
その爪に魅入られたまま提案してみる。
天敵とか死神とか呼ばれる理由は実にカンタンだ。
圧倒的な力で、人を殺すから。
「そんな見境なく、殺さないよ」
死神は苦笑いを浮かべた。
「人間なんて所詮、『敵』を設定しないと纏まれないんだよ」
死神は屋上のフェンスに座り、天を見上げる。
「うん?」
その横でフェンスにもたれて話しを促す。
「敵から身を守るために一致団結しましょう。もしくは団結して倒しましょう、ってね。方向さえ定まれば、動かしやすいしさ」
善悪二元論。
自分たちを善と考えて、決められて行動すれば楽な事は確かだ。
陽がだんだん傾いていく様子を見ながら死神は静かに語った。
その意味深長な言い回しに反問する。
「誰が?」
尋ねると、死神はにっこり笑ってこちらを見る。
「えらい人」
単純明快な一言。
「……」
「だから、えらい人は万人に対する敵が居てほしかったんだ。そこに丁度いい具合に死神が居たから」
自分のことを平気で死神と呼んで、ひっそり暮らしてたのにねぇ、と続ける。
「ということは、ひっそりとやってたのを大々的にやるようになったと」
「うーん。まずね、人間はぼくらの糧なんだよ。生気っていうものを頂いてぼくらは生きてる。人が他の動物や植物を殺すと同じに。だけどね、ここだけの話」
死神は小さな子供が重大な秘密を打ち明けるような、妙に楽しげな表情をする。
耳元に顔が近づく。
「ほんとうはね、少しだけでいーんだ。人体に影響を及ぼさない程度で」
眼を見つめる。
「じゃあ」
「人口を抑制するためにね。ノルマがあるんだよ? 一月に何人、って」
無邪気にくすくす笑う声。
「なんで『敵』になってるの、わざわざ」
メリットは何もない、ように思える。
「持ちつ持たれつ、って奴。えらい人はこれ以上人口が増えないで欲しい。食糧不足の問題もあるからね。ぼくたちは、住む場所を与えて欲しい。フツウ人と同じに暮らせるように。ぼくたちは『食糧』いらないし、人口に混ぜても問題ないでしょ?」
死神はフェンスからひょいとおりる。
人が人を殺す。
「その銀の爪を隠して?」
尋ねるとふ、と笑う。
視界をさえぎるように冷たい手が顔に触れる。
一分ほど経ったあと、手はどけられる。
陽は落ち、わずかな残滓が遠くを橙に染めている。
「ほら」
指を広げて死神は手の甲をこちらに見せる。
銀の爪は、
なかった。
ごく普通の、淡い淡い血を映した爪。
「……なんで?」
「爪が銀になるのは空が紅く染まる、朝と夕方だけ。だから狩るのもその時間だけ。イメージは大切にしないとね。ま、食事はいつでもするけど」
笑みを絶やさず死神は続ける。
「ぼくは、イチ」
「……エイ」
名前だけをぽつんと応える。
イチは手を差し出した。
「よろしく。もし、また死にたくなったら、その時はぼくが殺してあげるから」
妙な握手に、それでもとりあえず応じる。
先程と同じ、ひやりとした手。
「死ぬのなんて、いつでもできるからさ」
笑みのよく似合う死神の言葉。
その笑顔を見ながら、打算的なことを思う。
これで病死と事故死を望まなくてすむ、と。
とりあえず今はまだこのままで。
くだらない、誘惑。
それは叶う……?
それは退く……?
Feb. 1999