夏休みの幽霊



「う。わ」
 少々大袈裟だけれども、血の気が引く感覚。
 カバンの中身を机の上に広げ、中身を一つずつ、しっかりと確認する。
 ない。
 引き出しの中、本棚も確認してもない。
「……まじかぁ。学校に忘れてきたのかぁ?」
 どこを探しても、ない。
 夏休みの宿題の一つ、世界史のワークが。
 何故、もっと早くに気が付かなかったのか。
 昨日まで『夏休みって何だっけ?』と疑問に感じつつ毎日夏期講習で学校に行っていたのに。
 最悪、今日の日中だったらまだ学校は開いていたのに、ただいま夜十時。さすがに先生たちもお帰りだろう。
 いや、もしかしたらいるかもしれないけれど、イチかバチかに賭けてこの時間に学校に行きたくない。
「明日から、学校閉めるって言ってたよねぇ」
 お盆休みのため、講習も補習も部活も全部中止の一週間。先生たちも学校には来ないと言っていた。
「一週間放置する?」
 宿題はほかにも山のようにあるし、そちらを先に進めておいて世界史ワークは一週間後に取りに行って、一気にやっつける。
 別にそれで全然かまわない。
「でもなぁ」
 なんとなく手元にないのが落ち着かない。
 本当に学校に置き忘れてるのか確認しておきたいというか。
 もし学校になかったら部屋のなか捜索しないといけないし、一週間そわそわしてるのもちょっと辛い。
「……駄目もとで明日行ってみるかぁ」
 もしかしたら、一人くらいは先生が来てるかもしれないし。
 いなければいないで諦めがつく。
 よし、決定。


 正門。閉まってる。
「うわぁ、やっぱりダメかぁ」
 駄目もとではあったものの、かっちりと閉じられている正門を目にするとがっかり感が半端ない。
 駐車場も一台の車も停まってないし。
 暑い中、必死で自転車こいで来たのに。
 仕方ない、帰ろ。
 その前に水分補給だ。
 自転車の前かごに入れておいたペットボトルのお茶をぐいぐいと半分ほど飲む。
「……あれ?」
 職員玄関の前に自転車が停まってる。
 さっきまではなかったような気がするんだけど。
 どこから入ったんだろ。
 正門から垣根に沿って自転車を押す。
「入口発見」
 普段通ることのない民家との間の路地に人一人通れる程度の通用口。
 『無断進入禁止。御用の方は職員室まで』と書かれたプレートのついた小さな門扉を開ける。
 職員玄関前に停めてある自転車の隣に自分の自転車を停め、入り口のドアを引く。
「……開かない」
 何か引っかかっているのかともう一度力を籠めるがやっぱり動かない。
 覗くと玄関に靴が一足出しっぱなしになっているので誰かはいるはず。
「えぇと、職員室は……左側か」
 校舎内にいないので、一瞬方向に迷う。
 玄関の真横が事務室で、放送室があって、職員室。
 位置を特定し、カーテンのかかっている窓を外から叩く。
 職員室、一階にあって助かったよね。
 とんとんとん。とんとんとん。とんとんとん。
 気づいてくださいよー。
 とんどんとん。とんとん……。
「うゎ」
 カーテンの隙間からほんの少しのぞいた顔に思わず声が出る。
 夜だったら怖くて逃げてたね。
「……どうした?」
 カーテンを開け、窓も開けて顔を出したのは確か理科系の先生だ。いつもネクタイしてるイメージだけれど、休みだからか黒色のTシャツを着ていて雰囲気がずいぶん違う。
 名前なんだっけ。教えてもらってないからうろ覚えだなぁ。
 佐藤……じゃなくて加藤だ、加藤先生。
「すみません。忘れ物したので教室棟に入らせてもらえませんか?」
「玄関開けるから、とりあえず中入って」
 少々面倒そうな顔をしている加藤先生ににこにこと愛想を返す。
「ありがとうございます!」


 職員室で鍵貸し出し申請用紙に学年・クラス・名前・持ち出し時間を書き込む。
「はい。一年五組の吉見さんね、申し訳ないけど二階の渡り廊下から教室棟に入って。忘れ物とったら早く戻るようにしてください」
「わかりました。さくさく行ってきます!」
 職員室を出て、階段を上がる。
 校長室、会議室、生徒会室と普段関わりのない教室が多いので、来ることのほとんどないフロアを横目に渡り廊下の扉の鍵を開ける。
 普段は開きっぱなしになっているのでなんだか変な感じ。
 なにより人気がなくてしんとしているし。
 教室棟側の扉の鍵も開けて、そのまま階段を下る。
 そういえば何であえて二階の渡り廊下なんだろ。
 一階から行けば直で一年の教室に行けたのに。
 まぁ一階の渡り廊下は屋根があるだけのほぼ屋外だし、鍵を持ち出されたくないのかもな。
 それにしても、加藤先生は何しに学校に来たんだろ。忘れ物なのか、仕事のやりの腰があったのか。
 いてくれて助かってけど。
 教室の鍵を開け、自分の席に向かう。
 机の中に手を突っ込むと、何かある。
「あった」
 引っ張り出してみれば案の定世界史ワーク。
 ほっとする。けど、なんでこれ一冊だけ置いていってしまったのか。
 自分のうかつさにがっくりする。
「よし。とりあえず戻ろう」
 早く戻ってくるように言われてるし。
 誰もいない教室って珍しくて、ちょっと惜しい気がしてぐるりと見渡した後、教室に鍵をかけた。 


 がしゃん。
 二階に上がり、渡り廊下に出ようとしたところで背後から音がして立ち止まる。
「……何か、落ちた?」
 たぶん上の階。
 窓の閉め忘れとか? ないよなぁ。さすがに。
 一応、確認しておこうか。
 なんとなく気配を消しつつ、そっと三階に上がる。
 ざっと見た感じ廊下側の窓が開いている様子はない。
 閉じ込められたむっとした空気が詰まっている感じだし、それらしいものも落ちていない。
 教室の方はわからないけど、どの教室もドアが閉まっているし、扉を隔てた向こう側って感じの音じゃなかったんだよなぁ。
 それに教室の扉は鍵がかかっているから確認のしようがない。
 とすると、もう一つ上の階か?
 そんな離れたところからの音だったかなぁ?
 四階まで上がろうかどうしようかと思ったところでトイレの存在に気が付く。
 あぁ、なんかトイレで正解な気がする。
 人が入れそうもない小さい窓なら換気のために開けっぱなしにしてそう。
 で、中身の少なくなった消臭スプレーが落ちた! 
 完璧な推理でしょ、これ。
 よし確認だ。
 トイレに向かうべく、四階に上がる階段を横切ったところで視界に何か入り、振り返る。
「っうぎゃー」
 白っぽい何かは私の叫び声に驚いたように立ち上がる。
 …………人?
「あ、あやしいものじゃないよ」
 落ち着けと言わんばかりに両手を上げる。
 白いTシャツにデニムをはいた普通の、どこにでも良そうな感じの男子。
 男子にしては小柄だけど先輩かな? 三階にいるってことは三年生?
「先輩も忘れ物ですか?」
 あれ、でも手ぶらだな。それに誰かいるなら加藤先生は言ってくれるんじゃないかな。
 こうして鉢合わせすることだってあるんだし。
「……先輩……先輩に見えるかぁ」
 なんだか複雑そうな声と表情でぼそぼそ呟く。
「先輩じゃないってことはやっぱり不審者ですか?」
 不審者にそんなこと聞いても「そうです」なんて答えないだろうし、さっさと逃げるべきなんだろうけれど危険な感じが全くしないんだよなぁ、この人。
 人が良さそうっていうか、そんなに強そうじゃないし。
「不審者ではない……けど、えぇと……幽霊です」
 思わず足元を見る。
 幽霊って足がないんじゃなかったっけ?
 脚はあるし、なんならくっきりと影もある。
 触ってみようと手をのばすと、すぃと避けられる。
「なんで逃げるの!」
「なんではこっちのセリフだ。幽霊を触ろうとするな」
「こんな朝っぱらから出てくる不謹慎な幽霊、触ってみたくなるでしょ」
 後ずさる自称幽霊にじりじりと近づく。
「ぅお」
「って、あっぶな」
 後ろを確認せずに下がったせいで階段を踏み外しそうになる幽霊の手首をつかむ。
 落ちる!
 腕一本で支え切れるはずなく、階段の方へ引っ張られる。
 焦りながらも空いた手で手すりを捕まえられたのは我ながらえらかった。
 幽霊の方も手すりをつかめたらしく二人とも階段落ちせずに顔を見合わせる。
 幽霊、顔色悪い。っていうか幽霊が血色良い方がおかしいのか。
「……幽霊、触れるんだね」
 お互い、体勢を立て直したところで手を離す。
「勘弁して。幽霊助けようとするとか。知ってる? 幽霊ってもう死んでるんだよ?」
 深々と溜息とつく。
 いや、だって咄嗟だったし、そんなこと考えてなかったし。
 だいたいほんとに幽霊ってわけじゃないでしょ? 触れるし、体温あるし。
 視線で言いたいことを察したのか、幽霊は誤魔化すように目をそらす。
「……力の強い幽霊は昼間にも出てくるし、実体も持てるんだよ」
 とってつけたような言い訳。
 まぁ、そういうことにしておいてあげても良い。
「そっちは、なんで夏休みなのに学校に来てるんだよ」
「忘れた宿題を……あれ?」
 さっきまで持っていたはずのワークがない。どこ行った。
 きょろきょろと見渡すと廊下の隅に落ちているのを発見。
 さっき落ちそうになった時に放り投げたんだな、多分。
「わざわざ取りに来たんだ? えらいなぁ。俺だったら絶対放置してた……だいたい、宿題なんて夏休み明けてからが本番だったしな」
 しみじみと懐かしむような顔。
 ……えぇと、まさかほんとに幽霊なの?
 過去形だし、なんか、ちょっと。
 幽霊はひょいひょいと軽快な足取りで落ちているワークを拾いにいき、ぱたぱたとほこりをはたいてから渡してくれる。
「ありがとう」
「どういたしまして。宿題頑張るのもほどほどに、楽しい夏休みを過ごしてね」
 にこやかに見送りの言葉を言われてしまい、それ以上なにも聞くことができずにそのまま職員室に戻る。
 思ったより時間がかかってしまったけれど、加藤先生は特に何も言わず鍵を受け取るだけだった。
 幽霊のことは言えなかった。


 夏期講習と宿題で夏休みは終了。
 幽霊の言った楽しい夏休みなど夢のまた夢だった。
 校長先生の長い話を聞き流しつつ、始業式の後のテストのことをぼんやりと考える。
 休み明け早々にテストってなんだかなぁ。
 初日くらい、始業式だけで帰りたい。
「それでは教育実習生の紹介を」
 いつの間にか壇上にいるのは校長先生ではなくスーツ姿の若い男女各一人。
 ?
 男の方、あれって。
 目を凝らしてみる。
「中田隆真です。担当は生物です。よろしくお願いします」
 少し緊張したような固い声。だけど間違いなくあの時の幽霊の声。
 なんだよ、やっぱり生きてたんじゃないか。
 過去形のはずだよ! 大学生かよ。童顔だな!!
 すごく騙された気分だ。
 体育館から出るときに端に立っていた幽霊を見つけ睨んでみせるとどこか勝ち誇ったような笑みが返された。
 むかつく!
「吉見ー、なに? 思い出し笑い?」
 クラスメイトの声に笑っていたことに気が付く。
「んー。幽霊がいたからさぁ」
「またおかしなこと言うー。なんでそれで笑うの」
 何でだろうね、ほんとに。
 ただ、まだ夏休みの続きみたいな気持ちで、ちょっと楽しくなっただけ。たぶん。

【終】




Sep. 2023