水のあわ



 ゆるしがたい。
 珍しく泊まりで遊びに行こうなんて誘ってくるから、そっちの都合に合わせて、上司に嫌な顔をされながら、有休を無理やり二日もぎ取って来たのに。
 ホテルに荷物を置いて早々に、急な仕事が入ったから帰る、だと?
 ありえないでしょ、どう考えても。
 それほど観光地でもない、ただ海が近いだけのリゾートホテルに一人取り残されてどうしろと。
 窓際の椅子に座り、海をにらむ。
 シーズンオフ、おまけに平日なので海岸に人気はない。
「あー。はらたつ」
 帰っても良いのだけれど、どうせ料金は払わなければならないと思うと、もったいなくてチェックアウトできない。つくづく貧乏性だ。
 テレビをつけてはみたものの、別段面白い番組もやっているわけでもなく……。
「……ぁ。寝ちゃったのか」
 いつの間にか窓の外は、かなり暗くなってしまっている。
 なんて無駄な時間の過ごし方だ……。
 見あげた藍色の空には、ぽかりと明るい月。
「散歩でもしよっか」
 このままだと、朝まで部屋でだらだら寝て終わってしまいそうだ。
 ある意味それも贅沢な気もするけれど、帰りに虚しさでいっぱいになること間違いなし。
 冷蔵庫からビールとミネラルウォーターを取り出し、冷蔵庫の上においてあるおつまみと一緒にかばんに突っ込んだ。


 のんびりとした波の音にあわせるように、ゆっくり歩く。
 昼間以上に人気はなくて、ちょっとさみしいような気楽なような。
 風も程よくすずしくて、部屋の中でくさってなくて良かったと思う。
 砂浜から、沖へ突き出るように伸びた防波堤をたらたら歩く。
 こういう場所って釣りをしている人がいるイメージだけれど、幸いなことに誰もいない。
 突端までいって座り込み、かばんから缶ビールを取り出しプルタブをあける。
 シュ、と小気味良い音をたてるビールをノドに流し込む。
「おいしー」
 ミックスナッツの封も開け、つまみにしながら一本飲みきる。
「……何やってんだか、ねぇ」
 風は気持ち良いし、月はきれいだし、ビールは美味しいし、文句なし、のはずなのだけど。
 仕事人間のヤツの顔を思い出して顔をしかめる。
 帰ったら、どうしてやろうか。
「げ」
 ぷらぷらとさせていた足からサンダルが抜け落ちそうになり慌てて逆の足で押さえる。
「ちょ、嘘、でしょ」
 何でそうなるのか、ぽちゃん、ぽちゃんと両足ともサンダルが海に落ちる。
 しばらく波間を漂っていたサンダルはそのうち沈んでしまう。
「ちょっと、勘弁してよー」
 買ったばかりなのに。
 そこそこ高さがあるから、たとえ浮かんだままでも取りにはいけないけど。でも、浮かんでいれば長い棒で引き寄せるとか、まだ方法が考えられたのに。
 素足で帰るのか? ホテルに。みっともないー。
 とりあえず、あれだ。一杯呑んで落ち着こう。
 新たなビールをかばんから引っ張り出し、口元まで持っていく。
 とりあえず、ヤツには新しいサンダルを買ってもらおう。責任の大半はヤツにあると言っても過言ではないだろう。
「お届けものでーす」
 脚をつつく感触と唐突に聞こえた声に、落としそうになった缶をあわてて傍らに置く。
「ここですよー」
 下?
 防波堤から海面を覗き込むと、女の子が一人、波間から顔を出している。
「な、何やってんの?」
 月が結構明るいとはいえ夜の海。それもこの時季、泳ぐには水温が低いんじゃないだろうか。
「散歩してたら、なんか落ちてくるし、また心ない人間がゴミでも捨てたのかっ? って思ったら新しそうなサンダルだし、顔をあげてみたら、アナタ、途方にくれてたし」
 くすくす笑って少女はサンダルを差し出す。
「……それはご親切に」
 手をのばし、サンダルを受け取る。また、落とすといけないから取りあえず履かずに防波堤に置いておく。
「お礼を催促するのもどうかと思うんだけど、のど渇いちゃったなー、ってことでそれ、頂戴?」
 先ほど開けたばかりの缶ビールを少女は指差す。目ざといな。
「ダメ。あなた未成年でしょ。水ならあげるから」
 ミネラルウォーター持ってきて良かった。
「だいじょーぶ、私、未成年じゃないし」
 どこからどう見ても未成年だ。十六、七くらいだろう。
 だまってペットボトルを差し出すと少女はいたずらっぽく笑って、尾っぽで海面をたたいた。
 ……尾っぽ?
「私、人間じゃないし、こう見えてアナタよりずっと年上だし」
 ぱしゃぱしゃと青銀色にひかる尾っぽで水と戯れている。
「人魚?」
「正解ー」
 ぱちぱちと手をたたいて少女はにっこり笑った。
 …………。
「うん。最近疲れてるし、お酒にも弱くなってきてるし、酔ってるね、私」
 手にしたペットボトルのキャップを開け、ノドに流し込む。
「ちょっとー、そっち飲むならビール頂戴よぉ」
 見なかったことにしようとしてるんだから察しろよ。
 でも、まぁ、サンダル拾ってきてもらった恩は返さないといけないか。
 ため息ひとつついて、プルタブを開けてしまってあるビールを手渡す。
 人魚は器用に波間に浮かびながら缶を傾ける。
「大体、なんでこんな辺鄙な日本の海に人魚がいるのよ。絵柄的におかしいでしょ」
 ヨーロッパの方とか、もしくは常春っぽいあったかい海に居るイメージじゃない?
 日本ならせめて沖縄の海とか。
 くたびれたコンクリートの防波堤に座るやさぐれた女とビールを飲む人魚。シュールだ。全然絵にならない。
「別に誰に迷惑かけてるわけでもないんだし、どこに住もうと自由じゃない? ひっそり大人しく暮らしてるんだからさー」
 美味しそうに飲み干したビールの缶をぺこぺこ鳴らせながら人魚はふくれっ面をする。
「ひっそり? ビールたかりに来といて?」
「しっつれいね。落し物を届けに来たんでしょ。人間に関わるのは禁忌だっていうのに、それを破ってまで。アナタが、みょーにさみしそうに黄昏てるからっ」
 こちらに向かって放り投げられた空き缶を慌ててキャッチする。あぶないなぁ。
「いつ早まったことするかと思うと気が気じゃなくって」
 自殺しそうに見えたってこと? そこまでやばそうだったか? 別に普通に腹立ててただけなんだけど。
「失恋したわけじゃないし、自殺なんて思ってもみなかったし」
 だいたい、ここから飛び込んで死ねるか疑問だ。大した高さがあるわけじゃないし。まぁ、おぼれる可能性はあるけど。
「なら、良いんだけどね」
「そういうことが、あったの?」
 妙にしみじみとした言葉に思わずたずねると人魚は曖昧に微笑む。
「一度だけって、わけじゃないんだからねぇ。もったいないよね。ま、私の早とちりで良かったよ。ごめんね?」
「全然っ。それより、ありがと」
 サンダル拾ってくれたし、見ず知らずの人間、こんなに心配してくれて。
 お礼代わりにもう一本ビールを差し出すと人魚は嬉しそうに受け取る。
「ビール、好きなんだね」
 なんか不思議だ。人間に関わるのはダメみたいに言ってたのに。
 ふふと笑って、人魚は缶ビールを軽くふる。
 おーい。そんなことしたら……案の定、人魚がプルタブを引き起こすともわもわとあふれだす。
「泡泡じゃない」
「人魚に泡は付き物でしょ」
 泡ごとビールに口をつける。
 わけがわからない。
 水をちまちま飲みながら、なんとなく笑えてくる。
 やさぐれて、一人でお酒を飲んでたはずなのに。
 月夜の海に人魚って言葉だけならきれいなのに、コンクリートの防波堤の下でビールを美味しそうに飲んでる人魚は、かるく酔っ払ってる風だし。
「ま、こういう夜もいいかー」
 ヤツが先に帰ったことに腹が立っていたけど、ある意味、感謝してもいいかもしれない。
「また、会いに来ても良い?」
 飲み干した缶ビールの缶をもてあそぶ人魚に声をかけると、にんまりとした笑みがかえってきた。

【終】




Aug. 2011