doors



 四月。
 新学期。新入生。進級。進学。
 学生の頃は、当たり前に差し出された新しい扉。
 社会人になってしまえば、その気配は遙か彼方で、特に変わり映えのない、昨日と同じ一日。
 唯一、残り香をつれてくる新入社員も今年は不況の影響かうちの支店への配属者はナシ。
 ふ、ふふ。
 こうして刺激が少なくなり、年をとっていくのということか……イヤすぎ。
 だからといって、自分から新たな扉を探しに行くほどのヒマも余力も残っていない。
 毎日が仕事で精いっぱい。
 人手不足も甚だしい。
 打ちおわった書類の誤字を確認しながらこった手首を振る。
 次は、と。
 今日は何時に帰れるかなぁ。
 ここの所、帰ったらお風呂入って寝るだけの生活だものなぁ。ぼーっとムダに過ごす時間が欲しい。
 ものがなしく思いながらも手だけはきちんと働く。
 私ってば有能。って誰も言ってくれないから自分でほめる。
「荻ー。働き者だねぇ?」
 外回りから帰ってきたらしい同僚の声に反射的にその袖をつかむ。
「おかえりなさーい。志方さん、これ、あげる」
 未処理の見積りを一束渡す。
「荻サン、アナタの立場は?」
「営業アシスタント」
「じゃ、オレは?」
「営業サン」
 とりあえず、無駄口の間にも手だけは動かす。
 目線も書類と画面を言ったり来たり、相手の顔はほとんど見ないで応える。
「なんでアシの仕事を逆輸入しなきゃいかんわけ?」
「アシの仕事は元々営業のための仕事だから、自分のための仕事だと思えば問題ない」
「……キベン」
 っていうのとは、ちょっと違うと思う。
「志方さんさ、優しいって評判なんだよね。私、他のアシから羨ましがられるんだよ? 志方さん、かっこいーしって」
 手を止めて、顔を上げる。
 にんまり笑顔が、返ってくる。
 易しいな、このオトコ。
「もう、一声どうよ?」
 溜息。
「月末、苦しいのは私も一緒なんですけどね」
 カレンダーを眺める。給料日まで三日か。
「豪華フルコースなんて言わないって」
 あたりまえだ。そのくらいだったら見積りと仲良くする。
「オレ、中華気分。西芳楼いこ」
 会社近くのボリュームたっぷり、お値段お手頃、美味と三拍子そろったお店だ。
「了解……おまけ付き」
 もう一束書類を追加する。
 文句が聞こえるが無視して仕事に戻る。
 くそぅ。高くついたなぁ。


「おつかれー」
「アリガトでした」
 グラスを合わせる。
 おかげで早く終われた。まだ八時だ。快挙。
 ビールをおいしそうに飲んで志方さんがふと微妙な真顔をする。
「ところで、荻さぁ。仕事やめたい病発症中?」
 よく見てるよな、このヒト。こーいうとこオンナノコに人気の秘訣かもねぇ。
 とりあえず一口ビールを飲み応える。
「違うよー。ただ、もの思いにふけってるだけ、春だし」
「なら、いーけど? 荻、がんばりすぎるところあるからさ。突然やめるなよ?」
 フォローがうまいというか、何というか。
「辞めないって。今更、再就職つらいしね」
 出てきた料理に手を伸ばす。油淋鶏、すきー。
「たださぁ、なんとなくつまんないなと。日々同じコトのくり返しすぎで。もう五年にもなると大抵のこともわかってくるし」
 飽きたと言うか。
「確かに、気分一新って感じにはならないよな。初々しさなんてはるか彼方だし」
「そー。トキメキも足りない。春だというのに」
 溜息まじりに言うと志方さんは笑う。
「トキメキねぇ?」
 あ、ばかにしてるな。
「そーだよ。で、こんなところで食い気に走ってるんだよ」
 最近の楽しみが食べることだけ、というのはどうかと思う。
 回鍋肉、うまい……。
「荻って今カレシは?」
 相手選んで聞かないと、それってセクハラだぞ。
 ま、気にしないけど。
「んー。ご無沙汰だねぇ、そのコトバとも」
 かれこれ二年かぁ。
 いなくっても不自由しないものだよな、割と。
 このビミョーなめんどくさがりが敗因か?
「何でよ?」
 面白がってるな。
「出会いがないもん」
 必要性を感じない、と言うのはあんまりなので控えめに返事する。
「社内は?」
 ……もう、時効か?
「あのさぁ、前付き合ってたのが社内だったんだよねぇ」
 こりごりです、との思いを混ぜて言う。
 うんうん、と肯いていた志方さんはその途中で固まる。
「……はぁ?」
「うん。誰にも言ってなかったし、隠しきってたから噂もたたなかったと思うけど。世田さんと付き合ってたの、実は」
 志方さんとは確か同期だったはずだ。
 それほど仲が良かったわけではないようだが。
「世、田? って去年、関東支社に行った?」
 声、裏返りかけてる。
 これだけ驚いていただけると暴露しがいあるな。
「そう。びっくり?」
「何で、世田?」
 なんで、って言い方もどうかな。
 確かに、社内では接点はなかったけれど。
「アパートが近かったから、かな」
 飲み会の帰り道で一緒になったりとかね、いろいろあったのよ。
 志方さんは疲れきったように椅子の背もたれに体をあずける。
「豪傑だねぇ。普通、なんだかんだいってばれるものだけどな、社内恋愛」
「努力の結果。でも、めんどーだよ、社内は」
「遠恋になるから、別れたのか?」
 興味津々?
 こっちとしても、ずっと溜めてたものを吐きだす良い機会だ。グチの相手には最適の聞き上手、話させ上手だし。志方さんって。
 ま、吹っ切れすぎているのでどうでも良いって言うのもあるんだけれど。
「ちがう。別れたのそれより前。諸々あってね」
 さすがに諸々の内容を言う気にはならないし、聞きたくもないだろう。
 ビールから烏龍茶に飲み物を切り替える。 すこし回ってきた。
 志方さんはついでにビールを追加する。
「……聞かなきゃ良かったかなぁ」
 頬杖をついてぼやく。
 たそがれるなよ。
「私は話してすっきり。聞かなかったことにして良いよ。で、さ。一人でいるのも結構たのしくって良いんだけど、ね。トキメキがないのはいけないよねぇ」
「刺激がないとな、人間。一人で楽しいなんて言ってると早くふけるぞ? 荻」
 コドモみたいに笑う。
 こういうとこ、とても年長とは思えない。
 付き合いやすくて良いけど。
「そんなこと言って、志方さんこそ大台突破ですよ、ダイジョーブなんですか?」
「ココロの底からほっといてくださる?」
 気にしてたのか。フォロー、フォロー。
「志方さん、若くみえるから問題ないですってば」
 ガキっぽいから、とは伏せるのが吉。
 機嫌を直したように志方さんはこちらを向く。
「よし。ではおごって差し上げましょう」
 ぽんぽん、こどもをあやすように頭をたたいてくださる。
 だから、むやみにそういうことすると訴えられるってば、セクハラで。
「ごちそーさま」
 支払いをすませて、志方さんはレジのお兄さんにいう。
 それに唱和していうとお兄さんは笑む。
 ぉ。なかなか笑顔がカッコよろしいな。目の保養。
 店の外に出る。
 夜はまだすこし寒いな。
「ごちそうさまでしたっ。ほんとは私がおごるはずだったのに」
 もともと、仕事のお礼のはずだったのに仕事してもらった上おごって貰ってるってどうよ?
「ま、給料日後に期待ってコトで」
 志方さんは時計を見る。
 それを横から覗くと九時三十分を指している。
 おなかいっぱい食べて、ほろ酔いでまだこの時間。
 シアワセ。
「りょーかい。じゃ、また明日。おつかれさまでした」
 敬礼すると、同じように敬礼が返ってくる。
「気をつけて帰れよ」
「志方さんこそ。けっこう飲んでたから、転ばないようにね」
 どこかふわふわした足どりで歩いていく志方さんを見送ってから改札をくぐった。


 にこやかな笑顔。つられてこちらも微笑む。
 重たげなドアを開く。
 むこうからあふれる光。
 こちらを見つめる目。それに促されて光の中へ向かう。
 背後に沿う気配に、すごく安心して。
 踏み込んだ。むこう側に。


「…………うわ。さいてぇ」
 起き上がり、思わず口に出す。
 時計を眺めるとまだ五時だ。……こんな時間に目が覚めてしまったことも確かに最低だが、それより何より。
「なんてお手軽にわかりやすいの、私の夢ってば」
 昨日の今日で、というか昨日の今日だからなんだろうけれど、ため息が出る。
 おぼろげだけれど、それでも芯となる部分はしっかり覚えている。
 寄り添っていた、その人の顔もしっかりと。
「社内恋愛こりごりとか言ったのはどの口だぁ?」
 ひざに頬杖ついて呟く。
 口で説明すれば恋愛ごととは取れないかもしれないけれど。その夢を見た本人としては、眼差しや、漂う空気やらが、もう、完全に。
 別に夢が丸ごと願望だなんて思ってないけれど、思いたくもないけれど。それでも何らかの気持ちがあるのではないかと、あれだけあからさまな夢を見てしまうと自分を疑いたくなる。
 好きなことには間違いない。ただ、それはあくまでも同僚としてのはず。だめだ。ブランク空きすぎて免疫が落ちているのか。中学生じゃないんだから。これが、恋かしら? なんて。今更。
 両手でほほを軽くたたき、ベッドから抜け出す。これ以上ぐだぐだ考えていると、深みにはまるばっかりだ。
 カーテンをあけ、やっと白み始めてきた空をながめると大きなため息が出た。


「おはよー。荻、早いなぁ」
「……おはようございます」
 何も会社に入る前に遭わなくても良いのに。
 とっさにうつむく。
 間が悪い。志方さんに非はないけれど、嫌でも夢を思い出す。
「二日酔い? そんなに飲んでなかったよな」
 心配げな顔が覗き込まれる。
「……ちがう。単に、夢見が悪かっただけで」
 ぼそぼそと応える。
 できれば今日一日くらいは業務以外の会話をしたくなかったかも。
「ほんとに? しんどかったら早退しろよ?」
 気遣う声に苦笑いを返して顔を上げる。
 一方的に後ろめたい、程度の感情で心配させるのは申し訳ない。
「大丈夫ですって」
「ならいーけど?」
 志方さんは通用口のドアをひき目で先に入るように促す。
 既視感。理由なんかわかりきっている。
「荻?」
「入る、入る」
 一瞬立ち止まってしまうと、いぶかしげな声がかけられる。
「どーしようかなぁ」
 聞こえないように呟き、隣を歩く志方さんを横目で見る。どことなく眠たげな顔。
 我ながら単純すぎる、簡単すぎる、お手軽すぎる。社内は面倒とか言っていたは誰だ。
 しばらく仕事以外では距離をとって冷静になるべきか。
 もしくは。
「おい、目がうつろだぞ?」
 誰のせいだと思ってるんだ。って自分のせいだけど。
 まぁ、良い。
 なるようになれ、だ。
 一時的なものですぐに醒めるかもしれないし。そうじゃなくても、その時はその時で。
 もともと考えてどうにかなることじゃないんだし。わりきってやる。
「給料日、何食べにいきましょーか」

【終】




May. 2005