眠い。
風の音、うるさい。
ただでさえ最近うまく眠れないというのに。邪魔くさい。
ふとんを頭からかぶる。ぬくい。暗闇。
静かに呼吸を整える。すぅ、はぁ。すぅう、はぁあ。すーぅう、はーぁあ。
目をとじて、ゆっくりと。だんだんと間隔を延ばしていく。しばらくするとふと意識が途切れる瞬間が来る。そこでその闇に身を任せれば眠りに落ちることが出来る……なんてことを考えている時点で失敗だ。くそ。おまけに呼気がこもって息苦しい。
もごもごと布団の中から顔だけ出して深々とため息をつく。
「寝れねぇ」
一週間、元気にがんばって働きつくして自分的充電池の残量はほぼゼロで、くたびれてて、眠いのに寝られない。腹立たしい。
明日は休みでとりたてて予定はないけれど、天気予報は晴れだったから、充分な睡眠をとったあと朝から起きてたまった洗濯物をがばーっと片付けて、その後ふらりと買い物に出かけようかと考えていたのに。
この分だと寝付けるのはいつになるかわからないし、そうすると起きだすのは昼近くになりかねない。洗濯、出来るか?
カーテン越しに届く、外灯の明かりをぼんやり眺める。
ちりん。
かすかに澄んだ音が耳に届く。
「?」
耳をすますと強い風の音に紛れて断続的に聞こえるか細い金属音。
「……鈴、か?」
ちりん……ちりん、ちりん…………ちりりん……。
綺麗だとも言えるけれど、寝ようとしている今は耳障りでしかない。
目を閉じると、よりはっきりと聴こえる。
今時季、近くに風鈴を下げている家なんかないし、だいたい風にあおられて鳴っているのならもっと間隔が密になるはずだ。
「あー、くそ。気になる」
がばり、身体を起こす。瞬間、少々後悔する。寒い。
ベッドサイドに放ってあったフリースに手をのばし着込む。
布団から抜け出し、靴下を履き、ダウンジャケットのファスナーをきっちり上までしめて玄関を出た。
「ぅおっ」
なんかもう寒いというよりは冷たい、痛い。
冷風にさらされ、じんじんしはじめた手をポケットにつっこむ。
空を見上げてはく息が白い。冬の星空、ぴかぴか光る星によりいっそう寒々しさを感じる。
「あー、明日やっぱり良い天気になりそうだな」
というか、もうとっくに今日になってる。……もう朝起きるのはムリだな、これは。このまま起きてるほうがマシか? 眠れなくて徹夜? イヤ過ぎ。
ちりんちりん……りん。
「下か」
背中を丸めて、アパートの外階段を降りる。
時折きこえるかすかな音を頼りに源を探す。
外灯のおかげで仄明るい駐車場にあって、死角になり薄暗い闇にまぎれた植え込みの中が発生源だった。
目を凝らすとうごめく黒いモノ。
そっと手をのばす。やわらかにあたたかな感触。茂みに引っかかっているらしいそれを両手でそっと抱えあげる。
「っうげ……何しやがる」
一瞬細い熱を感じる。そしてひりひりとした痛み。助けてやった恩人に対してひどい仕打ちだ。
りん。
小さな音を残してそれは着地する。
黒猫。深い青の瞳がじっとこちらを見つめている。ひも付きの小さな鈴をくわえている。
これが音の元か。つーか、なんでそんなものくわえてるんだ。身動きできないような状況になってまで。
ふいと猫は目を逸らして歩き出す。
歩調に合わせてちりんちりんと涼やかなおとが響く。
数歩歩いて猫は再びふりかえりこちらの顔を見上げる。
「なんだよ。うちに来るか?」
しゃがみこんで手をのばす。しかし真夜中、駐車場で猫に話しかける二十代男、って軽くかなりヤバイ。
ばかじゃねぇの? とでも言いたげな顔を残して猫は再び歩きはじめる。
「むかつくなぁ。助けてやったんだから猫の恩返しくらいしやがれ」
ぶちぶち呟いて立ち上がると、また立ち止まっている猫と目が合う。
しっぽをぱたんぱたんと振って、首を傾げる。
う、かわいいじゃないか。
近づくと猫は先導するように先を歩き、ついてきているか確認するように何度もふり返る。
「ついて来いって?」
マジで猫の恩返し?
ため息まじりに吐き出して、自分で呆れる。ありえなさ過ぎる。
が、完全に目は冴えてしまっていて、部屋に戻っても眠れそうにない。
まぁ、とりあえずついていってみようか。なんて酔狂なことを考えて、鈴の音をBGMに猫のあとに続いた。
どこをどう歩いたのか。
入ったこともない路地から見たこともない路地へ。
猫は今度は人間が通れるぎりぎりの細道に入っていく。
引き返すか? とか思いもしたのだけれど、ここまで来て家に帰るのもなんだか負けたみたいで癪だ。その上、猫はさっさと来いと言わんばかりに振り返ってこちらを見ている。
行けば良いんだろ、行けば。
どうか途中で引っかかって身動き取れないということになりませんように。
不吉な考えを振り払って、横歩きで路地に入る。
狭っ。思った以上に。ちょっと気を抜くと後頭部をぶつけそうだ。
鈴を鳴らしながらすたすたと歩く猫においていかれないように必死に、慎重に歩を速める。
「……ふぅ」
抜け出して大きくため息をつき、辺りを見回す。
どこだ、ここ。
なんというか、西洋と日本の融合といった感じの、それも現代ではなくて、イメージ的には明治とか大正とかそんな感じ。歴史詳しくないから実質その時代の建物がこんなんだったのかどうかは知らないが。
テーマパーク、というには妙に生活感がある。でも現代でこんな生活してるところがあるか? 少なくとも歩いて来られる範囲にはないはずだ。こんな町並みがあったら、もっと話題になってるだろ。
夢か? 寝られないと思ってたけど実はぐっすりか?
とりあえず、考えてもいてもどうにもならない。
黒猫の姿を探すと、細く開いた戸の隙間にするりと身体をすべりこませている。
戸の脇にかけられた木製の看板には墨字で【銀玻堂】と書かれている。
「……ごめん、ください」
細く開いたままの戸の隙間からおそるおそる覗きこみつつ小さく声をかける。
店屋、というには殺風景だ。
入ってすぐの三和土より一段上にある畳敷き場所に文机がひとつと、壁面に並ぶ細かい抽斗のついた古めかしい箪笥があるだけで商品らしいものは何一つない。
猫がくわえていた鈴を畳の上に落とす。
ちりん。と澄んだ音が静寂の中、大きく響く。
「おや、夜猫。早かったね」
箪笥がおかれていない暖簾のかかった空間から出てきた和服を着くずした女性が猫に声をかける。色っぽいというか婀娜っぽいというか……堅気じゃなさそうな感じというか。
関わらない方が良いかもしれない。今更か。
「いらっしゃい。何かお探しで?」
「えーと、あの。違くて」
唐突にふられて慌てて口ごもる。っていうか、やっぱり店なのか。
「夜猫、なにも説明せずにつれてきたのかい?」
女性の呆れたような咎め言葉に黒猫はぷいと顔を背けて店外に逃げていく。
猫が説明って、やっぱ寝惚けてるのか、おれ。
「まったく。あらためまして、いらっしゃいませ。我が銀玻堂ではお客人の悩みの解消をお助けする商品を取り扱っております。何か困りごとがおありですか?」
困りごと……あえて言うなら帰り道がわからないような気がすることか? 大体こんな胡散臭い店、商売としてやっていけるのか? まさか、占いとか宗教とかそんな感じでバカ高い商品売りつけられるんじゃないだろうな。霊感商法にはまるなんて冗談じゃない。
「結構です。単に、迷い込んだだけですし……別に悩みもないですから」
逃げようとそっと後ずさる。
「お待ちなさい。お客人、夜猫は何にも問題ない人間を引っ張り込んだりはしないんですよ。まぁ、さほど大きな翳があると言うわけでもないようですが」
女性は言いながらたくさんある小抽斗のひとつを引き出し、ちいさなものを摘みとる。
掌にころがり落とされたのは白い飾り紐につながれた小さな銀の鈴。ちりちりと静かな音を響かせる。
「あの?」
「お持ちになってください。こちらの不手際のようなので、お代は結構です」
有無を言わせないつもりなのか、女性の白い掌が、鈴を持ったこちらの手を包む。
こんなものもらっても処理に困るし。
「お気をつけて。またのお越しをお待ちしております」
どこか悪戯っぽい笑みと、ほどよい冷たい手の温度が残った。
「……夢か?」
カーテン越しに突き刺さる光に、どうにか目を開ける。
妙な夢だった。でも、その割にはすっきり疲れが取れている。変な夢を見たあとは、寝た気がしなくて余計にくたびれた感じなのだけど、たいていは。
枕元の時計に手をのばしかけ、握りこんだ手の中にあるものに気づく。
「…………?」
開いた手には、白い飾り紐つきの鈴。
夢じゃない、と断じるにはどう帰ってきたかの記憶もなく。
「まぁ、眠れたから良いか」
時計の脇に鈴を転がして時間を確認する。
十一時三十八分。
「くそぅ。洗濯して掃除して一日終わりだな」
ぼやきながら、それでもすっきりした目覚めに少し浮かれてベッドから抜け出した。
Jan. 2008