「……だよ」
「っはい?」
完全に意識をとばしていて副院長の言葉を聞き逃した。
「彼女はリンドウ。もうずっとこの施設にいる」
柔らかな微苦笑をうかべてもう一度言ってくれる。
目線は硝子の向こうの殺風景な部屋にいる少女に注がれている。
部屋の真ん中にはぽつんと十二、三才の白い服を着た少女。
こちらを向いている黒瞳は、決してボクたちを認知しているわけではない、何も見えていない目。
感情というものが欠落している無表情。
妙に、惹かれる。
「キミに担当してもらうから」
「……ボク、ですか?」
副院長が、新米以前の医師見習いなんかに彼女のような重症患者を任せる理由は一つだ。
意識して触れればその人の感情に同調できるボクの能力の為。
確かに、ここのような心療系の施設では重宝される力ではあるけれど、あまり過信して貰っては困る。
「ボクの力は被験者の同意が必要です。彼女は同意しないと思いますが」
一目、見ただけでわかる。
意志を放棄している。彼女は。
「それはキミの博士の言いつけで?」
「……それも、あります」
キミの博士、ってイヤな言い回しだよなぁと関係ないことで引っかかって反応が遅れる。
それに気づいたのかどうか、副院長は穏やかな笑みを浮かべて言う。
「その力に期待してるわけではないから構わないよ。今まで誰がやってもダメだったってことは、誰がやっても一緒って思ってるだけだから」
なんか、この人。
おだやかな表情にだまされるが、結構いいかげんな人なのか?
さすが博士の知人なだけある。
見つめた顔は相変わらず微笑をたたえていた。
「熱心だねぇ」
耳元で突然ささやかれ思わず立ち上がる。
「おっ、かえりなさい。博士」
「どうだった、初出勤は」
言いながらボクが座っていた椅子に座り、ボクが見ていたリンドウの診療録を勝手に読み始める。
「それ、部外秘です」
言っても無駄だとはわかりつつ一応進言する。
「持ち帰りを許した時点で、おれが見ることは覚悟してると思うぞ」
確かに博士と既知の副院長はそうかもしれませんが。
悪びれない博士にいつものようにお茶を入れて渡す。
「で、どうだった?」
以前、あの施設に勤めていた博士はリンドウにも関わっていたらしいから、多少の興味はあるのだろうが。
相変わらず目は診療録を追いながら中途半端に聞いてくる。
「窓越しにあっただけですから」
どうもこうもないと思う。
だいたい、どういう答えを期待してるんだ?
「……ふーん」
博士はどうでも良いような返事をして診療録を閉じる。
「と、いうことで。夕飯にしよう。空腹だ」
自分の気の向くままに話を転がす厄介な博士に文句を言うだけ無駄なので、おとなしく食事の支度に向かった。
「はじめまして、リンドウ」
昨日同様、部屋の真ん中で膝を抱えて座っている少女の前に座り声をかける。
ごく、わずかに視線が動く。
が、それ以外の反応はない。
既に何度も行われている検査から、視力・聴力・声帯・脳の発達に何ら問題のないことはわかっている。
「リンドウ」
もう一度呼ぶ。
今度は全く反応をせず、何も見ない目が遠く裡を見つめている。
ちょっと溜息をつく。
長年、他の人がさんざん試してきたのにボクが一日で、それも十分足らずで出来るわけない。わかっているけど、すこしがっかりだ。
部屋の端に移動し、壁にもたれて座りリンドウを眺める。
肩より少し上で切りそろえられたまっすぐな黒い髪。
陽に当たらないせいか白い肌。
何故、心を閉ざすのか。
「結構、大変だと思うんだけど、なぁ」
聞こえること、見えるもの。
全てをないものとして生きていくのは。
確かに、ここは刺激も少なく他者による介入も少ないとはいえ。
ボクの一人言にも当然、反応を返さず相変わらず同じ格好で座り続けている。
せめて……。
こつんこつん。
頭上で音がし見上げると副院長が笑みをたたえて廊下側の窓の外から手招きしている。
のびをし、立ち上がる。
「リンドウ、またね」
声をかけ部屋を出た。
「……微笑ったら可愛いだろうに」
独白のつもりの想いは一緒に昼食をとっている上司の耳にしっかり届いたようだ。
何とも評しがたい、微妙な笑みが浮かんでいる。
そんな顔をさせるほど、変なことを言っただろうか。
聞かれたこと自体ははずかしいが。
それほど突飛なことを言ったつもりはない、のだけれど。
「ボク、変ですか?」
この尋ね方は間違いなく変だ。
言語能力に欠陥があるのかなぁ。
自己嫌悪。
副院長は声を殺して……のどをふるわせて笑っている。
「副院長」
情けない声が出る。
「ごめん、あまりにもキミが可愛くって」
まだ笑いの残る声で副院長は言う。
「ばかに、してますね」
ちょっと拗ねてみせる。
子供っぽいと思いながらも。
「初々しくって良いって。誉め言葉は素直に受け取りなさい」
誉め言葉?
隠しきれない笑いが含まれた言葉ではとても素直に受け取れない。
軽い不信感を抱いていると副院長は続ける。
「そういう気持ちはね、大切だよ。キミが微笑わせてあげなさい。きっとしあわせになれる」
ボクが、と言う意味だろうか。
リンドウがしあわせにならなきゃ意味がない気もするんだけれど。
しかし、それ以上副院長は何か言う気はないらしく食事を再開している。
何か聞いても答えてはくれなさそうなのでボクも食事を続行することにした。
毎日、リンドウのところへ行く。
変わらず、何も応えてはくれないのだけれど。
フシギにも。
変わらない現状に飽きたり、面倒になったり、イヤになったりしない。
何故か気になる。
どうしてか、惹かれる。
そんなことを言ったら博士は苦笑した。
「レンアイなんて、そんなもんでしょ。みんな」
恋愛、と言う言葉で一括りにするのも問題があると思う。
これが、そういう気持ちかどうかなんてボクは知らない。
とりあえず思っていたことを口にする。
「ボクは博士がそういう風に設定したのかと思いました」
リンドウの存在を知っていたこの人ならやりかねない。
ボクがリンドウに心惹かれるように設定することなんて簡単だろう。
博士なら『面白そう』だからと言うだけで、やりかねない。
「失礼だな」
本音を見せない顔で軽く笑う。
その笑みも信用できないのだけれど。
今更、文句をいってもボクがリンドウに惹かれている事実は変わらないからどうしようもないか。
とりあえず溜息だけついて信じてないことを暗に伝えてみた。
こたえやしないだろうけれど。
「触れて良い?」
いつものように前に座って、尋ねる。
相変わらず反応はない。
と言うことでリンドウが心を閉ざす理由はわからないまま。
焦りはしていない。
けれど自分の役立たずさにへこまないわけではない。
「だからさぁ、リンドウ。ボクを給料泥棒にしないためにもさ、」
ボクの愚痴っぽい言葉に呆れたのか……そんなわけはないが、リンドウは立ち上がりベッドの方へ行ってしまう。
行こうとしていたのだ。
とん、とすれ違ったリンドウの手がぼくの肩に当たる。
触れるだけでなく、そうしようと思っていなければ見えないはずのリンドウの感情が、ボクの中に流れ込む。
滝のように。
きつく目をつぶる。
呑みこまれそうなほどに強い、それに視界は白く染まった。
――――。
正常な、いつもの景色をボクの目が映すようになったのは時、リンドウはベッドの縁にもたれて何事もなかったように座っていた。
その顔が哀しげに見えたのはきっとボクの主観だ。
リンドウの心の内に入り込んでしまったボクの。
そこに、あったのは。
哀しみ。ただ。
純粋な。
理由は見えなかった。
ただ、あふれよせる悲哀。
それをおもてに出さないために。
リンドウは感情を閉ざしていたのだろうか。
小さな、子供のころから。
そして、これからも?
「リンドウ。今日は帰るね」
一声かけて、ボクはリンドウの部屋を後にした。
微笑って欲しいと願っていた。
きっと、可愛いだろうと。
その想いは変わらない。
けれど。
大きな哀しみを。
一人抱き、隠し続ける芯の強いキミが、きっとボクは好きなのだ。
かなしみのなかの。
Jan. 2001