訪問カミサマ



 ピンポーン。
 かすかに届いた音に、シャワーの湯を止める。
 気のせいだったか? とシャワーを再開しようとした時を狙ったかのように、再度チャイムが鳴る。それも一度だけではなく何度も。間をおかずに押し続けるせいでなんだかおかしなリズムで響く。
 こんなことをする心当たりは一人しかいない。
 風呂場から顔を出して、叫ぶ。
「うるっさいわ。勝手に入りなさいよっ」
 カギをもっているくせにどうしてこう子供のいたずらのようなことをちょくちょくするのか。
 ぴぴぴぴんんーーぽおおおんんん。
 声が聞こえなかったはずもないのに、相変わらずやかましく呼び出し音が鳴り続ける。
「だぁっ、もうっ」
 シャワーを切り上げ、部屋着を着て、濡れたままの髪にはタオルを巻いて玄関に向かう。
「だからっ、うるさいって言ってるでしょっ! 近所迷惑!」
 ドアを開けると真正面にびっくりするくらい大きなオレンジの月が目に入った。
 そしてそれをバックに立っていたのは、長い髪を一つでくくった背の高い青年。
「……誰?」
 よくよく考えてみれば、アレが来るはずないのだ。もう。
「やっだぁ、ひさしぶりぃ。おぼえてないのぉ? ワタシよワタシ」
 呆然としていた私の手を取って、ぶんぶんと振る。
「どちらさまで?」
 ものすごく親しげに顔を近づけてくるおネェ口調の青年は、記憶のどこにも引っかからない。
「やだぁ、忘れちゃったのぉ?」
 口調はおかしいが、きれいな顔立ちをしている。じっとこちらを見つめる瞳は深い緑色で、これほど印象的な相貌の持ち主なら、一度見たら忘れないだろう。
「ノリの悪いおなごだったか。しかたない。仕切りなおそう」
 不審げな表情が崩れないのを見て取ったのか、青年はため息を一つついて視線をそらすとドアを閉める。
 ……なんだったんだ。いったい。
 玄関の内側で呆然と立ち尽くしていると、明り取りのすりガラスから人影が消える。
 狐につままれたような気分になりながら、カギをかける。
「ため息つきたいのは、こっちの方だって」
 いらないことまで思い出されて、巻いていたタオルをほどいてガシガシと髪を拭きながら、廊下にあがる。
 ピンポーン。
 見計らったかのように、鳴った音にあわてて振り返る。
 人影は見えない。
 不審に思いながらも、開錠してドアをそっと開ける。
 あの青年の姿はなく、それどころか人っ子一人いない。
 子供がピンポンダッシュしたという感じでもなかった気がする。腑に落ちない。が、考えてもわからないし、仕方ない。
 にゃあ。
 閉めかけたドアの隙間に入り込むように小さな鳴き声。
 大きくドアを開くとがつんと何かにぶつかる音。そして抗議するような鳴き声が続く。
 ドアの向こうを覗き込むと、段ボールの箱に黒い猫が一匹。
 達筆な筆文字で『拾ってください』と書かれた半紙が箱に張り付けてある。
「……なんで猫?」
 こちらを見上げる猫は媚を売るようにしっぽを振る。
 どうしてくれよう。
 猫など養える状況ではない。だからといって、このまま放置は、外聞が悪い。
 なにしろ、完全にうちの敷地内だ。敷地外に追い出すにしても、その様子は傍からは無責任な飼い主にしか見えない。
「厄日だな、今日は」
 人間相手なら『帰れ』で済むが、動物相手にはそうもいかない。
「貰い手見つけるまで、大人しくしてるんだよ。じゃないと、保健所行きだからね」
「にゃあ」
 摘み上げた猫は、もちろんと言わんばかりにひと鳴きする。
 かわいい。
 それだけに、さっさと貰い手を見つけないと情が移りそうだ。
 猫を廊下におろし、玄関の鍵をかけてお風呂場に向かう。掃除をせねば。
「そういえば、猫って、何食べるんだ?」
 キャットフードでいいのか? あのくらいの大きさだとまだミルクなのか?
 どちらにしろ買い出しに行かないと。ついでに貰ってくださいのチラシも作ってどこかに貼らせてもらおうか。
「いやいや、そこまで手間をかけることはないよ。僕は食事は不要だからね」
 朗らかな声。
 あわてて振り返ると先ほどのおかしな青年が一点の曇りもない笑顔を浮かべていた。家の中で。
 すぐ真後ろに。
「あ、あああああああんたっ、なんで、勝手……」
 叫んだ言葉は、力いっぱい抱きしめられたせいで音にならず埋もれる。
「近所迷惑だよ、大声でわめくと……静かにしてくれるなら離れてあげるけど?」
 腕の中でこくこくと頷く。
 不審者の言うとおりにするのは腹立たしいが、力では敵うはずもない。
 とりあえず従って、隙をついて抜け出して通報だ。
 こうなると玄関の鍵をかけたのは失敗だったな。
「……っはあ。あの、用件はなんですか。うち、お金ないですよ」
 とりあえず解放されて大きく息を吐く。
 青年は首をかしげる。
「ちがうちがう。強盗じゃないよ。僕はあなたを幸せにしに来ました」
 きれいな顔に無邪気な笑顔。
「は?」
 たった今、ものすごく不幸なんですが? 主にあんたのせいで。
「すごーく嫌そうな顔してますが。あなたに拒否権はありません、そして僕にも選択権はないのです。運命です。一蓮托生。諦めましょう」
 これはあれだ。頭のおかしい奴だ。
 春先によくわきでると聞くが、初冬にも出るんだな。油断ならない。
「わかった。とりあえず、猫の餌を買いに行かせて」
 口実にして外に出よう。猫も一緒に連れ出すべきか。
「わかってないね、僕の食事は不要だと言ったよ」
 だからあんたの食事ではなくてだ。
 言いたいことを察したのか、青年は首を横に振る。
「察しが悪いなぁ。いいかい。よく見ておくんだよ? まばたき厳禁」
 言い終わるやいなや青年の姿がぼやけて霞み、現れたのは先ほどの黒猫。
 深い緑の瞳でこちらを見上げ「にゃあ」と一声。
 ええと。なんだ、これ。
「……妖怪猫人間?」
 だめだ。疲れてるな。寝よう。っていうか、寝てるのか。これは夢だな、きっと。
「しっつれいだなぁ。こう見えても僕は神様です」
 自分に『様』付けっていうのはどうかと思う。それ以前に『神』とか言い出すこと自体、あれだけど。
「えぇと、なんでその神様がうちなんかに来たんですかね」
 人間の姿に戻った青年にとりあえず尋ねてみる。
 なんでこんな夢見るかなぁ。おかしな小説やドラマを観た覚えはないんだけど。
「定期考査というかね、昇級試験というかね、そういうものが我々にもあるんだよ、しちめんどくさいことにね。で、割り当てられた相手を幸せにしたら合格。さっきも言ったように、誰が誰にあたるかはランダムで、選択もできなきゃ拒否も不可。ご愁傷様」
 深々とため息をつく。
 これは、近々昇進試験があるという暗示かね。やだなぁ。青年ではないがめんどくさい。
「そちらもご苦労様です。とりあえず、そちら様がいなくなってくだされば私も幸せなので、合格ということでお帰りいただければと思いますが」
 そろそろ目覚めたい。このメンドクサイ夢から逃れたい。
「適当に追っ払おうとしないで。幸せにしないと帰れないんだから、その提案は却下」
 夢のくせに融通の利かない。多少の後先くらい大目に見てほしい。
「あー、じゃあまぁ、見目良いお姿を拝見で来て恐悦至極。シアワセ大満足。さようなら」
 切り口上に言うと、青年は口角を上げて笑うとこちらに向かって手を伸ばす。
「?」
 触れた指が無造作に頬をつまみ引っ張る。
 痛いじゃないか。
「……キミさぁ、やっつけ仕事もほどほどにしてね。僕も遊びで来てるんじゃないんだし」
 何その態度。勝手に入り込んだくせに。
 っていうか、ちがうわ。これ夢なんだから。こんな傲岸不遜なのを作り上げてるのも自分の無意識だ。たぶん、きっと疲れてるんだ。
 それにしても、そろそろ覚めても良くないかな。夢でまで疲弊したくない。
「夢じゃないってば。さっきつねった時痛くなかった? 人間って痛みで夢の判別するのが定石じゃないの? それともキミ、痛覚ないの?」
 真顔で心底不思議そうに聞くな!
 ちゃんと痛かったわ! ……えぇと、あれ?
「夢じゃない?」
「ようやく理解が追い付いたね。よかったよ。さて、それではご家族にご挨拶をさせていただこうかな。しばらく御厄介になるからね」
 良くできた生徒を褒めるように青年は頭を撫でてくださる。
 タオル越しに伝わる手の重み。
 夢であってほしかったのに。
「……家族はいないから挨拶は不要。それ以前にさっきから言っているけど、迷惑なので帰ってください」
 仕方ない。このけったいな現実と向き合うか。
「だからそれは出来ないとさっきから言ってるよね? 諦めて受け入れる。信じる者は救われる」
「わかった。あなた、アレでしょ。疫病神とかそういうの」
 苦く零すと青年は笑う。
「毒もうまく使えば薬になるし。大丈夫。キミがちゃんと受け入れてさえくれれば、幸せにしてあげるから」
 何が大丈夫なものか。でも、受け入れざるを得ないだろう。どれだけ言っても帰らないんだし。
 ため息ついて諦める。
「じゃあ、ずっと猫の姿でいてほしいんだけど」
 良い歳をした成年男子が「にゃあ」とか鳴いてるとか思うと痛々しいが、人の姿をした相手にイライラするよりましだ。それに近所の目もある。
 古くからの住宅街にはそれなりにご近所付き合いがある。両親の残した家に引き続き住んでいる若い娘に近所はほどほどに同情的好意的だが、若い男を引っ張り込んだとなれば、それが裏返りかねない。
「あの姿は長時間もたないから無理だ。かわりに女の言葉で話してあげるからぁ」
 見た目が男なら無意味なんだよ、それ。それなら外見も女性の姿で来てほしかった。
「やめて、それ。あのさ、最初の時もそんな話し方してたけどなんで?」
「世間ではこの手のタイプの人間がもてはやされていると聞いたけど? キミはそれが通じなかったから猫にした。猫カフェも大人気みたいだからね」
 どこで仕入れて来るんだろう、こういうわけのわからない情報。
 つっこむだけバカらしいので聞き流す。
「ところでさぁ、思ってたんだけどね。キミ、ちょっと無防備だよ? お風呂上りでぬれた髪で玄関先まで出て来るなんて。居たのが僕だったから良かったものの世の中には不埒なのが山ほどいるんだから」
 誰のせいだと思ってるんだ。私だってあれだけしつこくピンポン連打されなきゃ出なかったよ! 
「ねぇ、僕のこと誰だと思ってドアを開けたの?」
 思わず立ち止まり、振り返る。
 青年はただ静かな表情でこちらを見ていた。
 それは。
「…………お茶、飲む?」
「いや。僕は本当に食べないし飲まないんだ。それより、キミの名前を教えてもらっていいかな?」
 あからさまにはぐらかしたことはわかっていただろうに、青年はそれに触れずに微笑む。
 その気遣いがありがたく、そして見通されているようで、目をそらす。
「そっちが先に名乗るべきじゃないの?」
「それは失礼。僕はサク」
 突っかかった言い方を気にした様子もなく青年に名乗られ、仕方なく答える。
「沙紀」
「名前も似てるねー。これも何かの縁だし、よろしくね、沙紀」
 無邪気に名を呼ぶ声が、妙に深く届く。
 そして、この家で声を聞くのがすごく久しぶりなことに気がついて。だから。
 とりあえず、しばらくは、まぁ、しかたない、かと、吐息にかすかな笑みが混ざった。

【終】




Nov. 2014