にじむ。
滲んでぼやける。
ぼやけた視界は全てをあいまいに。
それは、境界さえも。
雨はキライだ。
降りはじめの、ほこりっぽいようなにおいはなんだか懐かしい感じがするし、雨音は耳に心地よかったりもするけれど。
「痛……」
こめかみを指で押さえる。
雨が降り出すときまって締め付けられるような頭痛がはじまる。これは別に薬で抑えられるから問題ないのだけれど。
雨によってにじんだ世界は、見えるはずのものと、見えないはずのものを逆転させる。これは大問題。
今もグラウンドの向こう、フェンスにしがみつくようにして何かを一心に見つめている中学生。この雨の中、誰もいないグラウンドを傘もささずに見ているということからアレは見えるはずのないものだと判別がつく。ここ数ヶ月、雨のたびに見かけているから考えるまでもないのだけれど。
この、雨による厄介な弊害は全ての人に起こるのではない。それどころか未だに自分と同類には会ったことはない。不公平だ。
「どしたの、須賀さん。傘ないの?」
昇降口でぼんやりとしていたところに声をかけられ反射的に首をふる。
「ぅうん。もってる」
ふり返るとそこにいたのは人懐こい笑顔のクラスメイト。良かった。これが見えざるもの相手だったら独り言になってた。
「そ? じゃ、お先」
傘をさし雨の中に踏み込む背中を見送る。視線をそのまま空に移す。全面曇色。当分やみそうにない。フェンスの向こうにいた少女はいつの間にか消えている。
「……帰ろ」
ため息と一緒に呟くとかばんの中から折り畳み傘を出しひろげる。雨雫がぱたぱたと傘をたたく。できるだけ余計なものを目にしないように地面で水がはねるのをみながら、足を動かした。
「まだ梅雨じゃないよね?」
恨みがましく空をながめる。今日もまた重い灰色が広がっている。雨と言うより霧に近い感じで覆われている景色。頭痛は昨日より多少マシ。というか麻痺しているような感じ。ただ、視界はよりあいまいに。ぼやける。気をつけていないと見える・見えないを間違えそうなほどに。このまま玄関をあけて部屋に戻り、布団にもぐりこんでしまいたい。
が、学校を休むなんて言って許してくれるようなハハオヤじゃない。
区別がつかないなんてこと信じてもらうのはずっと昔にあきらめてしまったし、頭痛なんていつものことでしょ、薬飲んでさっさと行きなさいと言われるだろう。
「めんどくさい」
でも仕方ない。傘をさしていても入り込んでくる細かな雨に眉をひそめつつ学校へ向かう。なるべく人通りの少ない道を選んで。
このくらいの雨だと傘をさしていない人も多い。そうなるとより現実と幻の見分けがつけにくくなる。
麻痺したような頭痛を振り払うように頭をふる。視界に何か引っかかり顔を上げる。
走ってくる人影。こちらのことなどまるで見えてないように俯いたまま。もう、すぐそこに。
足が動かない。どっちだろう。目を閉じることも出来ずただ凝視する。ぶつかる――。
衝撃――はなかった。たぶん。一瞬かさなって、すりぬけた。だからあれは幻影で、本来は見えないはずのもの。なのに妙に生々しい感触があった気がする。
額を汗がつたう。にもかかわらず寒い。傘を持つ手が細かくふるえる。どうしよう。歩けない気がする。もう。
背後に近づいてくる気配。今度は、何? どっち? イヤだ。もう。
「……須賀、さん?」
自転車のブレーキの音に続けてかけられた声に何かの糸が切れた。力が抜けて、地面にしゃがみこむ。傘が手からはなれる。
「どしたの? 大丈夫?」
しゃがみこんで覗き込んでくるのは見慣れたクラスメイト。
「……んで」
かすれた声しか出ない。なんで、このタイミングで。昨日から。
「ぬれちゃうよ?」
落とした傘を拾ってさしかけてくれる。自分だってぬれてるのに。多分、傘ささずに自転車乗ってたんだろうけど。
お礼の変わりにうなずくように頭を下げる。
「なんかあった? って聞くまでもないか」
ポケットからハンカチを出して差し出してくれる。マメだな。でも、なんで。
「気づいてないの?」
いたずらっぽく笑って、ハンカチをこちらの顔に近づけてくる。……え?
目尻にやわらかな布の感触。なに?
「泣いてる」
言われてはじめて気づく。指で目をこする。ぬぐう。いつのまに。
「もう立てる?」
伸ばされた手につかまる。引っ張りあげられる。
「傘、たたんでも良い?」
返事を待たずに閉じてしまう。イマイチ頭が働いていない気がする。何でこんなことになってるんだろう。
「かばん貸して」
たたんだ傘を自転車のハンドルに引っ掛け、肩にかけていたかばんを抜き取るとカゴにつっこむ。
「うしろ乗って」
自転車にまたがりスタンドを蹴ってはずす。うしろって。なんで。
「遅刻しちゃうよ? 担任にめんどくさい言い訳する元気あるなら歩いて行っても良いけど?」
それは勘弁して欲しい。ムダに細かく聞いてくるのだ。あの担任は。
「ほら、はーやーく」
催促されて、ためらいを捨ててステップに足をかける。肩につかまるとゆっくりと走りだす。
「……ありがと」
小さく呟く。だんだんとスピードが上がって来ているせいで風がうしろに流れている。だから聞こえなかっただろうけれど。
良かった。あそこで会わなかったらずっと動けないままだった気がするから。
「到着」
自転車置き場に猛スピードでつっこんでブレーキをかける。思わず肩を掴んでいた手に力が入る。
「十分前。良かったねー」
「ありがとう」
ステップから降りて言うと屈託ない笑顔が返ってくる。その向こう側。
「どういたしまして……須賀さん?」
泣いてる人がいる。唇をかんで。自転車置き場の奥のほうで。制服が今のものと違うからあれは幻。わかってはいる。けど。
苦笑のような吐息に、あわててクラスメイトの方に意識を戻す。
「見えてるんだね、やっぱり。須賀さんも」
しずかな笑み。……いま、なんて?
雨上がり。にもかかわらずなんとなくもやもやした感じ。原因はわかってる。
「須賀さん、一緒に帰らない?」
追いかけてきた足音に立ち止まる。その申し出はすごくありがたかった。朝の話の続きをしたかったのだけれど、教室ではうまく切り出せずにいたし。
うなずくとやわらかな微笑。
「良かった。かばん、かごに入れて良いよ」
「大丈夫。……あの、さ。今朝のことなんだけど」
「うん。今日ずっと話したそうにしてたよね」
自転車をおしながら言う表情はどこかいたずらっぽい。
「気づいて」
「でも、教室でそんな話できないでしょ。須賀さん、他人に知られないようにしてるみたいだし」
確かに。親にさえ信じてもらえていないことを友人に話す気にはなれなくて、バレないようにしているからその心遣いもうれしい。良い人だと思う。
「で、結論から言えばおれも見えてるよ」
あまりにもさらりと言われたせいで却ってよくわからず立ち止まる。
「須賀さーん、そんなとこで考え込まないでよ」
三歩先で振り返って苦笑いを浮かべている。
「……ぇえと、和城くん?」
「うん。須賀さんと一緒。見えるよ。今朝、自転車置き場にいた女の人もね。ま、おれは最近だけどさ、見えるようになったのは」
行こ。と目で促され、先に歩き出した和城を追いかける。
「最近って、なんで?」
何がきっかけだったのだろう。それがわかればもしかしたら見えなくなる方法もわかるかもしれない。
「目を凝らしたから」
まじめな声。見あげるとなぜか照れたように笑う。
何でわざわざそんなことを。
「だって、須賀さんが見てたから」
はい?
まじまじと見つめ返すと苦笑が返ってくる。
「好きな子と同じもの見てみたいってのは基本じゃない?」
見えていたことに気が付いていたということ? それに……。
「見たいと思って見られるようになるものなの? って、え? 好きって?」
「だから須賀さんのことが好きですよってコト。割とわかりやすく態度に出してたつもりだったけど全く、これっぽっちも気づかなかった?」
わからないよ、ふつう。
「とりあえずさ、須賀さんが見えるもの、おれにも見えるし、さ。一人で抱え込むよりちょっと気、楽にならない?」
それは、まぁ。
「今のところは多くは望まないからさ。たまにはこうやって一緒に帰るっていうのはどうでしょうか?」
あいかわらず、ずっと笑顔のまま。ちょっとうさんくさい気もしなくもないんだけど。
「コケの一念で『見える』ようになった思いもちょっとは汲んでください……ダメ?」
その顔がナサケなくてなんだかちょっとだけかわいくて。
うなずく。
「ホントに?」
信じられないといわんばかりに。そしてすごくうれしそうに。
あせる。
「……え。一緒に帰るとか、でしょ?」
「うん。とりあえず、ね」
今までに輪をかけてにこにこ。つられて微笑む。
……とりあえず?
ま、いいか。いまのところは。
雨はやんでるし。
「行こう、須賀さん」
そこにあるのはやさしい笑顔。
May. 2006