これは災厄の物語?



 朝から雲一つない晴れた日だった。
 清々しい気分で出社して自席について数分。受けた電話でその気持ちが暗転するのも、日常茶飯事だ。
 理不尽なクレーム内容にほどほどに相槌をうちつつ、それ以上激昂させないようになだめるのも社会人数年目ともなれば慣れたものだ。
「それでは、本日四時にお伺い致します」


 八割方、言いがかりとしか思えないクレーマー宅で最終的にわけのわからない家庭の愚痴を拝聴しながら約二時間。
 なんとかクレーム撤回させることに成功して撤収。
 随分暗くなった住宅街を足早に駅に向かう。
 三十分程度で話を終わらせるはずが、予定外すぎる。
「うわ。最悪だ」
 冷たいものが頬を濡らし、顔をしかめる。
 雨が降るなどと朝の天気予報は言っていなかったはずだ。
 当然、雨具など用意しているはずもなく、コンビニも見当たらない。
 徐々に強くなっていく雨足に追い立てられるように歩くスピードを上げる。
 そしてようやく見つけた民家のものではなさそうな明りを見つけ、軒下でようやく一息ついた。
 薄闇に浮かぶ明りの下には『喫茶白夜』と書かれた木製のプレート。
 古色然とした硝子のはめられたドアから、うっすらと明りが漏れているから営業していそうだ。
「いらっしゃいませ」
 中に入ると、目の前のカウンターに同年代の男が笑みを浮かべる。
「急に降ってきましたね。良かったら使ってください」
 ずぶ濡れなことに気付くと、すぐにタオルを出してくれる。
 お礼を言って受け取り、席に向かい立ちすくむ。
 店内の一番奥の席。壁側を背にして座る等身大の人形と目があった。
 薄暗い店内にまぎれるような黒い衣装にのった顔だけが仄白く浮かび上がる。
 驚いているようにも見える見開いた目に凝視されているのは、すごく落ち着かない。
 このまま帰りたい気持ちになるが、タオルまで借りておいて何も注文せずに帰ることなどできるはずもなく、仕方なく入口にいちばん近いテーブルに人形に背を向ける格好で座る。
「何になさいますか?」
 人形のことには全く触れず、店主らしき男は水の入ったグラスをテーブルに置く。
「ブレンドを、ホットで」
「かしこまりました。しばらくお待ちください」
 男はカウンターに戻ると豆をミルで挽き始める
 背後に相変わらず人形の視線を感じてはいるものの、古びた店内と余計な音のしない静かな空間は妙に落ち着いた。
「お待たせしました」
 銀色のトレイからカップと伝票をテーブルにおろすと「ごゆっくりどうぞ」と目礼をして離れていく。
 湯気を立てるカップを口につける。
 広がるコーヒーの香りと味に大きく息を吐く。おいしい。
 ゆっくりと味わい、立ち上がる。
 雨はまだ止まないが、いつまでもこうしていても仕方がない。
「ごちそうさまでした」
 カウンターにいる男に伝票とお金を渡す。
「良かったらこれ、使ってください」
 お釣りを返すついでに差し出された傘を思わず受け取る。
 ビニール傘ではなく、きちんとした、それも高級そうな傘だ。
「え、でも」
 ありがたい。が、安価なビニ傘ならまだしも、さすがに申し訳ない。
「使っていないものだから大丈夫です。返却も結構ですので」
「いえ、そういうわけには……えぇと、では
お言葉に甘えてお借りします。近いうちに必ず返しに来ます」
 引く気のなさそうな男の好意をありがたく受け取ることにし、その代わりに名刺を差し出た。


「いらっしゃいませ。こんにちは」
 男の接客スマイルが、こちらの顔を認識するとわずかに親しげに緩む。
「先日は傘をありがとうございました。助かりました」
 借りた傘を返し、ついでに小さな箱を差し出す。
「少しですが、良ければ召し上がってください」
 大仰にならない程度のお礼が思いつかず、同僚に相談して近所のおすすめ店のマカロンセットにした。男が甘いものを好むかどうかはわからないが、あくまでも気持ちだ。
「却って気を遣わせてしまって申し訳ないです。ありがとうございます。もし時間があれば、ゆっくりしていってください」
 傘の返却だけですぐさま帰るのも愛想がないから、もともとコーヒーは飲んでいくつもりだった。
 この間と同じ、がらんと誰もお客のいない店内。が、今日はあの等身大の人形はなく、それにほっとして、カウンターに座り、この間と同じオーダーをする。
「手間をかけるんですね」
 男のコーヒーを入れている姿を見ながら思わず呟く。
 手挽きのミルを使っている店なんて初めて見た。
 まぁ、普段行くのはチェーン店ばかりで、きちんとした店は知らないから、きちんとしたお店ではこういうのが普通なのかもしれないが。
「直忠は道楽者だもの」
 唐突に割り込んできた女の声に振り返り、叫び出しそうになる。
 黒いひらひらとしたワンピースに長い髪、白い顏、大きな目。
 この間座っていた人形がすぐ真後ろに立っていた。
「ハルヒ! えぇと、大場さん、大丈夫ですか?」
 心配そうな声を向けてくれる男にとりあえずぎこちなく頷く。
 まだ声を出せるような状態じゃない。
 大きく息を吸って吐いて、気持ちを落ち着けながら改めて『人形』を見る。
 座っているのを見た時には、整った顔立ちがある意味怖くも思えたが、こうして間近で見てみると思っていたよりも普通の『女の子』だ。
「……ごめん。人形だと思ってました。失礼しました」
 どうにか平静な声が出せたことに安堵しつつ頭を下げる。
 顔を上げるときょとんとしたあどけない表情がこちらを見ていた。
 目が合うとすぐに下を向いてしまう。
「あやまるのは私の方だと思うんだけど、この場合」
 ぽそぽそと言い訳するような小さな声がなんだか幼い子供のようで笑みがこぼれる。
「大場さん、すみません。姪のハルヒです。ついでに私は店主の矢上直忠です」
 紹介され、こちらも改めて名乗る。
「さっきは驚かせてすみませんでした。ところで、突然ですが結婚しましょう」
「は?」
 謝罪した女の子の突拍子もない言葉に間抜けな声が漏れた。
「結婚です。あなたと一生一緒にいたいです」
「……まともに顔合わせたのは、今日が初めてですよね?」
 十代の女の子相手に思わず丁寧語になる。
「一目ぼれです」
 生真面目な顔で答えられても納得はいかない。
 残念ながら一目ぼれをされるような容姿ではないし、例えそうであったとしても、結婚というのは飛躍しすぎだろう。
「じゃあ、結婚を前提としたお付き合いでも構いません」
 じゃあ、ってなんだ。
「あのさ、えぇと晴陽さん?」
「私のこと、嫌いですか?」
 まっすぐにこちらを見つめる大きな目が、不安げに揺れている。
「そうじゃなくてね」
 人形だと思っていた時は、少々不気味に見えていたが、間近で表情が変わるのを見ていると、かわいらしいと思える。が、だからと言って頷けるはずもない。
「結婚は、今すぐじゃなくても良いんです。一緒にいさせてください」
「どうして僕なんでしょう」
 必死に言い募る晴陽とは逆に冷静な声が出る。
「だって、間違いないもの。だから、お願いします。付き合ってください」
「ハルヒ」
 まっすぐな熱意を向けてくる晴陽へ水を差すように矢上が名を呼ぶ。
「……わかってる。時間でしょ」
 こちらに何か言いたげに口ごもったように見えたけれど、晴陽はそのままふいと店の奥へ行き、小さくドアの閉まる音が続く。
「隣、小さな部屋になっていまして、そこで占いをやっているんです。予約のお客様がそろそろみえるので、しぶしぶ撤退ってわけです」
 物問いたげな表情を読んだのか、矢上はにこやかに説明しつつ、コーヒーを出してくれる。
「本気なんですかね?」
 ありがたくコーヒーを頂いて、一息つく。
「間違いなく。大場さんに貰って頂ければようやく私もお役御免で解放されます」
 矢上は自分もコーヒーを飲みながら心底清々した笑みを浮かべた。
「いらっしゃいませ」
 反論をふさぐようなタイミングでドアが開き、矢上は客を迎える。
「あの、予約の」
「小倉様ですね。突き当たって左のドアを開けてお入りください」
 矢上が手で示すと、入って来た客の女性はかるく頭を下げ、背後を通り過ぎる。
 ノックの音とかすかな応答の声。そして再びドアが閉まる音。
「何の話でしたっけ? ……そうそう。ハルヒは、ちょっと変わっていて、面倒なところもありますけど、悪くないと思いますよ」
 フォローする気があるのかないのか、微妙なことを矢上は口にする。
「普通、止めるものじゃないですか? どこの誰とも知らない相手と結婚なんて身内が言い出したら」
「普通じゃないですしね、ハルヒは」
 あっけらかんと言い切る矢上も十分普通ではない。
「私は普通ですよ。そしてハルヒは普通じゃない。あれは≪影なし≫です」
「かげなし?」
 唐突に出てきた謎の言葉を反復する。
「そのままの意味ですよ。ハルヒには影がない」
 確かに屈託がない感じの子ではあったけれど、普通じゃないと言い切るほどのことではないだろう。むしろ、あの年頃の子はあんなものだと思う。
「そうではなくて、光差せばできるべき影ができないってことです」
「……影が出来ない?」
 言葉にされても意味が上手く飲み込めない。
「大場さんがあそこに座っていたハルヒを人形だと思ったのも、そのせいです」
 矢上の視線を追って、晴陽があの日に座っていた席を振り返る。
「影がないせいで妙に作り物めいて見えるんですよね。立体感が出ないというか」
 そう言われてみればそうだっただろうか。
 今になってははっきりと思いだせないけれど、あの時は生きた人間に見えなかったのは確かだ。
「ハルヒはずっとあそこに座って待ってました」
 何を。
 聞き返そうと口を開きかけたところに、占いに来ていた客が出てきて口を噤む。
「お疲れさまでした。お気を付けておかえりください」
 来た時と同じようにかるく目礼をした女性は、しかし来た時よりはわずかに晴れ晴れとした顔をしているように見えた。
 そして程なくして出てきた晴陽は満面の笑みですぐ隣のスツールに腰かける。
「良かった。まだいてくれた」
 さっきの話を聞いた後でも、やはりごく普通にかわいい女の子にしかみえない。
 ≪影なし≫なん、て。
「影、あるじゃないですか!」
 店内の照明は暗めではあるものの、うっすらとした影が彼女の下にある。
「……直忠、話したんだ」
 晴陽から笑顔が消え、文句を言いたげに矢上を見る。
「黙っていても仕方ないだろう。いずれ分かることなんだし」
「あの、もう良いですから。そういう冗談とか」
 どこか深刻ぶった二人のやり取りも茶番にしか見えない。
「直忠が言ってるの、嘘じゃない。本当です。だから、帰らないで」
 立ち上がりかけたところを掴まえる白い手を無理矢理ほどくこともできずに仕方なく座りなおす。
「嘘じゃないって言ってもね。晴陽さんにはしっかり影が見えますよ。僕と同じに」
「それは、大場さんがいるから」
「意味が分からないんですが」
 からかっているにしては、その表情は不安そうに揺れていて、どういう態度をとっていいかすごく困る。
「あの、帰らないでくださいね」
 手首を掴んでいた手をおそるおそると放し、晴陽は立ってゆっくりと後ずさる。
「直忠、どう?」
「まだ影響下。ギリギリまで下がって」
 二人の謎のやり取りに口を挟むこともできず、ただ傍観する。
「大場さん。ハルヒの足元見てください」
 矢上の言った通りに壁を背に立ったハルヒの足元を見る。
「どうして」
 すぐそばの椅子やテーブルの影は見えるのに、晴陽にはさっきまであった影がない。
 顔を上げると泣きそうにもみえるその顔はやけに白く、作り物めいて浮かんでいる。
「原因はわかりません。うちにはたまにああいうおかしな現象をもった者が出るんです」
「でも、さっきは」
「それは、大場さんが私の≪光≫だから」
 おずおずと近付いてきた晴陽はそっとスーツの袖をつまむ。
「光?」
「大場さんがそばにいれば、私に影ができる。私に影を作ってくれる光。私の太陽。だから、結婚してください」
 下を向いたまま晴陽は一息に言い切る。
 その足元にはしっかり影がある。
 夢でも見ているのかもしれない。
「……晴陽さんにとって僕が役に立つっていうのは何となく飲み込めました。でも、だからと言って結婚は無理です」
 自身の気持ち以前に、好きでもない相手と一緒になる意味も分かっていないような子供相手に安易なことは出来ない。
「何でもする。好きになってもらえるように頑張るから!」
 そういう問題ではない。
「何でもなんて、簡単に言うものじゃないよ、晴陽さん。そして初対面の得体のしれない相手に結婚とかいうのも、やめたほうが良い」
「別に得体は知れてますけどね。名刺があったから素性を調べるのも楽でした」
 生年月日、住所、その他個人情報を、矢上に明るく告げられて思わず言葉をなくす。
「それ以前に、傘一本借りるのに名刺を置いて、そして手土産までもってくる。どう見ても大場さんは善人でしょう」
「そういうところが好きです。大好き」
 面白がっているとしか思えない矢上の追撃に便乗するように晴陽が畳みかける。
 全然伝わってない。どう伝えたら良いのか。
「ハルヒ、ちょっと黙りなさいな。面白いけど、話が進まないから」
 矢上は自分のことを棚に上げ、晴陽を黙らせる。
「ハルヒはここで待つことしかできなかったんです。影が出来ないっていうのは思っている以上に違和感があります。日中は当然のことですが、夜だって街中には明りがあふれていますから、ろくに外出も出来ない」
 店内の照明が暗めなのも、きっと晴陽を思ってのものなのだろう。
「大場さんなら、他にいくらでもいい条件の相手がいると思います。対してハルヒはめんどくさいだけで旨味も何もない」
 辛辣すぎる矢上の評価に横で晴陽が小声で文句を言っているが、矢上は黙殺して続ける。
「それでも、お願いします。あなたがいれば、ハルヒは普通に世界を楽しめる。大場さんの優しさにつけ込むことは承知ですが」
 矢上が深々と頭を下げる。
「良くわかりました。お気持ちは」
「駄目ですか、やっぱり」
 答えを半ば予想していたのだろう。矢上は特段気落ちした風もなく顔を上げる。
「というかですね、晴陽さんが僕を好きだと言ってくれるのも、全て僕が≪光≫だという前提あってのものでしょう?」
 視界の端にハルヒのしょげた横顔が映り、そちらに向き合う。
「外に出る手助けなら、できるだけ力になります。だから、それで、本当に好きになれる人を見つけてください」
 ここまで聞いておいてそのまま放っておくなんて寝覚めが悪く、妥協案をあげる。
「……でも、きっと好きだよ。そういうところ。大場さんのこと」
 戸惑う晴陽の、その頑なさに少々呆れる。
「それ禁止。好きって自己暗示をかけてるように見える。優しい人なんてたくさんいるよ。晴陽さんがまだ知らないだけ」
 いまいち納得しきれていないように下を向く晴陽とは対照的に、矢上は「お人好しですね」と笑いながら零す。
「とりあえず、友達ということでどうですか、晴陽さん」
「……うれしい。ありがとう」


 これは災厄から始まった物語。
 結末は、まだずっと先。

【終】




Nov. 2015