あのね。教えてもらったの。
その国ではね、空から花が降って来るんだって。
雪にとざされた村。
だから、あこがれた。
彩られた世界に。
「花? 花が降るの? 雪みたいに?」
寝物語にされた母の話に却って目を冴えさせたカナンは声を弾ませる。
「おかあさんが小さな頃、村に来た吟遊詩人はそう言ってたわよ?」
眠りの気配を吹き飛ばしてしまった娘に苦笑いして答える。
「ちょっと待ってて」
唐突にカナンは布団から抜け出し小走りで部屋を出て行く。
「カナーン、そんな格好で出て行ったら風邪引くわよ」
「すぐ行くからっ」
声と同時に部屋に近づいてくる足音。
「また、何を持ってきたの」
分厚い本を両手でしっかり抱え込んで戻ってきたカナンに母親は呆れ声を出す。
「花って、こんなのとか、こんなのとかっ、こんなの?」
気に入りの図録を枕の上で開いて淡い水彩で描かれた花を次々とカナンは指し示す。
「カナン、とりあえず布団に入りなさい」
その言葉で思い出したように身震い一つするとカナンはまだ温もりの残る布団にもぐりこむ。
「おんなじ花ばっかりが降るのかな。毎日ちがう花が降るのかなぁ……いろんな花がいっぺんに降ってきたらすごいよね。色がいっぱいで目がびっくりしそう」
布団から顔と手だけをのぞかせてカナンは図録を楽しそうに眺める。
「そうね」
一年中雪がとけることのないこの地では花らしい花を見ることはかなわない。こうして図録で見るのがせいぜいなので、はしゃぐカナンの気持ちもわからないではない。
「一度、見てみたいわね」
もらした言葉が耳に入っているのかどうか、カナンは図録を次々にめくりながら空想にふけっている。
「カナン、明日にしてもう寝なさい」
「えー。もうちょっと」
甘えるように見あげるカナンの頭を軽くたたく。
「だーめ。おやすみ、カナン」
灯りをおとす。
薄暗くなった部屋でカナンは本を閉じ枕の下にしまいこむ。
「おやすみなさい」
手を布団に入れてカナンは目を閉じる。眠りがおりてくる気配のむこうで小さく扉が閉まった。
「また見てるの?」
窓から差し込む光であたたかい特等席で寝転び花図録をながめているカナンに声をかける。
「うん」
「いい加減、あきない?」
「ぜんぜんっ」
力いっぱい首をふる。
「そう? でもそれは一旦あとにして、新年祭のお菓子何にするか決めない? カナンが何でも良いなら勝手に決めちゃうけど?」
母の言葉にカナンは図録を閉じてあわてて起き上がる。
「やだっ。……どれがいいかなぁ。これ。でもやっぱりこっちのがいいな。あぁっ、でもこっちも食べたいし」
カナンはお菓子の本を何冊も引っ張り出してせわしなく頁をめくる。
「よくばりねぇ」
隣で料理の本を広げながら肩をすくめる母親にカナンは力説する。
「だって、どれもおいしそうなんだもんっ。選べないよ。どうしよう。これもおいしそうだし……」
「じゃあ、カナンがぜったい気に入るお菓子を新年祭までに作っておくわ」
あまりに真剣に困っているカナンに助け舟を出す。
「え。どんなのっ?」
「それは、内緒。でもカナンもびっくりの特別なやつよ?」
いたずらっぽく笑う母にカナンは抱きつく。
「ずるいっ。カナンもびっくりさせるー」
「なにしてくれるの? おしえてよ、カナン」
抱きつきかえして尋ねる。
「やだっ。内緒だもんねー。でも、ぜったいびっくりだよっ」
両手で自分の口を押さえながらカナンはくすくす笑いをもらした。
「まだかなぁ」
まるい月に照らされて明るい雪の上をとぼとぼ歩く。
ふり返ればてんてんと小さなくぼみ。歩いてきた跡。ほかに、なんにもない。
すこし前まで見えていた村はずれの明かりも今ではもう見えなくなってしまっている。
村はずれからずっと歩いた先に森があって、その森を抜けていくと雪のない町があると聞いたことがあった。だから、きっとこっちの方のはずなのだ。
花が空から降ってくるところは。
肩からかけたかばんに、花を入れるための大きな袋がちゃんと入っていることをカナンはもう一度確認する。
「だいじょうぶ」
袋を花でいっぱいにして持って帰るのだ。こっそり屋根にのぼって。
「お母さんを呼んで、外に出てきたらばーって袋から出せばきっと降ってるみたいだよね。ぜったいびっくりするよ」
その様子を想像して、また歩き出す。新年祭が始まる前までに帰らなければ。手紙は残してきたけれど、きっと心配するだろうから。
さくさく。雪にあしあと残して、月を見て、前を見てすすむ。
「やっと」
森についてちょっとほっとする。ここを抜ければ、きっと。
きっと、朝には町につくだろう。花降る場所。
ずいぶん傾いてきてしまった月をさえぎる木々の中に足を踏み入れる。薄暗い。
雪に足をとられないように、ころばないよう木の幹に触れながら少しずつ足をうごかす。一歩、一歩。
――どのくらい歩いただろう。なかなか森を抜けることができず、同じところをぐるぐる回っている気がして不安になったカナンは木にもたれて月も星も見えない空を見あげる。
「こども?」
突然のいぶかしげな声。カナンは驚きと疲れといろんなものをないまぜに声を出せないままへたり込む。
黒い外套に身をつつんだ男はそれを静かに見下ろす。
「……こんなところで何を?」
声を荒らげるでもなく、だからといって心配そうにしているわけでもなく淡々と尋ねられカナンはただ首を横にふる。
村の外には人さらいがいると言われていたのを今更思い出す。
はうようにしてそこから逃げ出そうとするが全く前に進まない。立ち上がれない。
「わたしは人さらいではないよ」
カナンの心を読んだように男は言うとフードを脱ぐ。あらわれた雪のような白い髪にカナンは目をうばわれる。
「白い髪がめずらしい?」
カナンは小さくうなずく。こんなに透きとおったみたいに真っ白な髪の人ははじめて見た。
男は小さく笑うと手慣れたふうに細い枝を集めて火をおこす。
「どこかに行く途中?」
少しだけ距離を置いて座った男はカナンに尋ねる。
「……花、を」
「花?」
カナンのかすれた言葉を男は繰りかえす。
「新年祭、に。……いっぱい持って帰ってびっくりさせるの」
カナンが花降る場所のことを一生懸命説明するのを男はおだやかに耳を傾けて、そして微笑む。
「偶然だね、わたしも今からその場所に向かうところなんだよ」
「ほんとに?」
「嘘ではないよ。今日はここで眠って起きたら向かおうと思っていたのだけれど、どうする? 一緒に行くかい?」
「いいの?」
「かまわないよ。朝になったら起こすから」
カナンは男の広げた布の上に言われるままに横になる。
「ぜったい、だよ?」
「わたしは嘘はつかないよ。おやすみ」
男は着ていた外套をカナンにかける。
「ありがとう。……おやすみなさい」
温もりの残る外套に包まるようにしてカナンは目を閉じた。
「ここ、どこ?」
カナンはぼんやりと尋ねる。ふわふわと視界が揺れる。すぐ横には黒いフードをかぶった男の顔。
「何回か起こしたのだけれど、目を覚まさなかったから出発してしまったよ?」
耳元から男の声。肩にかつぐように抱き上げられていることがわかりカナンはあわてる。
「ごめんなさい。おりるからっ」
「もうすぐ着くから、そのまま寝ていても大丈夫だよ」
「もうすぐっって、どのくらい?」
今はまだ一面雪景色。
「このままいけばお昼前にはつけそうだよ」
「うそっ」
太陽はずいぶん高く上っている。お昼まですごく時間があるとは考えられない。そんなわずかな間にこの雪がすべて花にかわるなんてことが信じられずにカナンは大声を出す。
「うそじゃないよ」
花の片鱗でもないだろうかとカナンは男の肩につかまったまま周囲を見わたす。そして見つける。
「うそつきっ」
森と村はずれの間にある大きな一本の樹。昨日の夜もその横を通って森へ向かった。
「うそじゃない」
じたばたと暴れるカナンを落とさないように抱きなおしながら男は静かに言う。
「だって、このまま行ったら家に帰っちゃうもんっ。あの樹があるから、まちがいないよっ」
「そうだね」
「花が降るところに行くって、つれていってくれるって言ったのにっ。うそつきっ」
抱きかかえられたままカナンは男の背中をたたきつづける。
「うそはついていないよ。きみの住むあの村が花の降る場所だから」
男のかわらない声音にカナンは手を止める。
「うそ……だって、見たことない」
小さな呟きを聞いて男はため息のような笑みをもらす。
「見せてあげるよ」
そっとカナンをおろすとまばらに降る雪を外套のそでに受ける。
「ほら。見てごらん」
「……ただの、雪だよ?」
雪はカナンの吐息で簡単にとけてなくなる。
「じゃあ今度はこれを使って。息を吹きかけないように静かにね」
カナンは男にわたされた小さなレンズ越しにそでの上の雪をもう一度見る。息を止めて。
あらわれたのは六つの花片をもつ真っ白な華。
「すっ、ごーい」
カナンの声と同時に花は消える。
「あ、消えちゃった」
「雪だからね、あたたかいのは苦手なんだよ」
「ねぇっ、全部? 花に見えるのって、全部?」
そでを引っ張りながら質問するカナンに男はうなずく。
「そう。全部同じ形ではないけれどね」
自分の手に雪を受け見ようとしているカナンを男は抱き上げる。
「村に着いてから見れば良いから、行こう」
「……でも」
このレンズがなければ花は見られない。見せてあげることも出来ない。
口ごもるカナンを抱きかかえ歩き出した男は柔らかく言う。
「それは、あげるよ」
「えっ、いいのっ?」
カナンはレンズをにぎりしめる。
「どうぞ。それでたくさんの花を見て」
やさしい声にカナンは男の首にぎゅっとしがみつく。
「ありがとうっ」
「わたしはうそを言わなかっただろう?」
うれしそうなカナンに男は笑う。
「うん。……うそつきって言って、ごめんなさい」
「いいよ」
抱きついたままカナンは男の足跡がふえていくのをながめる。家が近づいてくる。
まずは心配しているであろう母親にあやまって、そして一緒にたくさんの花を見よう。その時は、
「ね。一緒に見ようね」
カナンのつぶやきには応えずに男はただ微笑んだ。
Jan. 2006