いつもと同じ普通の日



 □

 社会人と学生のギャップを感じるのはこういう時だ。
「だから、無理だって。普通に平日だし、年末だし」
 この電話をしている今だって、残業中に抜け出してきているのだ。あまりのしつこい着信に耐えかねて。
「その前の土日か、二十九日からなら休みだから」
「一年目の新入社員なら責任なんて大してないだろ。っていうか、仕事だって大切かもだけど、楽しみだって必要だろ。恋人と会うっていう普通のことも出来ないわけ?」
「……一年目だけど、それでもやることはあるの、私だけ帰るとかはできないの」
 もちろん、差し迫った理由があれば休んだり早帰りするのも問題ないけれど。
 ちがうな。別に誰がどんな理由でどうしようと自由だけれど、私としてはクリスマスだから会いたい程度のことで仕事を半端に放置したくない。他の日になら会うことはできるんだから。
 電話の向こうでなおもぐちぐちと文句を言い募る相手になるべく平坦な声で告げる。
「ごめん。まだ仕事中だから」
 本当のところ、しつこいとキレてしまいたかった。


「おつかれさまです?」
 唐突に声をかけられ、ため息つきかけていた息をのむ。
 ええと、誰だっけ。顔は知ってるけど話はしたことがない。総務の人だ。えぇと、なんか先輩が呼んでたよな。
 すらっと背が高めで、割と美人だけれど無表情気味でなんとなくとっつきにくい人だ。
「これどうぞ」
 持っていたコンビニの袋から、チョコの袋を渡された。なんだ?
 もしかしなくても電話聞かれていて、なんかいろいろ察されたのか? お疲れさまは残業ではなくて電話のことに対してか? うーわー、はずかしい。いろいろと。
 こちらの葛藤に気付いているのかいないのか、余計なことを言わずに総務部の方にさっさと戻っていってしまう背中にあわてて声をかけた。
「あの、ありがとうございます。よしのさん」
 名前も思い出した。良かった。
「さて……仕事しよ」
 とりあえず、もらったチョコで糖分補給をしてサクサク仕上げて帰ろう。



 ■


「それを言うなら、健だって週末遊びに行っちゃうじゃない」
 駅の手前、電柱の陰になっているあたりから苛立たしげな声。
 そして小さく、しかし間違いなく舌打ちの音。
「切るし!」
 スマホを睨む様子がスマホの明かりによってはっきり見えた。
 意外だった。
 今年の新入社員の皆沢さんは、いつもにこにこ、人当たりが良く、ふんわりした見た目と雰囲気の人だと評判だ。
 先日の電話でも少々揉めていたようだが、今の電話は完全にアレだ。
 仲の良いわけでもない会社の人間に聞かれたくも見られたくもない奴だろう
 何も気づかなかったふりをして通り過ぎるのが大人の対応だ。
 なるべく視線をまっすぐに向けて、悪目立ちしない程度に足早に、皆沢さんを見ないようにと思っていたのに。視界の端でついとらえてしまった表情が、さっきの怒りが見間違いだったかのような、放心したような疲れ切った顔で放っておけなくなった。
「こんばんは。皆沢さんも今帰りですか?」
 出来るだけ警戒させないように穏やかな声を出したつもりだけれど、どう聞こえただろうか。私の無愛想さには定評がある。
「……あ。あ、びっくりした。芳乃さん、お疲れ様です」
 ぱちぱちとまばたきして、皆沢さんはいつものような柔らかな表情に戻る。でも、やっぱりちょっと疲れている顔かもしれない。
 入社一年目だし、気を遣う部分も多いだろうし、そうでなくても年末は忙しい。
「夜ごはん食べました? 良かったらごはん、食べに行きませんか?」
 唐突だし、不審な誘いだとは思う。部署が違い、あまり関わり合いがなく、年齢は同じだけれど、一応私の方が先輩になる。強要だと思われると困るな。
 皆沢さんは困ったような顔をしていた。
 とりあえず、無理しなくていいことを伝えようとしたところに、にっこりと微笑まれた。
「ぜひ」
 


 □

 なんで誘ってくれたんだろう。
 駅前で適当な店に入り、メニューを眺めながら向かいに座ったよしのさんをそっと見る。
 無表情でメニューを見ていて、何を考えているかさっぱりわからない。
 視線に気が付いたのか、よしのさんが顔を上げた。
「皆沢さんが良ければ、これにしませんか?」
 ピザとパスタをそれぞれ一種類ずつ選んでシェアするペアセットを指さす。
「良いですね」
 オーダーを済ませ、程なく届いたビールを持つとよしのさんは目を細める。
「おつかれさまです。乾杯?」
「乾杯。お疲れ様です」
 グラスをそっと重ね、小さな音をたてる。
「なんか、忘年会みたいですね」
 会話に困り、なんとなく当たり障りなく口にする。
「まだ、大仕事が残ってますけどね。……そういえば丁寧語じゃなくても大丈夫ですよ? 同じ歳なんですし」
 そう言ってくれるよしのさんの方こそ、丁寧なままだ。歳は同じでもよしのさんの方が先輩なのに。
「私は癖みたいなものなので、気にしないでください。皆沢さんは話しやすい方で」
 いまいち表情は読めないけれど、たぶん含みなく言ってくれているのだろうと思う。お言葉に甘えよう。
「大仕事って、棚卸ですよね。だいぶ大変ですか」
 よしのさんはビールを半分ほど飲んで遠い目をする。まぁ、部署の先輩からも聞いているから想像はついた。
「忙しい年末にあえて決算を持ってくる意味が理解できないですね」
「がんばります」
「ほどほどで大丈夫ですよ。無理は良くないです。仕事は大事ですが、プライベートはもっと大事です」
 生真面目な顔で、でもたぶん心配してくれているのだろう。さっきの電話も聞かれていたのかもしれない。
 部署も違うのに、気を使ってくれる。この間の件もだし、良い人なんだな。
 テーブルに置かれたピザを一切れとり、食べ終わってから口を開く。
「よしのさん、クリスマスの予定は?」
「普通の平日と同じですね。気が向けば、コンビニデザートくらいは買うかもしれませんが……いえ、でもこれは私が一人身だからで、お付き合いしている方がいると話が違うかと」
 よしのさんは少し慌てたように付け足す。やっぱり良い人だ。
「二人とも学生の頃は良かったんですよ。別に今でも向こうが来てくれるなら、クリスマスに会うのも良かったんだけど」
 お互いの家は電車で一時間くらいの距離があって、彼氏は学生でもう冬休みに入っていて時間はあるはずなのに、私が会いに行くことを当たり前のように話した。
「今日は今日で、会いに行くって話してたのに、友達と遊ぶからってドタキャンとか。勝手すぎ」
 ビールを飲みほし、グラスを置く。ガツンと思ったより大きな音がたってしまい、小さく謝る。
「いえ。二杯目はどうしますか? 私はビールで」
 パスタを持ってきた店員さんに声をかけるよしのさんに続けて同じものを頼んだ。



 ■

「もう、別れちゃったほうが良いんだろうなぁ」
 私が追加でビールを頼むと、合わせるように三杯目を頼んだ皆沢さんは、二杯目のグラスに残ったビールを飲み干す。
 酔ってるかな、これ。
 わずかに顔は赤い気がするけれど、それ以外はそれほど変化がない。
 口調はだいぶくだけた感じになってきているけれど、これが素かもしれないし微妙に判別がつかない。
「よしのさんなら、どうします?」
「すこし、距離と時間を置く、でしょうか」
 当たり障りない答えを返す。
 本音を言えば、別れる一択。それ以前に、付き合い始めるところまでいかないだろう。面倒くさい。
 が、不用意な一言で同僚程度の間柄の相手を破局に導く言葉を吐くのは危険すぎた。
「そっかぁ。やっぱり別れたほうが良いって思いますよね」
 酔ってるな、これ。
 感情が表に出ないことにも定評がある。内心が顔に出ていたわけではないだろう。
 そして皆沢さんは人の話を聞かないタイプでもないと思う。普段の評判を聞いた感じだと。
 今程度の酔いで留まってくれれば問題はないけれど。とりあえず、追加の注文は止めるべきだった。
 と思っているうちに、テーブルにグラスが置かれ、皆沢さんは早速三分の一ほどを喉に流し込む。
「もう別れる。いまから電話する」
「ちょっと待ってください。酔ってる時に、決断しないほうが良いです」
 携帯を取り出した皆沢さんの手を止める。
「酔ってないです」
 たいていの酔っ払いはそう言うんですよ、と言いたいところを飲み込む。
「とりあえず、店内で電話は迷惑です。外に出てからにしましょう」
「よしのさんは、なんで私を誘ってくれたんですか」
 脈絡のない話題転換。気が付けば三杯目のグラスも、ほぼ空いている。
 なんて答えようか。
 ちょうど見かけて、放っておけなくて、などと言ったらセクハラ案件だろうか。
「よしのさん、やさしいなぁ。よしのさんみたいな人が良いなぁ」
 どこか眠たげな声がふわふわと耳をくすぐる。
 まずい。このままだと危険だ。
「出ましょう、皆沢さん。最寄駅はどこですか?」
 最悪、駅まで送ろうと尋ねると間延びした声で告げられたのは、会社を挟んで反対側にある別の私鉄の駅名だった。
「なんでこっちの駅に……」
 聞きかけて、口を噤む。
 彼氏の家に行こうとしていたのだろう。そういえば荷物が大きめだった。
 さすがに向こうの路線まで送っていくのは面倒すぎる。だからと言って八割くらい寝てそうな皆沢さんを放置も出来ない。仕方ない。
「うちに、来ますか?」



 □

 なんでソファで寝てるんだろう。
 寝返りを打ちかけて、ソファから落ちそうになり、縁に慌ててしがみ付く。
 かけられていた布団と毛布がずさっと滑り落ちた。
 そしてテーブルを挟んだ向かいのソファに座ったまま寝ているよしのさんの姿が目に入る。
 そうだ。よしのさんの家に誘ってもらって、それで……そこから記憶がない。
「ん。おはようございます。皆沢さん。二日酔いとか、大丈夫ですか」
 気配で起きたのか、よしのさんは目をこする。
「え、と。大丈夫。だけど、私、ここまで自分で来た?」
「はい。私が布団の用意をして戻ってきたら、ソファでもう眠っていて、さすがに運ぶことも出来ず、すみません」
 いやいや、謝るのはこっちだ。酔っぱらって、他人様の家に厄介になるなんて迷惑以外の何ものでもない。それに、ここ、たぶん家族と住んでる家だよね。
 ざっと見ただけでもひとり暮らしではない家庭のリビングだ。
「両親は旅行で不在なので気にしないでください」
 様子を察したのか、よしのさんはあくびをかみ殺しながら言ってくれる。
 なんていうか、無表情で分かりづらいけれど、よく気が付くし、良い人だなぁ。
 自室ではなく、ここで座ったまま寝ていたのも、私の様子を見ていてくれたのだろうし。
「ありがとうございます、よしのさん、やさしいなぁ」
 よしのさんは小さく笑う。
「昨夜も言ってましたよ? まだ酔ってますか?」
 それはさすがにない。昨夜は多少酔っていたかもしれないけれど。
「いや、酔ってないよ」
 ただ、次は気遣ってくれる人が良いな。よしのさんみたいに。で、私も気遣える人になりたい。
「コーヒー、入れてきますね」
 じっと見つめていると、よしのさんは視線を躱すように立ち上がる。
 それならと、とりあえず布団をたたんで端に寄せる。その時にひっかけたのか、テーブルの端からハガキが落ち慌てて拾う。
 見るつもりはなかったが、視界に入った。
 葵女子高等学校同窓会のお知らせという文面。そして宛先。
 『棚橋芳乃』
「たなはしよしの?」
「はい?」
 コーヒーとビスケットの載ったお皿をテーブルに置きながらよしのさんは首をかしげる。
「棚橋芳乃さん?」
「……あぁ、もうしかして『よしの』って苗字だと思ってましたか」
 思ってた。って、なんで? 先輩とそんなに仲良しなのか?
「気にしないでください。社内はほとんど芳乃って呼びます」
 同期に同姓がいたからだとよしのさんは気にした風もない。
 そうか。でもなんかちょっと、さぁ。馴れ馴れしすぎたよね、普通に考えて。
「いずみさん、コーヒーどうぞ」
 軽くうろたえる私に、芳乃さんはしれっと下の名前を呼んで、いたずらっぽく目を細めた。
 なんていうか。
 優しいし、よく気が付くし、普段無表情なのに、たまに見せる表情がかわいいし。
「よし。別れます」
「はい?」
 脈絡ない言葉に、芳乃さんは目を丸くする。
 スマホを出して、ぽちぽちと簡潔に別れのメッセージを入れて送信。すぐに既読はつかないだろうけれど、見たら見たで面倒な応酬になりそうだけれども、まぁ、とりあえず良い。すっきりした。
「いただきます」
 出してもらったコーヒーを口にする。
「…………おつかれさまでした?」
 どこか困ったような顔をした芳乃さんに笑ってみせると、溜息まじりの笑みが返ってきた。
 

【終】




Dec. 2019