一夜の雪原



 目が覚めたら、広がっていたのは嘘くさいくらいに晴れ渡った青空だった。
 そして周囲は真っ白だった。
 青と白しかない世界。
「おーい、生きてる? 死んでる?」
 ここは天国だろうか、などと思っているところに気楽な声が割り込む。
 死んでいるなら返事はできないのではないだろうか。
 それとも天国なら死者も話せるのか?
 そもそも天国にいるなら普通はみな死者だろう、聞く意味もない。
 つまりここは現世か?
「おーい」
 白い手がひらひらと目の前で揺らされたあと、女性がこちらをのぞき込む。
「天使じゃなくて死神だった……」
 真っ黒なローブ姿の女性の姿に思わず声が漏れる。
 まぁ、ほどほどに真面目ではあるけれど、清廉潔白、品行方正とは言えない一般人は天国には行けないのかもしれない。
 地獄に行かないといけないほどの悪いことをしてきたつもりもないけれど。
 ……じゃなくて。
「キミ、酒臭いね」
 自分でも声を出した時に気が付いた。
 よくよく考えれば昨晩は飲んでいた。
 その後、どうしたかは記憶がない。
「……ところで、ここはどこでしょう」
 酔っぱらったまま、さ迷い歩いてたどり着いたのか。
 寝転がったままの背中が冷たくて体を起こす。
 見渡す限りの雪原。
 ほんとにどこだ、ここ。
 歩いて来られるようなところにこんな場所ないはずだ。
 だいたい、雪が積もるような地区ではないし。
 やっぱり死後の世界だろうか。
「っくしょんっ」
 ぞわりと背筋が冷えたと思ったとたんに盛大なくしゃみが出る。
「とりあえず、風邪ひく前に移動しようか」
 あきれたような笑みをこぼした女性に引っ張られ立ち上がる。
 立ち上がると周囲の様子がもう少しよく分かった。
 ひたすら雪原かと思っていたが、広くはあるものの周囲は森に囲まれているようだった。
 とはいえ木々にも厚く雪が積もっているから一面白いのに違いはないのだけれど。
「森の中に家があるから」
 さくさくと足跡をつけて先に歩く女性に数歩遅れてついていく。
 そこでおかしなことに気が付き足が止まる。
 振り返ってみても倒れていた場所に向かってきた足跡がない。
 自分があの場所にたどり着くまでの足跡は、意識を失った後に雪が降って埋もれてしまったと無理やり考えることもできる。
 寝ていた自分の体の上に雪が積もっていなかったから可能性は薄いけれど。
 しかしこの女性が自分のところまで来た足跡がないのは絶対におかしい。
 今は足跡が出来ているから、足跡がつかないほど軽いということはないだろう。
「どうした? 歩けないのか?」
 振り返った顔に気遣いの色を見つけて足を進める。
 たぶん悪い人ではないだろう。
 例えそうであっても、この雪原に一人残されるほうがより危険な気がして、女性の後を追いかけた。


 案内されたのは山小屋風の建物だった。
「お、じゃまします」
 家の中は暖かく、固まっていた体がほぐれるような気がした。
「ほら、風邪をひくといけないから火の前に行くと良い」
 部屋の中央には薪ストーブがあり、周囲には大小さまざまなクッションが置いてあってひどく居心地が良さそうだった。
 言葉に甘えて、ストーブの前に座り込む。
 あったかい。
 状況は何もわからないままだが、この暖かさで気持ちも緩んだのか、余計なことに気づいてしまう。
 頭が割れるように痛い。そして気持ちが悪い。
 手近にあったクッションを抱え込むようにしてうずくまる。
 二日酔いだ。
 雪の中で寝ていたから風邪の可能性もあるけど。
「薬いる?」
 のろのろと顔を上げると、淡い緑色の液体の入った瓶を目の前に差し出される。
「これ、魔女の、くすりじゃ……」
 渡された薬瓶に刻まれた読めない文字や図形に気づき、ふたを引き抜く手を止めた。
 魔女が作る薬というのは効果が高いと有名で、そしてその分値段も張る。
 もちろんピンキリだと言う話だけれど、一般人が普通に利用するようなものではない、
 二日酔いの薬ならそれほど高価ではないとは思うけれど、現状持ち合わせもそれほどなく。
「あの、……支払いは」
「あぁ、気にすることはない。こういうのは縁だからね。それより早く飲むと良い。顔色も随分悪い」
 顔色が悪いのは二日酔いのせいではなく、魔女の薬などを差し出されたせいな気もするけれど。
 思考力が働かない程度には頭痛がひどいし。
「いただきます」
 吐き気を抑え込みながら、くすりを流し込む。
 甘くも苦くもなく、でも水よりはさわやかな風味を残して胃に流れ込むのがわかった。
 ほっと息をついて顔を上げる。
「ありがとうございました」
 その時点で頭痛も吐き気もすっかりなくなっていた。
 すごい効き目だ魔女の薬。
 効き過ぎで逆に怖いくらいだ。
「魔女、だったんですね」
 魔女の作った薬や呪いものなどの商品は高価とはいえ普通に流通しているので、その存在は世間一般に知られてはいる。
 ただ魔女自身の姿を見たことがある人はあまりいない。
 その少々都市伝説めいた存在が目の前に普通にいるのが不思議な気分だった。
 今はローブを脱いで、ニットにデニムというごく一般的な格好をしているから余計に。
「そう。ヒトヨという。よろしく」
 わずかに笑みを浮かべてヒトヨは隣に座った。
「宗田孝樹です」
 慌ててこちらも名乗る。
「タカキ。はい、これもどうぞ」
 湯気を立てたマグカップを渡される。
 中を見ると無色透明な液体。
 お湯? 体が冷えているからあたたかいものは助かるけど。
 カップから伝わる熱で手のひらを温めながら一口飲んでむせる。
「こ、れ……酒」
「二日酔いには迎え酒というだろ。とはいっても薬酒だよ」
 二日酔いは先にもらった薬で治ってるし、この薬酒は何というか、アルコール度数が結構高い。
 そして困ったことに旨い。
 全く薬臭さがないし、口当たりが良い。
 ゆっくりと喉を通っていくごとにほかほかと体があったまっていく。
「あの、ここは何処なんでしょうか。何も覚えてなくて」
 人心地がついて、ようやく気になっていたことを尋ねる余裕ができた。
「魔女の森のはずれだね。普通の人は来ることのない場所だが、おそらく酔っぱらって『穴』にでも落ちたんだろうね」
「穴?」
「狭間ともいう。ま、人からしたら怪異の一種になるのかな。本来ではない場所に繋がってしまう場所だよ。いわゆる神隠しもこれが原因なことが多い」
「そういうのって、どうにかならないんですか?」
 自分は運よく助けてもらえたけれど、そうでなければ凍死していた。
「ほとんどが自然発生するものだからね。もちろん気が付けば対処するが」
 なくすのは難しいということか。
 しかしそんなものが自然発生してるって怖すぎないか? だから怪異と言ったのか?
「じゃあ、運が良かったのか……そうだ、お礼も言ってなかった。ありがとうございました、助けていただいて」
 マグカップを床に置いて頭を下げるとヒトヨは小さく笑う。
 え、何か変なこと言ったか?
「いや。素直で微笑ましいなと思っただけだ。お礼を言われるようなことではないからね」
 表情に出ていたのか、ヒトヨは的確に考えを読み取ってくれていた。
 魔女って人嫌いで気難しいイメージがあったけど、ヒトヨはそんなこともなく気安い。
 どことなく面白がられているというか、からかわれているような気もするけれど。
 たぶん年上だよな。
 見た目は少し年長かな? くらいだけれど魔女って外見通りだとは限らないはずだ。
 とはいえ初対面の相手に年齢聞くのはさすがに失礼だしな。
 少し気になっただけで、どうしても知りたいわけでもないし。
 カップに残った薬酒の残りを飲み干す。
「少し眠ると良い。タカキ」
 カップを抜き取り、代わりに毛布を渡してくれる。
 言われるまま横になり、毛布にくるまる。
 ちらちらと揺れるストーブの火を見ながらゆっくりと眠りに落ちた。



 目が覚めたらアパートの自分の部屋だった。
「夢?」
 それはそうだろう。
 一般人が魔女に遭うなんて、そうそうあるもんじゃない。
 ただ夢だったにしてはずいぶんと現実味があった。
 薬酒の味もまだ舌に残っているような気がするほどに。
 単純に昨晩立ち寄ったバーで飲んだ酒の味が残っているだけかもしれない。
 落ち着いた良い店だったけれど、あそこからどうやって家まで戻って来たのか。
 起き上がり、枕元に放ってあったスマホを手に取る。
 『請求書』
 ホーム画面にある謎の通知に眉を顰める。
 酔っぱらって、変な詐欺サイトのURLでも踏んだのか?
 恐る恐るメールを開く。
「ぼったくりだろ」
 やっぱりあれは現実だったのか、と思うより先に声が出た。
 メールの内容は簡潔なものだった。
 『魔女の秘薬 代金 1,000,000円
 支払方法は応相談』
 無償、みたいなこと言ってなかったか? 気のせいか?
 まぁ、無償は勘違いにしても二日酔いの薬で百万はとりすぎだろう。
 確かに薬はよく効いたけれど、
 ……応相談ということは分割がきくということだろうか。
 出せない金額ではないけれど、それでも貯金の結構な割合を持っていかれることになるのはつらい。
「あぁ、でも、もう良いのか」
 やけ酒を飲んだ理由を思い出し自嘲的な笑みがこぼれる。
 数か月続いた倦怠感に不審を抱き病院でいくつかの検査をして、余命宣告をされた。
 そこまで深刻な結果が出るなんて、思ってもいなかった。
 怠いながらも仕事にだって休まずに通えていたし、食事だってとれていた。
 薬をもらっておしまい、くらいの話だと思っていたのに。
 気持ちのやり場もなく馬鹿みたいに酒を飲み、魔女に出会ったわけだけれど、ヒトヨの言っていたようにこれも縁なのだろう。
 近いうちに死ぬのならお金を残す必要もない。
 何なら全財産使って、楽に死ねる薬を作ってもらうのも悪くない。
 この倦怠感は徐々に悪化していくとの話なのだから。
「……あれ?」
 ここまで考えておかしなことに気が付く。
 体がだるくない。
 魔女に遭ったという非現実的出来事で気が紛れていたせいかと、ベッドから降りて部屋を歩いてみるが体が軽い。
 そうだ、もともとこんな感じで動けてた。そうだった。
 ぴんぽーん。
 体の軽さを確かめるようにストレッチをしていたところに音が鳴り一瞬固まる。
 姿勢を戻し、慌ててインターホンのモニタを見る。
 黒いローブを目深にかぶった人物がそこに映っていた。


 普段なら絶対、居留守を使う。不審者過ぎる。
 でも、これはたぶん大丈夫だろう。
「はい」
 それでも余計なことは言わずに応対する。
「取り立てに来たよ」
 言葉は少々物騒だけれど、口調はどこかいたずらっぽい、聞き覚えのある声。
 すぐに玄関に向かいドアを開ける。
「無償じゃなかったんですか?」
 中に招き入れながら軽口をたたく。
「ただとは言ってないよ、気にするなとは言ったけど。心配せずともちゃんと取り立てに来ただろう?」
 そんなことを心配した覚えはないのだけれど。
「それにしても高くないですか? 二日酔いの薬に百万って。魔女の薬が希少なのは知っていますけど」
 支払うけれど、わざとぼやいてみせる。
 体が楽になったおかげで気持ちもかるくなったのか、無駄な会話がしたい気分だった。
「さすがに二日酔いの薬ではさすがにそこまで取らないよ。そうじゃない。患っていた病の薬代だよ」
 ソファをすすめ、お茶を出そうとやかんをコンロにのせるのを失敗した。
 足の上でバウンドして水をまき散らしたやかんを呆然と眺める。
「はい?」
「おかしいな。効かないはずはないのだけれど、まだ体は辛いかい?」
 心底不思議そうにこちらを見るヒトヨに首を振って応える。
 確かに楽になっているけど。
「え? どういう」
「病を完治させる薬、お代は百万円」
 確かに症状はきれいさっぱりなくなっているけれど。
 本当なら百万円は安くないか?
 余命宣告されていた病気が完治って。
「言っただろう、縁だと。私の領域に落ちてきて、ちょうど良い薬が手元にあった。そして私はちょうど良い人材を探していた」
 なんだかあやしげなことを言い出したぞ。
 濡れた足元を片付けるタイミングもつかめず、眉を顰める。
「今の協力者が引退予定でね。適性のある人間を探していたんだよ」
 にこにことヒトヨは近づいてくる。
 笑顔だけれど獲物を狙う目をしている。
「なんですか、協力者って」
「大したことじゃない。仕入れを手伝ってもらったり、客との仲介をしてもらったりね。もちろん今の仕事に支障が出ないように配慮しよう。些少ではあるが給金も出す。簡単な副業とでも思ってもらえばいい」
 決定みたいな口ぶりだけど、承諾してないぞ?
「……そうだな、まずは十回ほど仕事を受けてくれれば薬代の支払いは不要にしよう」
 正直、心惹かれる提案だ。
 完治の対価としての百万は安い。
 だけど、これから生きていくうえで貯金を大幅に削るのは少々こわい。
「じゃ、決まりということで」
 いつの間にかすぐそばにいたヒトヨが手をつかんだ。
「え、ちょっと待って」
 まだ承諾していない!
「よろしく、協力者」
 左手の小指に灰銀色の指輪がはめられる。
「な、」
 指先から体内にひやりとしたものが入り込む感覚。
「これでいつでもどこでも連絡が取れる。では、そういうことで」
 同じ意匠の指輪をつけた手をひらりと振ってヒトヨの姿が消える。
 さすが魔女。だまし討ちにもほどがある。
 一瞬でも隙を見せたらだめだった。
 どうすることもできず、とりあえず濡れた床を片付けることにする。


 タダより高い物はないと実感するのは、もう少し後の話。

【終】




Feb. 2024