花鬼



 その年は、梅雨入り宣言があったにもかかわらず、雨が降らない日々が続いた。
 梅雨特有の重い曇り空であることさえ少なく、強い夏の日差しがさんさんと降り注ぎ、地面はあちこちひび割れ、樹も草も、花も皆、息絶え絶えだった。
 そこは、もともと人がそれほど来るようなところではなく、当然散水してもらえるような場所でもなかった。
 その人の来ない建物裏を、一人のんびりと通りかかった青年は立ち止まり、少し首をかしげた。
「……飲みかけだけど、良いよね?」
 おそらく一口くらいしか飲んでいないであろう、水の入ったペットボトルを萎れかけた木の根元で逆さまにする。
 とぽとぽと惜しげもなく、最後の一滴まで注ぎ終わると、青年は力なくうなだれた花に触れた。
「元気になるといいね」
 その優しい声は、注がれた水と同様に全身に染み渡った。
 それはまさに天の助けで、命の水となった。



「どうした?」
 昼食を食べ終え、携帯電話を眉を顰めながら眺めている章(あや)に昊(こう)は声をかける。
「睡眠時間と端金の実入りのつり合いは取れているのか」
 答えになっていないことを呟いたあと、章は見ていた携帯を昊にむかって放る。
 小さな画面に映し出されたメールの内容を見た昊は苦笑いを浮かべる。
「拒否権がないのが辛いところだーねー」
 毎度の単純簡潔な仕事の依頼文だ。
 安い報酬で、学校から帰宅後、深夜のコンビニバイトまでの短い睡眠時間が削られるのも毎度のことで、さすがに辟易しているようだ。
「幸い近場だし、さっさと済ませれば、多少は寝られるはず」
 強引にポジティブに考えようとしているところが、余計に不憫さを覚える。
 章のもつ『浄声(じょうしょう)』の力は言葉を具現化する。実際は形式に則っていなければ発動することはないが、それでもマイナス要因の言葉は基本的に避けるようにされている。
「うん、まぁ、健闘を祈るよ」
 それほど上手くいくとは思えないが、それでも昊は一応使鬼という立場上、そのあたりを言葉にするのは避け、章の代わりに依頼メールに承諾の返事を打ち込んだ。


「降り出したな」
 昊の言葉に章は顔をしかめる。
「なんで、よりによって、見計らったかのように、降るんだよ」
 空梅雨で水不足だと言われているのに、そして昼休みまでは晴れていたのにも関わらず、この二時間ほどで雲が広がりだし、仕事に向かおうとする今になってとうとう大粒の雨が地面をまだらに染め始めた。
「そんなこと、俺に言われても。降らなきゃ水不足で困るんだから、まぁ良かったと思うしかないんじゃないか?」
「だからって、今降らなくても。せめてあと一時間でもずれてくれれば」
 恨めしそうに章は天を見上げる。
「日延べするか?」
「……この程度の仕事で? 雨降ってたからって理由で? 通らないだろ」
 傘をさして、校舎を出る。
 この程度の案件だからこそ、先延ばししても問題が大きくなる可能性は低い。実際のところ上から文句を言われることはないはずだ。
 章自身、本気で通らないと思っているわけではないはずで、単に愚痴りたいだけだろう。
 根本的に真面目で、勤勉。
「ま、さっさと済ませたほうが、気も楽だしな」
「明日晴れるとも限らないしな」
 昊のフォローに、章も諦めたように呟いた。


「廃屋、っていうか廃ビルか?」
 雨に濡れたせいでより陰気さを醸し出す四階建ての建物。
 窓ガラスは半数以上が割れ、壁には蔦が絡みつき、一見して使われていないことがわかる。
 敷地を囲むフェンスがあちこち破られているのを見ると、出入りしている人間はいるかもしれないが、どう考えても不法侵入だろう。
「この中か?」
 依頼メールにはこの場所の住所と、幽霊らしきものが出るらしいのでそれを排除するようにとしか書かれていなかった。
「見咎められたら、確実に不審者だな」
 付近は閑静な住宅街で、雨のせいか人通りはほとんどないが、その分男二人がこそこそしていれば悪目立ちする。
「裏手に回るか」
 フェンスに沿ってならんで歩く。
「出るって依頼があったってことは、やっぱり入り込んだやつが見たのかね」
「それか通りかかった近所の住民が外側から見たか」
 裏にある倉庫らしき建物との間の路地に、控えめな抜け穴を見つけて章は傘を閉じる。
 穴をくぐり抜けた章の後に昊も続く。
「もう差すだけ無駄だな」
 本降りの雨で瞬く間に全身ずぶ濡れだ。
 どうせ仕事中となれば章は傘をさせない。
 フェンスに傘をかけておき、建物とフェンスの狭い隙間を進む。
 端まで行ったところで章が足を止める。
「これ、かな」
 雨の音にまぎれて、かすかな声が昊に届く。
 肩ごしに見ると、章の腰あたりの高さの紫陽花が一本、フェンスにもたれかかるように植えられていた。
 丸くあつまった花は、雨不足せいか少々元気がないように見えた。
 その根元に白い靄。
 章が二度手を打つと、そのぼんやりとした靄は人の姿を模り、振り返る。
 白い肌に、顎のラインで切りそろえられた艶やかな白髪。淡い色の瞳の女性が驚いたように章を見つめたあと、あからさまにがっかりとした表情になる。
「ごめん。待ち人じゃなくて」
 苦笑いまじりで、でも優しく響く声。
 毎度のことながら、章は人外に甘い。
『どうして?』
 静かなのに、雨音に掻き消されることない囁き声。
「ちがった? どちらにしろ、何かできることがあれば手伝うよ?」
 これを人間相手に発揮できれば、もっと楽に生きられるのではないだろうかと、昊は軽くため息をつく。
 章の言葉は白い化生に真摯に届いたようだ。
『会いたい人間がいます。でも、私はここから動くことができません』
「なぜ会いたいんだ?」
 昊は口をはさむ。
 この様子ではその人間に対する害意はなさそうではあるが、万が一ということもある。
 章ににらまれるが、昊は気づかないふりで無視をする。
『お気づきかもしれませんが、私はこの紫陽花です。先までの晴天続きで、私は萎れてかけていました』
 本降りの雨を気持ちよさそうに身に受けながら紫陽花の化生は続ける。
『おそらく近道にでも使ったのでしょう。珍しくここを通りかかった方が、手にしていた水を惜しげもなく注いでくださいました』
「会いたいのはその人?」
『一言、お礼を伝えたいのです。あのままでは、この雨まではもちませんでした。おかげで、生き延びることができました』
 化生は深々と頭を下げる。
『できることなら、どうかお力をお貸しください』
「人探しは難しいから、絶対とは言いかねるけど、努力はするよ」
『ありがとうございます』
「……例え会えたとしても、それ以上は叶わない。それでも?」
 昊の言葉の意味を的確に汲み取ったらしい紫陽花はうっすらと笑う。
『もちろんです。生きる世界が違うのですから。この想いを持てたことだけで充分です』
 二人の会話には口を挟まず、様子を見て章は静かに二つ手を打つ。
「《我請う。かの想いし、その姿、映し給え》」
 紫陽花の想い人が雨に浮かび上がる。
「あ?」
 紫陽花はそれを嬉しそうに見つめるが、章と昊は顔を見合わる。お互い表情に苦いものが浮かんだ。
「……明日、連れてくるよ。必ず」
 何とか気を取り直したらしい章が、紫陽花に向かって笑顔を向ける。
 一転して安請け合いした章の言葉に不思議そうにしながらも、紫陽花ははにかんでうなずいた。


「なんていうか、トラブルメイカーだよな」
「なんで、こう、見境なくひっかけてくるんだ?」
 結局仮眠をとる間もなくバイトになだれ込む羽目になった章は、レジカウンターで頭を抱える。
「めっずらしいねー、章がメールくれるなんて」
 うきうきとした声でコンビニに入って来た諸悪の根源に章は冷たい視線を向ける。
「いい迷惑だ」
「なんだよー。呼んだのはそっちじゃないか」
「鷹間(たかま)は、あれだ。自覚がない分、性質が悪い」
 湿った床をモップで拭いながら昊もあきれた声を向ける。
「呼びだした本人のみならず、使鬼にまで嫌味言われんのかぁ? ……で、なに」
「美鈴町の廃ビルの紫陽花に水をやっただろ」
 まだ降り続く雨に濡れた友人に章はタオルを放る。
「……あ、あぁ。藤堂の家に行った帰りかな? 元気なさそうだったから。ちょうど開けたばっかのペットボトルあったし」
「犯人確定。章、確保する?」
 昊は確認する前にすでに鷹間の首に腕を回して捕まえる。
「犯人って何」
「鷹間、このあと時間作れ」
「この後って、章、バイトひけるの四時だろ。勘弁してくれよ」
 捕まえておいた昊の判断は正しかったようだ。そうでなければ逃げ出されていた。
「勘弁してほしいのは、おれの方だよ。鷹間のせいでずぶ濡れになった上、仮眠もとれずじまいだ。これ以上長引かせたくない」
 鷹間に笑顔を向ける。普段は基本仏頂面なので、逆に怖い。
「良くわからないけどわかった。行く。付き合う」
 鷹間は両手を上げて降参する。
「ありがとう。コーヒーでも飲んでゆっくりしろよ」
 奥から店員用のコーヒーを入れて持ってきて章は手渡す。
「昊、おまえの主人、怖いわ」
 店の片隅で小さくなりながらコーヒーをすすり愚痴る。
 昊は答えず肩をすくめた。


「こんにちは。探してくれてたんだって?」
 事情を聞いた鷹間は、紫陽花の化生に笑って近づく。
 紫陽花はふんわり笑う。白い肌がかすかにピンクに染まっているようにさえ見えた。
『その節はお水、ありがとうございました』
「だいぶ元気そうだね。良かった。……きれいだね」
 まるく咲いた紫陽花に鷹間はそっと触れる。
「探してくれてありがとう。また、見に来るね」
 紫陽花は鷹間を見つめて、幸せそうに笑って、そして姿を消す。
「……いなくなっちゃった」
 振り返った鷹間に、少し離れて様子を見ていた章は目を細める。
「居るよ」
 鷹間の目に映らないだけで、紫陽花の木と同化しているだけで。
「そっか。……じゃ、またね」
 もう一度紫陽花に触れて、鷹間は踵を返す。
『ありがとうございました』
 章と昊に紫陽花の声が静かに届いた。

【終】




Jul. 2013
関連→連作【神鬼】