炎鬼



 ゆるゆる柔らかに、眠気を誘う陽射し。
 おだやかに平和なひととき。


「浄声(じょうしょう)殿はずいぶんお疲れの御様子」
 桜の樹の化身は己の本体である古木にもたれ、縁台で舟をこぐ人間を見つめて呟く。
 荒れ放題で、庭と呼んでも良いものか悩む草叢をふらふらしていた青年の姿をした使い魔はニガワライする。
「基本寝不足だから、章(あや)は。ムダに苦学生だし、ムダに付き合い良いし」
 毎日マジメに講義に出て、仮眠を取って深夜のコンビニバイトをして、たまに拝み屋もどきもやって、とくれば疲れていないはずがない。
「人付き合いが良いようには見えませんでしたが」
 どちらかといえば無口で無愛想。
 人あたりが良く、ムダ口の多い使い魔とは対照的に。
「前言撤回。ムダにお人好し。だいたい、桜魔から桜の便りが届いたからってわざわざ来る必要ないだろ、普通」
 家からさほど遠いわけではないが、生活圏でもない場所に足を伸ばすほどの価値はない。
 人の住まなくなった家の庭に、朽ちかけた桜が一本。ほぼ満開に白い花をつけているだけだ。
「今年、こうして花を咲かせられたのも浄声殿のおかげですから。そしてわざわざ、様子を見に来てくださるのも浄声殿の濃やかな心遣いでしょう。だいたい、使鬼殿も浄声殿のそういうところをお慶びでしょうに」
 やわらかく言う桜魔に使い魔は肩をすくめる。
「そう直截的にいわれると気恥ずかしいがね」
 否定せずにうたた寝中の主人をやさしく眺める。
「しかし、そうなると浄声殿にご相談するのは申し訳ないですねぇ」
 困っているようにもみえる口調と表情で桜魔は空を仰いだ。


 やわらかな風が吹き、かるいものが頬をなでる。
「……ん」
 白にちかい薄紅色をぼんやりと眺める。
「おはよー、章」
 耳慣れた、能天気な口調。
「……寝てた?」
「そりゃもう、ぐっすり」
 まばたきを繰り返し、ぼけた視界を明瞭にする。
 満開の桜。おだやかな風に揺られて花びらがひとつふたつ舞う。
 ちょうど目前に降ってきたそれをそっとつかみとり章は小さくあくびを漏らす。
「わるいな、桜魔」
 広げた掌から、逃げ出すように花びらが空にとぶ。
「いえ、お疲れのところわざわざ来ていただけただけで充分です」
 佇まいと同様に静かな声。
「桜魔ってば殊勝なこと言ってるけど、相談があるみたいだよ?」
 ほどよい大きさの庭石に座り、昊はかるく笑う。
「相談?」
 促すように章は桜魔を見つめる。
「浄声殿のお手を煩わせるほどのことではありません。お気になさらず」
「付け火だって」
 桜魔の声をさえぎるように昊はさっくり本題に入る。
「って、放火か? それはおれじゃなくて、警察か消防署の仕事じゃないか?」
 桜魔自身が通報できるはずもないから、代わりに通報くらいはするけれど、と一応続ける。
「見回りは強化されているようです。近所にお住まいの方が通報されたようで……」
「人間が犯人だったら桜魔だって章に相談しようなんて思わないだろ」
 言葉尻を濁す桜魔につづけて、わざと呆れた風に言う。
「状況は」
 反論は諦めて章は話を進めることにする。
「はっきりと確信があるわけではないのですが、気配がするんです。小火が起きたと思しき時間帯に……空気が揺らぐというか」
「幸い大火にはなってないみたいだな。花見客の捨てていったごみが燃えたり、納屋が少し焼けたり、樹木が焦げたり」
 昊は先に聞いていた内容を付け足す。
「放っておくのはまずいだろうな。桜魔が燃やされたら困る」
 微かに笑う章に、桜魔はあわてる。
「そんな、可能性など低いのですから」
「章がやるっていってるんなら良いんじゃないの? ほら、おれがフォローするし」
 携帯電話を弄りながら昊は笑う。
「おまえ、なに人の携帯、勝手に使ってんの?」
 苦い声にひらひらと手を振ってごまかし、話をそらす。
「あったかくなって、ネジが緩んだ人間が犯人の可能性もあるけどね。環境変わって、たまったストレスの鬱憤晴らしとかね」
「昊、やる気削ぎたいのか?」
 肩を落とし章は溜息まじりに呟いた。


「何か感じるか?」
 夜になって訪れたのは、桜魔が棲む廃墟から二ブロックほど離れた空き地。そこにある焦げた樹に触れる章に声をかける。
「…………犯人が人外のものじゃない、と指し示すほどの何かは見つからない」
 樹からはなれ、溜息まじりに返された言葉に昊はあきれたように肩をすくめる。
「回りくどい。人間のものじゃないとも言い切れないってことだろ。つまり何もわからない、と。他の現場まわるか?」
「行っても無駄だろ。何かわかるとは思えない……そうなると、遭遇を待つのか」
 章の口調がだんだん苦くなる。
「あー、それはおれらが不審者認定されそうだねぇ」
 大体、犯行現場をうろうろしている今の状況もかなり怪しいのだ。一般論、犯人は犯行現場に戻る。
「不吉なこと言うなよ……《其が受けし火焔の疵、我が息をもちて癒しを促す》」
 頭をひとつ振り、樹の前に座すと、章はひとつ手をたたき、言を紡ぐ。
 章の浄声としての力。言葉にしたことを具現する。
 独特の凛とした空気が周囲をつつむのを感じて昊は表情を緩ませる。
 まだ焦げたままの樹皮は、見るものが見れば癒しの燐光をまとっているのがわかるはずだ。
「なに?」
 章はその気配を察知して憮然とした顔で振り返る。
「なんもないよー。じゃ、警察に見つかる前にさっさと片付けよっか」
 考えていたことを誤魔化して、別のことを口にする。
「あぁ。出てきてくれると良いけどな」
「後ろ向きなこと言うなよ、言霊あやつる浄声が」
 苦笑いまじりの声に、章は肩をすくめる。
 形式に則っていない言葉が具現するということは基本的にはないが、それでもゼロだといいきれない以上は昊の言うことを否定できない。
「いっそ、引きずり出す言葉でも紡ごうか?」
「仕方ない、地道に足でかせぎましょーかね」
 出来ないことを口にする章に昊は溜息をついて先に歩き出した。


「人間?」
「……に見えるけど?」
 顔を見合わせる。
 電柱の脇、うずくまる影は確かに人間のものに見える。
 人外であっても昊のように人型をとる者もいるので見た目だけでははかれないが、それでもやはり気配は人間のものに思える。
「三時間も歩き回ってるんだからそろそろ当たりであって欲しいけどな」
「でも、人間だってことは警察の仕事だったか。無駄足」
 携帯を片手に持ち、通報準備を整えながら章は人影にそっと近づく。
 人影のもつ灯りにぼんやりと浮かび上がるのは古新聞の束。
「……?」
「章、待て」
 微かな、しかし鋭い声に反射的に歩を止める。
 わずかに抱いた違和感が、昊の続けた言葉により確かなものになる。
「呑まれてる」
 深く静かにため息を漏らす。
 目を凝らせばもうはっきりとわかる。人影は灯りによって浮かび上がっているのではなく、その身体が自ずからぼんやりと発光している。
「《宿りし者。不和なるその肉体より出でよ。》」
 章のたたいた手の音に反応してゆらりと人影が立ち上がる。
 二十代半ばほどに見える男に纏わりつくような淀みが抵抗するようにゆらゆら揺れる。
「火魔だな」
 言われてみれば、黒い影の動きは炎の揺らぎに似ている。
「《火が属のものよ、出でよ。雑じることは許されじ、其は其のまま在りて、我が声に従え。》」
 静かな言に誘われるように暗い炎は男の身体から離れ、章に引き寄せられていく。
「では、いただきます」
 章の盾になるように移動し昊は黒い靄を吸収する。
「食べて良いなんて許可を出した覚えはないが?」
 火魔が抜けて倒れた男の命に別状がないことを確認しながら章は苦い声を昊に向ける。
「おれには章を守る権利がある。火魔を身に宿して抑え込むなんて許可できない」
「あの程度のものを呑んだからといって影響出すほどやわくない」
 しれと言う昊に憮然と言い返す。
「キリがないって話だろ。毎回毎回そんなことやってたら身がもたないんだよ。ほら、さっさと帰るぞ。そんなのそのままほっとけば良い。そのうち警察が確保するだろ」
 話を一方的に打ち切って昊は先に歩き出す。
「多少、可哀想な気がするんだが」
 魔に引きずられて火をつけていた男。警察に見つけられたら状況的に放火犯として逮捕される可能性が高い。
「本人だって火をつける意思があったんだよ。利害が一致したから火魔につけこまれた。自業自得」
 あっさりと突き放す言葉をはいて、いつのまに掠め取ったのか、弄っていた携帯を章に向けて放り返す。
 画面には【送信完了しました】の文字。
 章は眉をひそめてメールの履歴を確認する。
 【処理完了】。その一つ前には【了解】。この二つは昊が送信したものだ。
 問題はそのもう一つ前。受信したもの。
「昊、なんだ、これ」
 放火魔についての調査、及び人外のものの仕業ならその解決についての依頼文。
「渡りに船って言うかねぇ。世の中ってままならないよねぇ」
 誤魔化す気があるのかないのか昊は適当なことを言う。
「まぁ、報酬があるのはありがたいけどな」
 どうせ微々たる物だろうとはいえないよりはあったほうが良い。話が勝手に進んでいたのは多少腹立たしいが、今更といえば今更だ。
 わきだす欠伸を章はかみ殺す。
 家に帰りつくまで気力がもちそうにない。
 束の間考えて、路地を曲がる。
 桜でも眺めながら仮眠を取ることにしよう。
 章は桜魔の廃墟に足を向けた。

【終】




Apr. 2008
関連→連作【神鬼】