まがいの揺籃



 降り出した雨に小さく眉をひそめる。一日快晴の予報が出ていたし、降り出す前兆のようなものは感じなかった。
「厄介だな」
 こぼれた声は思った以上に疲れて聞こえた。
 幸い、雨は細かく、ずぶ濡れになるほどではない。歩調を変えないままゆるりとした坂を上る。
 上りきった先には紅葉した大きな木が一本。
 周囲は車一台がようやく通ることができる程度の道幅のせいか、車通りはなく、民家の裏手のせいか、雨のせいか人通りもなく静かな場所だった。
 雨宿りに丁度良さそうなその木の幹にもたれて息をつく。
 見上げれば真っ赤な葉は隙間なく枝間を埋め尽くし、完全に雨を遮ってくれている。
 細い雨が葉に落ち、さわさわと立てる柔らかな音が心地よく、目を閉じた。
「寝ちゃったの?」
 少し低めの透る声にまどろみから覚める。
 目の前には少女が立っていた。
 華奢な体躯、腰まである長い髪、淡い色彩の瞳。
「あ、起きてた」
 わずかに微笑む。
 もう一度、目を閉じる。
 ゆっくりと息を吐き、目を開ける。
 先ほどは少女だと思ったが、今改めて見ると自分より少し年長、二十代半ばほどにみえる。少女というよりは女性といったほうが良いだろう。
「大丈夫? 体調悪いの?」
 やわらかに気遣う声。
「いえ。ただの雨宿りです」
 もう大丈夫だ。
 しっかりと女性に目を合わせて笑みを返す。
「そう? 急に降りだしたものね」
 女性もすぐ隣に並び、目を細めた。
「どこかへ行く途中ですか?」
「あなたに会いに来たの」
 見上げる女性の瞳がやさしく揺れる
「僕に? どこかでお会いしたことありましたか?」
 既視感のある姿ではあった。
 その髪も、顔立ちも、声質も、姿勢も、良く似ていた。
「あなたこそ、私のこと見たことあるって顔してる。ずっと、はじめから」
 そっと手を握られる。
「……そうですね」
 振り払うことはせず、ただ、されるがままに頷く。
「恋人?」
「大事な人です」
 否定はせず、答える。間違えないように。
「そう。でも、その割には辛そうな顔をしているわ」
 こちらを見上げるのは心配そうな顔。
 ひどく似ていて、目を逸らしたくなる。
 ほんの少し目を伏せて、口元に笑みをかたどる。
「そんなこと」
 否定の言葉を遮るように女性のひんやりとした指が口元に触れた。
「誤魔化さなくていいわ。私にはわかってるもの。あなたはやさしくて、かなしい子だわ」
 気持ちに寄り添うようなしみいる声、いたわるような静かな微笑み。
 何も言えないでいると、女性の手がするりと右目を覆う前髪に触れた。
 反射的に振り払いそうになる。その衝動を息をのんでやり過ごす間に、あっさりと前髪をかき上げられた。
「あぁ、こんな色をしているから隠しているのね。かわいそうに」
 女性に「こんな色」と言わしめた右目は淡い紫色をしている。
 視力に特に問題はないが、この特異な色のせいで煩わしいことになるのが面倒で普段は隠していた。
 ……正しくは、晒して歩くだけの覚悟がないだけだ。まだ。この目のせいで引き起こされた諸々は溶けることない重石となって、ずっと居座っている。
「もう大丈夫。私なら受け入れてあげられる。なにもかも、忘れさせてあげる。あなたはもう苦しまなくていいの。心穏やかに、楽に生きられるようになるから」
 ゆったりとした耳に心地よい囁き。すべて委ねたくなるような誘惑に満ちた言葉。
「そんなことが、ほんとうに?」
 抱き寄せられるままに女性の肩に額を乗せる。
「えぇ。あなたのことを助けてあげたいの」
 耳元に女性の吐息がふれる。
 もう、この辺にしておこう。
 大きく息を吐いて顔を上げる。
「大変魅力的な提案ですが、すべてお断りします」
「……どうして」
 ゆらりと女性の輪郭がゆがんだ。
 もとは微弱なものであったはずの雑多な思念や不可視の異形が縒り合わさったもの。
「どうして? 僕はあなたを引きずり出すための撒餌で、あなたの幻惑にとらわれない程度には強いからですかね」
 半ば靄のようになりかけている女性に笑みをむける。
 人の弱さにつけ込み、生命力を奪う、この樹に宿るこれを片付けるために来た。
「ひどい。だましたの? 私、ただ生きていたいだけなのに」
 女性は何とか人の姿を保ちながら涙をこぼしてみせた。
 それは生きる物の本能。仕方がないこと。
 ただこれは、放置できない程度に力をつけすぎてしまった。雨さえ呼べるほどに。
 だから、これも仕方のないことだ。
「絶対言わないよ、あの子はそんなこと。不愉快だ」
 なによりも大事な彼女に似た姿で、涙をこぼしながら哀願をつづける女性に向かっておしまいの言葉を口にした。


 足元には降り積もった紅い葉。
 裸になった梢からの陽射しがまぶしくて目を閉じた。

【終】




Nov. 2019
関連→連作【幽想寂日】