走って、走って。
そのコトバから、逃げるように。
足を、止める。
微かな歌声に。
言葉まで聞き取れないけれど、どことなく賛美歌を思わせる、その声をたぐる。
寂れた商店街の、人がすれ違うのも難しそうな細い路地を通り抜けた先の行き止まり。
そこにあったのはコンクリート製の古い建物。
小学生の頃、地元探検の授業で一度来た時に昔の百貨店だと聞いた覚えがある。
が、長年の雨染みにより灰色というよりは墨色になっている建物はその形と相まって巨大なお墓みたいにも見えた。
何の歌だったっけ。
聞き覚えのある旋律が流れ出てくる建物のドアに手をかける。
思ったより、ずっと軽く開く。
開けたドアから入り込んだ光が正面にある階段を照らし、そのスポットを浴びるように階段踊り場にはコドモが座っている。
光を反射するくるくるとしたやわらかそうな金の髪。
白のワンピース。
きょとんとした顔でこちらを見ていた少女は、すぐ興味をなくしたように歌を再開する。
先ほどまではぼんやりとしたメロディーしか聴きとれずにいたが、さすがに歌詞も聴きとれる。
……聴きとれない方が良かったかも。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたーら、はぁりせんぼんのぉます」
エンドレス。
すごく気持ちよさそうに歌っているけど。
変な子だ。
踵を返す。
関わらない方がいい。たぶん。きっと。
「あのねぇ、しってる?」
歌が止まり声をかけられる。
「げんまんってねぇげんこつが一万回なの。でね、ゆびを切るでしょ。針も千本飲まなきゃ、なの。約束やぶるって、それだけ罪が重いんだよ」
罪。
小学生がいう言葉か?
ふりかえると少女は何事もなかったように歌い出す。
どうしようか。
えぇと、やっぱり帰ろう。
二歩、進む。
「おねーさん、ダレとの約束やぶったの?」
無邪気な声。
ぞっとする。
走り逃げたいキモチと、ふり返りたいキモチとで動けなくなる。
少女はまた、歌い出す。
「ゆーびきーりげーんまん、うーそつーいたーら……」
「私は、約束やぶってないよ」
遮るように言う。
「うーそつーいたーら、はぁりせんぼんのぉます」
ふり返ってにらむ。
が、少女は悪びれず、それどころかひどく可憐に笑う。
「そんなはずないよ。歌が聞こえてここに来たってコトは、そぉいうことだもん。『指切り』『拳万』『針千本』どれ行く? フルコース、いっちゃう?」
……なにって?
かわいらしい声なのに、背筋が冷える。
「オススメはねぇ『指切り』『針千本』かなぁ。『拳万』はワタシもタイヘンだし」
組んだ指にあごをのせて。
「『ちょっきん』と『いがいが』。どっち選ぶ? どーしてもっていうなら『ぼこぼこ』も考えないでもないよ?」
どこから取り出したのか右手に大きなハサミ。左手に針山。
ホンキ?
「あ、ちなみに『針千本』はとげとげしたお魚さんっていう説もあるみたい。それは用意してないの、ゴメンね?」
ひょい、と踊り場から飛び降りる。
ふんわり、弧を描いて、きれいに着地。
逃げるように後ずさりして、つまずく。
痛。
スカートが埃を舞いあげる。
ひかりがおどる。
ハサミがひらめく。
ぎゅっと目をつぶる。
痛みはなかなかやってこない……おそるおそる目を開ける。
目の前にはハサミ、ではなく困ったような笑いをこらえたような少女の顔。
「おこらないで、聞いてね? あのね、えぇとね…………たちの悪い冗談なの」
コトバの意味が形となるまでたっぷりの時間を要した。
「…………」
文句を言いたいが言葉が出てこず、ただ虚しく空気をかむ。
「お詫びに心残りを一つ解消させてくださいっ」
心残りって。
「死んでないっての」
怖がってた自分がバカみたいだ。
「ちょっと言い間違えただけでしょぉ。んーっと、そう。気がかりを解消」
「小学生に頼んでも仕方ないから良い」
立ち上がりぱたぱたとスカートを払う。
制服、クリーニング行きかなぁ。
「しっつれーな。そっちはただの中学生でしょう? ワタシはれっきとした天使なんだよっ」
腰に手を当て背中をこちらに向ける。
ぱたぱた、というよりはぴよぴよと音を立てそうな小さな翼がついている。
ホンモノ?
「ほんもの、だよ。もちろんっ」
動いてる。
アリエナイ。
「で、ダレとの約束やぶっちゃったの?」
こちらの戸惑いなどお構いなしで。
「だからっ、私は約束なんて破ってないってば」
ウソじゃない。
「じゃ、ダレに破られたの?」
妙に深く浸みる声。
だから。
「…………約束、してたんだよ」
ゆびきりしてたわけじゃない。
けれど、
やぶられるなんて思わなかった。
下をむく。
本当は、わかってる。
「でも、仕方ないことだってもうわかってるんでしょう?」
やけに大人びた声。
ぐ、とくちびるをかむ。
ののしった言葉は戻らないから。
口にしたことで、より突きつけられたから。
『ウソツキ。ゆるさないから』。
顔なんか、見れなかった。
ただ、視線だけを感じた。
痛くて。
その場にいられなかった。
ゆるしてもらえない、もう。きっと。
「おまもり、あげる。きっと、うまくいくように。失敗しないよぉに」
差し出された両手の中には白い一片の羽根。
……ぬいたのだろうか。
手をのばし触れると、ふわりと消える。
「だいじょーぶな気がしてきたでしょぉ?」
得意げな声。
「ん」
肯定してみる。
ホントは良くわからないけれど。
自己暗示。
「スナオ、スナオ」
小生意気。
でも。
「ありがと」
小さく、言う。
天使はびっくりしたように口をつぐみ、そして満面の笑顔。
「いってらっしゃぁい」
「一人くらいじゃ、そんなに変わらないなぁ」
鏡の前に立ち、翼を見る。
未熟なそれは罪の証。
本来の姿に戻るには数多の善行を重ねなければならない。
「一体、いつになるんだか」
また、ドアの開くのを待つ日々。
Feb. 2004
関連→連作【カラノトビラ】