きっかけ



 たった一点だ。たったの。
 あと一点取っておけば、早朝補習なんて出なくて済んだのに。
 最後の問題で単位を書き間違えた己を呪う。
 あれのせいで△、マイナス一点を食らったのだ。それさえクリアしてれば早起きする必要もなかったのに。
 あのくらい大目に見てくれればいいのに。
「くそぅ」
 橋に差しかかり、重くなったペダルに力を込める。
 それほど急な坂ではないが、だらだらと長く続くのでうっとうしい。
 腹立たしさを踏みつけるように自転車をこぐ。
 あと少し。
「おはようございます」
 ちょうど橋の中央、坂を上りきったところで、すれ違いざまにかけられた挨拶に思わず自転車を停めて振り返る。
 声の主の自転車はそのまま橋を下っていく。
 一つに結んだ髪と、セーラー服の衿がはたはたと風になびいていた。
「……」
 たぶん、見ず知らずの子のはずだ。
 顔は良く見えなかったけれど、橋向こうから来たってことは、中学は違ったはずだし、だいたい顔見知りなら「おはようございます」なんて、丁寧な言葉遣いしない。
 小学生の頃なら、知らない人に挨拶とかしても平気だったけれど、年を取るにつれて妙な気恥しさもあってそういうことをしなくなった。
 だから同年代の子のためらいのない挨拶に驚いて。
「西高生だよな」
 セーラー服を制服にしているのはこの辺ではそこだけだ。
 歴史も古く、県下でも有数の進学校で偏差値も高い。
 家からもほど近いので、実は行きたいと思っていたこともあった。
 あたまいいガッコの生徒はやっぱり礼儀正しいのかもしれない。
「ってこともないか」
 今まで西高生とすれ違っても挨拶なんかされたことなかった。そういえば。
「……やば。遅刻する」
 もともとギリギリに出てきたのに、無駄に立ち止まっていては間に合わなくなる。
 補習に遅刻したらどんなペナルティを食らうかわからない。
 地面を蹴り、猛スピードで橋を駆け下りた。


 おれはバカなのか。
 だからこそ補習を受けてるんだが、それにしても。
 今度はマイナスを付け忘れて、減点。再補習とか、バカすぎる。
 おかげで二日連続早起きとか。だいたい早朝まだ頭が眠いときに補習受けて再テストなんてミスするなという方が間違ってるだろ。
「ねーむーいー」
 声でも出さないと、自転車こぎながらでも寝てしまいそうだ。
 だらだら続く坂をぐだぐだ進む。
「おはようございます」
 昨日とほぼ同じ位置、同じ声にあわてて顔を上げる。
「お、はよう、ございます」
 すれ違いざまにあわてて返す。
 妙に照れくさくて、語尾が小さくなってしまい余計に恥ずかしくなる。
 言わなきゃ良かったかも。
「おはよー」
 ちょっと笑った気配がして、今度は気軽な挨拶が背中に届いて、思わずまた自転車を停めて振り返る。
 こっちが振り返ることを見越していたのか、坂を下っていく彼女は手だけをこちらに向けてひらりと振ってくれた。


 たぶん習い性なのだ。
 えらいね、すごいね。と言ってくれる友人の言葉に多少の揶揄が含まれることもわかってはいるから、まぁ自分一人のとき限定にはしているけど。
「おはようございます」
 比較的朝早い時間、見かけるのは釣りをする人とか、犬を散歩させる人くらいだったから、気を抜いてつい口にした。
 相手が同年代の男子だったことに気が付いてちょっと失敗したって思った。別に悪いことはしてないんだけど、なんとなく。
 背後で自転車が止まる気配。
 変な奴って思われたかなぁとも思ったけれど、まぁ接点があるわけでもないし、どうでも良いかと、自分を納得させた。


 翌日。
 同じことを繰り返してしまう自分にあきれる。学習能力はどこにいった。
 たぶん昨日挨拶したのと同じ男子だ。
 まぁ、一度変な奴だと思われてしまっているのだから二度だろうと三度だろうと変わらないから良いということにしておこう。
「おはよう、ございます」
 さっさとすれ違った背中を追いかけるように届く声に驚く。
 そしてその照れたような挨拶に思った以上にうれしくなる。
「おはよー」
 だから仲の良い友達にするみたいにかるく返して手だけを振る。
 本当は振り返ってどんな顔をしているか、ちょっと見てみたかった。


「あっ!」
「加納。再々テスト突破したからって、ぼんやりしてんじゃねぇよ」
 思わずあげてしまった声に、担任の苦々しい注意が飛ぶ。
 教師のくせに柄が悪い。
「すみませーん」
 心のこもっていない謝罪をしてため息をつく。
 追試を突破したということは早朝補習に出なくてよくなったということだ。それに関しては大変喜ばしい。
 が、そうなると朝の挨拶のコとは会えなくなる。
 補習がなくても早起きすれば会えるけど、カノジョでもない、まだちょっと気になるなぁ、くらいの女子のために苦手な早起きが続けられるとは思えない。
 我ながら己のことを正確に把握しているな。
「おい、加納。聞いてねぇだろ。プリントを見ろ、話を聞け」
 いつの間にか近づいてきていた担任に机をだんと両手で叩かれ、あわてて顔を上げる。
「大丈夫。聞いてます聞きます見ます、ちゃんと」
 不機嫌な顔の担任に、今度は真面目に謝って、手元のプリントに目を落とす。
「……あ!」
 しまった。これだと思った時には声に出ていた。
 担任の睨みに手を合わせて無言で謝る。
 プリントの説明をする担任の声をしっかり聞きながら、メモを書き込んだ。


 やばい。
 昨日一昨日よりほんの少し早い時間に家を出て、橋の上で自転車を停めた。
 が、かれこれ十五分を過ぎても来ないのだ。
 あれか。二日連続で同じ場所で会って挨拶とかして、キモイとか思われて時間ずらされたとか? いや、だったらあんな明るく挨拶返してくれないだろ。でも、こうしてわざわざ待ってるのは確実にストーカーっぽい。危険人物臭を感じ取って避けられたとか? 
 補習もないのに早く出てきているので、時間的には全然余裕があるが、どんどん後ろ向きな気分になってくる。
 例えこの後、来たとしても声かけたらやっぱり不審者っぽくて逃げられるんじゃないか?
「どうしたの、なんか落とした?」
 しゃがみこんでいると声が上から降ってきてあわてて顔を上げる。
「う、わ。……お、はよう」
「おはよう。大丈夫?」
 待ってた子の姿にあわててしまい、とりあえず挨拶すると、ちょっと首をかしげて返してくれる。
 初めてちゃんと向き合った彼女は思ったより小柄だ。はにかむみたいに笑った顔がかわいい。
「えぇと。これ。良かったら、遊びに来て」
 昨日学校でもらったプリントを手渡し、そのまま返事も聞かず自転車にまたがって、坂を駆け下りた。
 

「亜衣ー。テスト終わったのにまだ勉強?」
 今朝もらったプリントを広げて眺めていると友人が声をかけてくる。
 テスト、明日もあるんだから勉強してたとしても別におかしくないと思う。実際、そこかしこでテキスト開いているクラスメイトもいるし。
「違うよ。お祭りのお知らせ」
 商店街と矢賀高生が合同で屋台を出す、夏祭り+文化祭みたいな感じのお祭り。
「これ知ってる。矢賀高でやるヤツでしょ。そっか、亜衣って地元だもんね。行くの?」
 プリントを渡してくれた男子の真っ赤な顔を思い出して、ちょっと笑う。
「なぁにぃ?」
「行こうかなぁって、思ってるよ。ちょうどテスト明けだしね。優樹菜もいく?」
「いかなーい。この日、カレシとデートだもん。海行くんだ。海」
 うきうきと夏休みの予定を語りだした友人の話を聞きながらプリントをかばんにしまった。


「加納ー。配達行け。ミナト屋さんにかき氷三つ」
「さっきからおればっか走ってねぇ?」
 日が陰ってだいぶましになっているとはいえ、まだまだ暑い。
 かき氷屋というなんだか涼しげな屋台にもかかわらず、さっきから配達ばかりさせられている。
 人混みの中、こぼさないように気を使いつつ、氷が解けるまえに素早く届けるというのが割と厄介だ。
 まぁ、来るかどうかわからないのをじっと待つのもつらいから、動いていたほうが気は紛れるけれど、ちょうど出払ってる時に来てすれ違いになったらどうするよ。
 いや、例えば来なくてもすれ違っただけと思い込めば心の平安は保てるか。
 ……かなり虚しいが。
「ほれ、さっさと行け」
「りょーかい」
 渡された岡持ち代わりの段ボールに入ったかき氷をもってミナト屋のあるブースに向かった。


 随分にぎやかな矢賀高校に足を踏み入れる。
 もらったプリント広げて校庭の見取り図を確認する。
 校舎に近い場所の『氷屋2-C』と書かれたスペースに赤丸が打ってある。
 このプリントをもらった後、顏を合わせることは一度もなく、今更だけど来てよかったのかと不安になる。
 のんびりと並ぶ屋台を眺めながらそれでも氷屋に向かう。
「あ」
 驚いたような声になんだろうと振り返るとびっくりした顔がうれしそうなものに変わるところが見れた。
「こんばんは」
 その表情にほっとして自然に微笑えた。

【終】




Jul. 2014