朝起きて。学校行って。帰ってきたら塾に行って、家に戻って眠って、また朝が来る。
それでもまだ『もっと』なんて言うの?
店じまいの早い商店街の、数少ない街灯の明かりを頼りに、でも人には見つからないように細い路地に入りこむ。
そこを抜けるとコンクリート造りの古い廃墟に突き当たる。
月明かりに照らされたそれは、昼間見るよりもずっと大きく不気味に見えて、来た道を戻ろうかと考える。
「でも、なぁ。ここまで来てさぁ」
少々大げさだけれど、割と決死の覚悟で来たのだ。ここであきらめて帰ってしまうと言うのではなさけない気がする。ただ、ちょっと予想よりあやしげだったくらいで。
大きく息をはく。
「よし」
見ため重たそうな扉は拍子抜けするほど軽く開く。
つまずかないよう足元に気をつけながらそっとドアを閉める。
静寂。
薄暗闇にぼんやりと円筒状の柱が何本か目に入る。そして。
「……声?」
風の音とかではなく……歌のように聞こえる。耳を澄まし、音源を探る。
やっぱり歌だ。女の子の声。何でこんなところにいるんだろう。
まぁ、他人のこと言える立場じゃないけど。
「かーごめーかごめー、かーごのなぁかのとぉりぃは」
どうもエンドレスらしい。聞き覚えのある童謡をまた初めから歌ってる。
どこにいる?
声の感じからすると比較的近くっぽいのだけれど。
暗い建物のなか、目を凝らす。奥にある階段の手前に、外から入り込んだわけではない奇妙な明かりがほのかに浮いている。
「幽霊?」
まさかと思いつつちいさく声をかけるがそれをまるで無視して歌が続く。
とりあえずBGMだと思うことにして置き残されている適当な台にほこりを払って座り、仄光る物体をぼんやり眺める。なんか落ち着く。
「いーつーいーつー出ぇ会ぁう」
「『出やる』だよ」
気持ち良さそうに歌っているところについ口を挟んでしまう。
ぴたりと声が止まる。まずったか、と思わないでもなかったけれどこれで少し静かになると半分ほっとする。何かがいると言うことにかわりはないけれど。
「そうなの?」
怪訝そうな声。ぼんやりとした光がゆれる。
「そう。かごの中から鳥がいつ出るか、だろ? かごの中の鳥が何と出会うって言うんだよ」
言ってる最中に光はだんだん人の形になっていく。同じ歳くらいの金の髪の女の子。
「えぇと、未知との遭遇とか?」
いたずらっぽく笑う。
「未知との遭遇をしてるのは、おれだと思う」
女の子の背中には白い羽。はたはたと小さく動いている……ホンモノ?
「だねー。でも、私もちょっとびっくりだよ。普通、もう少しびっくりしたりとかすると思うんだけどなぁ」
しみじみと言った後にぼそりと呟いたのちゃんと聞こえたぞ。
つまんない、とか言っただろ。
「で、なんでこんなとこに来たの? 家出? 小学生でしょ?」
自分だって小学生だろ、と言い返そうとして止める。学校に通う天使なんて聞いたことないし。
「別に家にいても退屈だから」
ウソじゃない。
「親とか心配するんじゃないの?」
天使は階段の手すりに座って足をぶらぶらさせながら尋ねる。
「今日はみんな留守だから気づかないよ」
万が一、電話をかけてきたとしてもちゃんと携帯も持ってきてるから問題ない。
「ふぅん。でも、さ。一人っきりなら家にいても良いんじゃない? 気楽だし。やりたい放題、食べ放題でしょ。こぉんないつ崩れるかわかんないようなとこに来なくても」
確かに。でも。
「アンタは何でこんなとこにいるんだよ」
「何で鳥はカゴに入れられるんだろーねぇ」
……カゴメカゴメの話の流れなのか? 話そらすにもほどがあるんじゃないか?
「逃げるからだろ?」
簡単な話。逃がしたくないから、しばるかわりにかごに入れただけ。不自由。
「逃げたって良いと思わない?」
いつのまにか差し込んでいる窓からの月明かりに女の子の笑顔がきれいに見える。
「そう?」
それができれば。
「だって、だからここにいるんじゃないの?」
大人びた、見透かすような視線。思わず目をそらす。
「今日だけ、だよ。誰もいなくても、家にいたら勉強しなきゃいけない気になるし」
塾が終わってから、以前から気になっていたここに来た。帰りたくなかった。ずっとここにいるなんて出来ないことくらいわかりきっていて。だから、ちょっとだけ。
「疲れちゃったんだ?」
やさしい声。素直にうなずく。
「別にね、勉強が嫌いっていうんじゃないんだ。ただ勉強だけじゃイヤなんだ」
そうじゃなくて、なんて言ったらいいのか。
「うん」
かんたんな返事。でも、まるごと全部わかってくれたみたいな気がした。
「うん」
ばかみたいに同じコトを返す。
「たまには羽のばさないと、飛ぶときに困るから。それでいーと思うよ」
「キミは?」
「私? 私はいーの。自由気ままにやってるから」
そういって笑った顔はなんだか寂しそうに見えた。
「ねぇ、名前は? おれは通」
「……もう、寝たほうが良いよ。明日は帰るんでしょ」
それは、帰りたくなくても。
名前を答えない天使にため息を返して台の上に寝転ぶ。
「オヤスミ」
やわらかな声といっしょに眠気もふってくる。
まぶしさに顔をしかめて起き上がる。……からだが痛い。
大きくはない窓から光が差し込んでいる。目をこすってあたりを見渡す。
ほこりまみれの台。はがれかけた天井。崩れそうな柱。
天使は、いない。
仕方ない。
台から下り、出入口のドアに手をかける。
「ばいばい。……ありがと」
ドアを閉める直前に声を滑り込ませる。
多分、きっとどこかで聞いているだろう。
そんな気がした。
そしてまた同じ日は続いていくけれど。
疲れたら空に手をのばす。
いつかまた、会いにいこう。
Jun. 2006
関連→連作【カラノトビラ】