杞憂



 杞國に天地崩墜し、身寄するところ亡きを憂えるものあり。


「……つまり杞憂というのはいらぬ心配をあれこれすること。取り越し苦労のことだな」
 教師が説明をかるくまとめる。
 「空が落ちるとか、思うか普通?」「ありえねぇ」「暇人ー」「くだらねー」等々、呆れたような、面白がったような声が方々からあがる。
 その輪には入らず、人知れず深くため息をつく。
 今では、というか当時でも笑いものになっているその杞の国にいた人の心配が、実は正しいものだとわかったら世の中どうなるだろうか。
 まったく。声を大にして言ってみたいものだ。
 空が落ちてくる心配をせずに生きていられるのはおれ――を含めた一部の人間の働きのおかげだと。
 まぁ、真顔でそんなことを口にした日には寝言は寝て言えと冷ややかにながされるか、最悪なパターンだと病院に通報されかねない。
 小春日和な陽射しと、ほどよいざわめきのBGMにゆっくりとまぶたが下りてくる。
 まったく。毎日睡眠時間を削って働いているというのに……むくわれない。


「相変わらず、眠そうだねぇ」
 放課後、席を立つ気力もないまま半覚醒状態でぼんやりと外を眺めていると、のんびりとした声が降ってくる。
「おかげさまで」
「微妙に冷たくない? その返答。唯一無二の相方に向かって」
 内容の割にのほほんとした口調。
 顔をあげると唯一無二の相方は陽射しがまぶしいのか目を細めている。日溜りの猫みたいだな。
 その平和そうな顔を見て愚痴を吐き出す。
「夜な夜な『天象鏡』見なけりゃならない。睡眠時間は少ない。学年末テスト間際だというのにテスト勉強する時間さえもない。そんなおれが多少のヤサグレで済んでるのって、えらいと思わん?」
 ぼそぼそと呟きながら机に突っ伏す。真剣に寝に入っても良いか? ……気づいたら明日の朝になってそうだな。
「ナツメがテスト勉強してるのなんて見たことないんだけど」
 失礼な。
 視線だけで抗議すると、ゆるい笑みが返ってくる。
「あぁ、テスト直前の休み時間十分は必死にやってるよね。でも、あれって勉強っていうよりヤマかけだよねぇ」
 はいはい。アナタのおっしゃるとおりですよ。
 でも、ぎりぎりまで諦めないその根性はかってほしい。悪あがきとも言うがな。
 っていうか、本題からずれてるだろ。今問題にしてるのは勉強云々じゃなくてだな。
「少しぐらい愚痴っても良いじゃんよ。日々、世の為、人の為。陰にかくれてこっそりコツコツ善行を積んでるのにむくわれないにも程があってふてくされてるんだぉ」
 ヤバイ。ホンキで眠い。ろれつまわってねぇや。
 呆れたような、ため息に似た笑みがとどく。
「なんだかんだいってナツメはまじめだよね。真剣に毎日チェックしてるんでしょ。天象鏡もってるのはナツメ以外にもいるんだし、別に一日二日サボったって問題ないのに」
 正論だ。数が少ないとはいえ空という膜板を管理する天象師は何人もいるし、それに例え自分ひとりだったとしても、一日二日さぼるくらいでどうにかなってしまうほど空はやわくない。
 わかっているんだ、それは。しっかり。……あたまでは。
「天象師は鏡に魅入られた者だけがなりうるって言うからねぇ」
 天象鏡はその名のとおり、空をそのまま映し出すもの。天象師はそれを視てほころびを見つけ出し、決められた場所に杭を打ち込む。その作業は気が遠くなるくらい細かく、神経を使う。
 が、映し出された世界はのめりこめずにはいられないほど美しい。
「だからナツメは自業自得じゃない?」
 そんな結論かよ。
 どうせ反論したって勝てやしない。こういうのはさっさと話をすり替えるに限る。
「そういうスグリはどうなんだよ」
 天象師にはペアである成星師が必ずいる。
 成星筐をもつ成星師は、空からおちた杭のかけらを集め、再精製する。その杭を天象師が空に還す。どちらが欠けても意味を成さない。
 そして成星師もまた筐に魅入られたものであることは間違いないはずだ。
 拾い集めたカケラが鏡の中で精製されていく様は例えようのないと聞く。
「ヤバイなぁ、とは思うよ。一歩踏み外したら現世には戻って来れなくなるよねぇ。ということで、ちょっと気持ちだけでも一歩引いていたいなぁと最近つくづく思ってるところ」
 相棒成星師は、微妙に冷静な返答をする。
「つまり、結局は同じ穴の狢だろ?」
「身も蓋もない言い方だけどね」
 スグリは軽く肩をすくめてみせる。
「あーあ、これが職業になれば良いのになぁ。カケラも金にならない。完全ボランティアだもんな」
 ぼやく。
「だからさぁ、それがそもそも間違いなんだって」
 陽がかげり、少々寒くなってきたのかスグリはコートを羽織る。
「間違いって?」
 かばんに最低限の荷物をつっこみ立ち上がる。
 寒い中、ムダに教室でぐだぐだしていても仕方ない。帰ろう。
「仕事だとかボランティアだとか義務だとか考えるから、報われないって思うわけでしょ」
 隣を歩くスグリは淡々とつづける。
「だから、それは考え方を変えれば良いんじゃない? 簡単だし、ずっと楽になるよ」
 ん? つまり、なに? 出来れば端的に言って欲しいんだが。
 目線で訴えると苦笑いがかえってくる。
「結局、魅入られちゃってるんだからさ。どうしようもなく。開き直って天象師は趣味だ、って思っておけばって話」
 なるほど。
「スグリって、前向き」
「っていうかね、諦めただけ。次に筐を譲るときまでは、足掻いても無駄だしね」
 達観と言うべきか、諦観ととるべきか。
 でも、まぁ。そうだよな。単純に好きだからやってるって思えば、傍からなんと言われようと気にならない、かもしれない。
 半分、己を納得させるよう一人うなずく。


 そして今日も灯りを消して、天象鏡に向かう。
 魅せられて。
 そのついでに杞人の憂いが、ありえないままであるようにし続ける。

【終】




Mar. 2008