「いらっしゃ……」
うつむいていたカウンター内の店員がドアの開く音に顔をあげ、条件反射のようにお決まりの言葉を吐き出しかけて、途中で固まる。
「店員の愛想が悪い。マイナス一点」
「げ、綾(りょう)」
声を聞きつけたのか、奥からモップをかけながら現れた店員が眉をひそめる。
「態度が悪い。マイナス一点」
「何ソレ。勤勉な使鬼に向かってしつれーな」
文句を吐き出すモップの店員・昊(こう)を無視しカウンターに顔を向ける。
「章(あや)はまた痩せたか? ちゃんと食ってる?」
愛想の足りない弟に綾が声をかけると苦笑いが返ってくる。
「食ってる。……綾兄はどうしたんだ? 何かあった? っていうか、歩き?」
「んー、査察。車で乗りつけたらすぐバレるから、ちょっと向こうに路駐」
車通りの少ない閑静な住宅街なうえ深夜、という状況。そんな中、車で入って来れば店内に入る前に確実に気付かれる。
「暇なのか、綾? こんな客のこない時間に査察しても無駄だろ。まだ客のいる昼間に、覆面調査員でもやれよ」
モップの柄にあごをかけてうんざりと言う昊に笑みを返す。
「そうだね。じゃ、さっそく本題に入ろうか」
「……なに?」
カウンターに正対すると章は気持ち構えたような堅い声を出す。
弟の警戒ぶりに、綾はワザと笑みを深める。
「お仕事のお話です」
「だろーねー」
ため息をこぼしかけた章より先に、昊が苦笑い雑じりにつぶやいた。
「雨が降ると幽霊が出る?」
章は説明の途中で口を挟む。
「そう」
「そりゃ、うっとうしいな。梅雨時に現れるなんてはた迷惑な」
イートイン用の席に座った綾と章の前にコーヒーをだしながら、昊はうんざりと会話にまざる。
「全くねぇ。カビが生えてきちゃいそうだよね。それがまたうちの大学構内だっていうんだから、迷惑倍増だと思わない?」
昊のいれて来たコーヒーを一口飲んでから綾はため息をつく。
「え? 綾兄の学校なら自分でやれば……」
自分が巻き込まれるのを避けるため、控えめに提案する章に、綾は真顔になる。
「あのさ、自分の立場で考えてみろよ。見知った顔があちこちにあるのに、やりたいか?」
「納得」
章はみじかく返す。
たしかに、お祓い同然のことをする姿を友人知人に見られたくはない。っていうか、見知らぬ人の前であってもやりたくはない。
「それに、これはちゃんとした依頼だから。『浄声(じょうしょう)』でもないおれがやるわけにはいかないでしょう」
含みなく言う綾に綾は微妙な表情で黙る。
「大物なのか?」
「依頼主が? それとも対象?」
綾は振り返り、棚にもたれている昊に尋ねかえす。
「依頼主は別にどうでも良いだろ。現場には関係ないし」
「対象のことは知らない。おれが実際に見たわけじゃないし。同じ大学構内でも、現場はおれの行動範囲に含まれてないし」
興味なさげに答える綾に昊はかるく頭を振る。
「あのさー。綾。依頼が来るくらいの状況にまでなってるのに、噂話ひとつ耳にしないほど、アンテナ低くないだろ、オマエ」
「噂話は聞いてたよ。はじめは五月頭くらいからだったかな。そこから徐々に広がり始めて今じゃ、その話を聞かない日はないくらい」
昊のイヤミっぽい口調にも動じず、綾はどこか愉しげに返す。
「綾兄、それ聞いて確認に行ったりは」
「章くん、お兄ちゃんの座右の銘はね『君子あやうきに近寄らず』なんだよ」
するわけないでしょ、そんな面倒なこと。と、言外に綾は言う。
「そういうヤツだよなー」
言葉を返さない章のかわりに昊がしみじみと呟く。
「じゃ、そういうことで。一応、案内役はおれがやるから。明日夕方、うちの学校で待ちあわせよう。ついたら電話して」
章の予定を一切聞かずに日時を決めて、綾は立ち上がる。
「コーヒーごちそうさまでした」
昊にかるく目礼して、綾はコンビニを出て行く。
「ま、さっさと片付けた方が気が楽か」
自分を納得させるべく、章は呟き残ったコーヒーを一気に飲み干した。
「早かったな」
人気の少ない北門の陰に立つ章と昊に声をかける。
「今日は四限までだったから。綾兄こそ」
「たまたま近くにいたんだよ」
「ところで、綾。こんな天気で幽霊は出るのか?」
梅雨の晴れ間。五時近いのに、まだまだ明るい青空が広がっている。
「最悪、章が『声』を使って引きずり出せばいいんだし?」
「人事だと思って」
ぼそりと愚痴る章に、にっこりと綾は笑ってみせる。
「なにか?」
「なんでもない。場所はどこだっけ?」
言っても、どうにもならないと悟って章は先に歩き出した綾の後ろを追う。
「旧武道場。新武道場が出来てからは、一部学生の巣になってたらしいけど、幽霊騒ぎで先月から立入り禁止。変な薬やってたんじゃないかとか、多少問題にもなってね」
「実際のところは?」
目撃者の大半はその巣にしていた学生と考えていいのだろう。章の問いに、綾は肩をすくめる。
「シロ。グレイか黒だったら外部に依頼せずに内々に処理するでしょ」
確かに有名大学内で学生が薬で錯乱なんて大問題になるし、学校としてもばれないよう対処をしたいのが実際のところだというのはわかる。
「綾は身も蓋もなさすぎ」
「まぁ、シロで良かったよね。うちに依頼が来るとは思わなかったけど」
昊の言葉を聞き流し、どうでもよさそうに綾は呟くと、さほど傷んでいない旧武道場のドアをあけた。
じめっとした空気が道場内。蒸し暑いぐらいの外よりも湿度が高いにもかかわらず薄ら寒い。
「いそうだな」
呟く昊に章は目を細める。
ぽつり。
冷たいしずくが手に触れる。
ぽつり、ぽつり、ぽつ、ぽつ。
だんだんとしずくは増えていく。
窓の外に目をやると先ほどまで晴れていた空がくらくなり、雨が降り出している。
「綾兄。これ、さぁ。雨が降ると出てくるんじゃなくて、出てくると雨が降るんじゃないの?」
まだ当の幽霊は出てこないが室内にふる水滴の量は確実に増えていく。
「さほど違いないだろ」
見た目に反して大雑把なことを言う綾に章は顔をしかめる。
「大違いだよ。天候に左右されるのと、天候を左右するのじゃ」
いくら雨が降りやすい梅雨時だからといって、そう簡単なことではないはずだ。
それも外だけでなく、屋内にまで降らせている。雨漏りするような穴があるわけでもないのに。
「でも、やるしかないんだし?」
「面白がってるだろ、綾兄」
簡単な物言いに、章は情けなく言い返す。
「かわいい弟の成長が楽しみで」
どこまで本気なのか、口元に笑みを浮かべて綾は一歩下がる。
言い返しても勝てるはずもないので章は息を整えまっすぐ前を見据える。
「《雨を背負いし者、出でよ。我が言はそれを命ず》」
章が、ぱんとひとつ手をたたくと、すでに霧雨状態の武道場の中にぼんやりと幽霊が浮かび上がる。
瞳から涙を流し続ける陰気な雰囲気の女性。
「泣き女か」
つぶやく昊の言葉には反応せず幽霊は章を招く。
『キテ。キイテ。オネガイ』
片言のような、堅い声。
「《斎まはりあわせ》」
章の声に雨の勢いが衰える。
『オネガイ。タダ、コエヲ』
ゆらりと近寄ってくる幽霊を章は動かずにじっと見つめる。
「章」
小さく、警告するような昊の呼びかけに、了解の言葉のかわりにかるく手を上げる。
「章っ」
「うごくなっ」
幽霊の手が章の首に伸びる。綾の焦った声に章は鋭く返す。
「だーめだって」
幽霊の手が章の首をしめる様子から目を離さないまま昊は助けに走ろうとする綾の腕を捕まえる。
「っ。使鬼が、あれをゆるすのか?」
怒りをかくしもしない綾に昊は微笑う。
「主の言葉には従わないと。……大丈夫、死なせはしないよ」
あやすようなやわらかな表情に、綾は仕方なく力を抜く。
「信じてもいいんだな」
「当然。おれが、章を選んだんだよ?」
どこか自慢げなその様子に綾はようやく表情を緩めた。
憎々しげに歪む幽霊の顔。章はそれを間近で観察する。
一瞬弱まった雨は、再度つよくなっている。
首にかかった手は、今のところさほど圧迫感はない。が、放っておけば力をつける可能性もある。
「《雨にかまけ、現世にさ迷いしもの。我が言向けにならえ。明し世にすすめ》」
消える直前に首にかかった強い力に顔をゆがめながら章は唱えきる。
「おーつかーれ」
膝をつき、咳き込む章の背を昊はさする。
「四十八点」
その後ろで綾がぼそりと呟く。
「?」
目尻の涙をぬぐいながら章がふり返る。
「危なっかしすぎ。この程度、章の力ならもっと楽に安全に処理できるだろ」
厳しい物言いに章は目を逸らす。
「ほら。やさしいのが章の良いところだしー」
章のかわりに昊がフォローを入れる。
「まさかいつもこんな感じとか言わないよな?」
しゃがみこみ、章と目線を合わせて綾がにっこりと笑って尋ねる。
もちろん。と言わんばかりに章はこくこくと首をたてにふる。
「とりあえず、このことは宗代に報告しておくから」
「綾兄?」
咳がようやく治まった章がどういう意味かと尋ねる。
「はじめに言っただろ。査察だって。呼び出し、覚悟しとけよ」
章の頭をかるくはたいて綾は立ち上がる。
「え?」
「じゃ、また近いうちに」
愉しそうに先に出て行く。
「……ご愁傷様」
心のこもった昊の言葉に、章はかえってへこんで、座り込んだ。
Jul. 2009
関連→連作【神鬼】