「結婚するの」
あの日もこんな雨だった。
視界がにじむような細い雨が世界を包んでいたのを懐かしく想いだす。
窓の外の潤んだ景色をながめながら、ようやく零すように言葉にした。
「え? 誰が」
振り返ると、飲もうとしていた紅茶をテーブルに戻した麻美が目を真ん丸にしていた。
その表情がおかしくて、少し笑えた。
「私よ」
「誰と? あ、聞いちゃダメ?」
今までと同様、こちらの事情に深く踏み込まないように気遣ってくれる。
「幼馴染、かな」
目を伏せて、思い浮かべる相手はひどく曖昧だ。
あれとは思い出を共有していないが、麻美に説明する程よい言葉が見つからず、便宜的にそんな説明をする。
「……ねぇ、その人のこと好きなの? 大丈夫?」
気遣うような優しい声に顔を上げる。
「何故?」
「だって、なんか……淋しそうに見えて」
好きなはずない。あれにそんな感情は持たない。
だからといって、そんなこと言えるはずもない。
心配してもらえるのはうれしいけれど、心配させるのは本意でない。
「さみしいわ。だって、麻美とも会えなくなるもの」
見透かしてくれる、やさしい人。ずっと、そばにいたかった。
「どうして? 結婚してもたまには会えるでしょう? そりゃ、今ほど頻繁には無理だろうけど」
「遠くへ行くの。だから、もう会えないの」
時間切れ。もう、おしまい。
「ウソ。いつ」
「明日。行くわ」
じりじりと、言い出せないままここまで来てしまった。
何も言わないままで、行こうかと何度も思ったけれど。
「なんで、そんな……」
「麻美がそんな顔するから、離れ難くなるでしょう」
今にも泣きだしそうな顔で、引き留めるように手首をつかむ。
引き留めてもらえるのを、同じ気持ちなのを確認したかったのかもしれない。
「…………また、会えるよね?」
不安そうに確認する。
だから、うなずく。
「ええ、もちろん」
目を伏せて、ほそく微笑んでみせる。
麻美はほっとしたように手をはなす。
「すごく、さみしいけど。でも、おめでとう。幸せになってね」
今、この時以上に、幸せになんてなれるはずなんてない。
それでも麻美の気持ちがうれしくて、うなずいた。
「おかえり」
そんなはずはないのに、やさしくねぎらわれた気がして素直にうなずく。
彼は私とよく似たもの。
ただ、漂い、何と寄り添うこともなく、ただそこにあるだけだった存在。
それにも関わらず、それぞれ心傾ける者に出会い、自我を持った。
はぐれもの同士。
「ええ」
「断ち切れたか?」
聞かずもがな、だ。
先に決別してきた彼の方がよくわかっているはずなので、答える必要もない。
言葉にしたら余計に未練が募る。
「嘘ばかり、うまくなったわ」
「人間と相対するというのはそういうものだ」
自嘲的に響くのは、当人にも思い当たることがあるのだろう。
「あなたと結婚なんて、ありえないわよね」
お互いに苦笑をかわす。
気持ちなど伴わない。同病相哀れんでいる部分はあるけれど。
それ以前に、我々に婚姻の必要はない。
つがいで増えるわけでもなく、増える必要すらないのだ。
日々が過ぎゆくのを、ただ漫然と見過ごすだけの存在。意味も、価値もない。
「あえて、そのような嘘などつかずとも別れられたのではないか?」
「……そうね」
何も言わずに黙って消えるという選択もあったし、理由を濁したまま疎遠になることも考えなかったわけではない。
「あの子、自分のせいだと気に病みそうだったから」
どうしようもないことだと、そして自分が離れ難いことを伝えたかった。
友人としてそばにいたけれど、自分には人間としてあるべき過去がなかったから、話せないことが多かった。
身内の話や学生時代のことなど、会話の合間に触れられる話題をずっと曖昧に微笑ってやりすごしていた。
それを不審に思わないはずはないのに、追及することなく居てくれた。だからこそ、今まで一緒にいられた。
やさしい子だった。
あの日は霧のように細かな雨が降っていて、景色はぼんやり霞んでいた。
だからと言って、別段どうということもなかかった。
私には濡れて不快になるという感情はなかったし、それ以前に雨に濡れるということもない。
晴れていようが、嵐だろうが、大して変わりはない。
陽が昇り、沈み、また朝が来て、そして夜になる。そんな繰り返しを漠然と眺めるだけの日々。
そんな中、あの子だけが特別になった。
いつもと代わり映えのしなかったあの日。
足早に行き交う傘のなか、あの子だけがどこかのんびりとした歩調だった。
とは言っても、雨を楽しんでいるような人間は良く見かけたから、その時はまだあの子はただの風景だった。
あの子は、ふと足を止めて車道の方に目を向けた。そしてすぐに飛び出しそうな勢いで走り出す。
実際は自動車の通り過ぎるすぐわきで足を止め、しゃがみ込む。
そしてすぐに戻ってくると、周囲を確認してガードレールに沿うようにならんだ植え込みの前で再びしゃがむ。
素手で、木の根元を掘っていた。
雨で土が柔らかくなっていたとしても手間な作業だったと、生身の体を持った後の今なら思える。
どのくらいの間、そうしていただろう。
あの子は膝に抱えていた小さな猫を、穴にそっと横たえた。
「ごめんね」
ぽつんと落ちた言葉。
亡骸に静かに土をかぶせ、しばらくしてあの子は立ち去った。
そして、私は変質した。
人間に見えざる漂う何かから、あの子に見える人に似た殻を持った『私』に。
翌日、小さな花を一つ供えたあの子の後ろに私は立った。
「なにを、しているの?」
そうして、あの子に出会った。
「どうしてなのか、未だにわからないのよ?」
長い長い間過ごしてきた日々には、あの子と同様の行動をした人間もいたはずだ。
その時には、何も思わなかったのに。
「そういうものなんだろう」
思い当たることがあるのか、それとも返答が面倒になったのか、曖昧な返答。
「そうね」
どちらでも良い。
人の目に映らざるものに戻ってもなお、私にとってあの子は特別なままだ。
それだけで充分。
今日もまた、降りしきる雨の中、傘をさしたあの子が通り過ぎる。
Jun. 2015