えがおの鏡



 はじめは、捨て犬みたいって思ったんだ。
 通学路にある空き地を囲む杭に座って、ぼんやりしてた。
 ぼんやりしてる様子が、戻ってこない人を待ってるみたいだって思ったんだ。なんとなく。
 気になったけど、私は一人だったし、ゆっくりしてたら遅刻しそうな時間だったから、足早に通り過ぎた。
 先生も、最近不審者が多いから気をつけなさいって言ってたしね。
 まぁ、ちらっと見た感じではおかしな人って雰囲気はなかったけど。
 その人はこちらに気付いてもなさそうに、ただずっと遠くを見つめていた。


 二回目に見たのは同じ日の塾の帰り道。
 もうだいぶ暗くなってるのに、その人は朝と同じ場所で、同じ格好で座っていた。
 小さな外灯の下、ぼんやり浮かび上がったその人は雨が降っているのにも気付いてないみたいにじっとしていた。
 少し離れた場所から、そっとその人を見ると、雨にぬれた顔が、泣いてるみたいに見えた。
 朝みたいにそのまま行きかけて、やっぱり気になって立ち止まる。
 どうやって声をかけて良いか思いつかず、近づいて傘をさしだすと、その人は初めてまっすぐに私のほうを見た。
 少し驚いたような顔をしてた。
「キミがぬれちゃうよ?」
 やさしい声で静かに言うと、その人は傘を受け取り、私のほうへさしかけてくれた。
「……何、してたの? 朝からずっといたよね?」
「……キミは? こんな時間にどうしたの?」
 その人は質問に答えずに、逆に聞いてくる。
 大人ってよくこういうことをする。ずるいって思うけど、そんなこと言ったら話してくれなくなりそうな気がして、ちゃんと答える。
「塾の帰り」
 さしかけられた傘に、ぱたぱたと雨のはねる音がする。
「一人で帰ってるの? もう、真っ暗だし、あぶなくない? 変な人だっているかもしれないよ?」
 心配そうな声。
 びっくりした。お父さんやお母さんだってこんなこと言わない。
「平気。いつものことだもん。あぶなそうな人には近づかないし、近づいてきたら、逃げるし」
 私、足は速いんだから。
「ぼくは? どう見ても、不審者だよ? それなのにキミは近づいてきたじゃないか」
 咎めるように言う。
 自分で自分のこと、不審者って言っちゃうんだ。でも、ホントの不審者は自分で不審者って言わないんじゃないのかなぁ?
「だって、お兄さんは良い人そうだったし」
 ほんとは泣いてるみたいに見えて、ちょっと心配になったからなんだけど、そうとは言えずにごまかす。
 実際、やさしい人だと思う。自分は濡れたまま、ずっと私に傘をさしかけてくれているし。
「悪い人が、必ず悪い顔をしているとは限らないよ? やさしい顔した、悪い人だって沢山いる」
「わかってる、けど。……でも、お兄さんはやっぱりやさしいと思う」
 通りすがりの私を、まじめに心配してくれるし。
 でも、お兄さんは私の言葉を聞いて、ちょっと困ったような顔をした。
「ぼくがやさしく見えるのは、キミが優しいからだよ」
 言ってる意味が良くわからなくて首をかしげると、お兄さんはしずかに続ける。
「ぼくは、人間をうつす鏡だから。キミはぼくを通して、自分を見てるんだよ」
 かがみって鏡だよね。
「普通の鏡は人間の外見を映すよね? 身支度する時に見たりする」
 困っていると助け舟を出すようにお兄さんが言う。
 うん。毎朝、鏡の前で顔洗って、髪を結んでる。
「ぼくは外見じゃなくて人間の中身を映すんだよ」
 ええと、つまり。
「私がもし、怒ってた時にお兄さんに近づいたら、お兄さんも怒っちゃうってこと?」
「……そうだね。そうなるかな」
 今、困ったように笑ってるのは、私がちょっと困ってるから?
 だったら、お兄さんが捨て犬みたいにさみしそうで、泣いてるみたいに見えたのは……。
「みんな、けっこうわからなくなっちゃうんだ。自分の本当の気持ち。でも、気持ちはなくなるわけじゃなくて、だんだん身体の中にたまって、たまって、そしてあふれちゃう」
「……あふれると、どうなるの?」
 なんだかどきどきする。
「こわれちゃう。人間って結構もろいんだよ。壊れない為に、時々はまっすぐ向き合う必要がある。そのために、ぼくはいる」
 目を伏せて、お兄さんは言う。
「でもっ、だって、どうしようもないことだってあるよ」
 気付かないふりして、やりすごしてきたのに。気付いちゃったら、つらい。
 ひとりでも平気でしょ? しっかりしてるから、安心だよってお父さんもお母さんも言う。
 二人とも忙しいから、心配かけないように平気だよって笑ってみせる。
 毎日学校行って、終わったらすぐ塾に行って、放課後、友だちと遊ぶ時間なくて、休み時間の会話に混じれなくなって、居場所がなくて、席で本を読んでたりする。そんなことしてたら、ますます話題についていけなくなるのに。
 わかってるけど。
「大丈夫。人間は強いから」
 うつむくとやさしい声がふってくる。
「さっきはもろいって言ってた」
 矛盾してる。
 小さな子どもみたい。駄々をこねたみたいな言い方になって、くちびるをかむ。
 しっかりしないといけないのに。
「いろんなもの持ってるのが、人間でしょう? たまにはね、泣いたりしても良いんだよ。そういう気持ちを認めると、強くなれる」
 お兄さんはなんだかさみしそうな声で、そんなことを言った。
 顔をあげてお兄さんをみると、雨にぬれた顔が泣いてるように見えた。
 手をのばして触れると、あたたかくぬれてた。
 泣いてた。
 鏡が泣いてるんだから、だから私も。
 良いよね?
 傘の下、ぱたぱたと頬になみだが落ちた。


 そして私は顔をあげた。
 なんだか、すっきりした。
 お兄さんはきれいに笑っていた。
 私も、たぶん笑ってた。

【終】




Nov. 2011