はらり。
目の前を横切るひとひらの花びらに思わず顔をあげた。
それが視界から消えてから、その来し方に目を向ける。
背丈ほどの垣根の上からのびた古そうな一振りの枝にわさわさと咲く花が風に吹かれて、またひとつ空にながれる。
きれいだな。
などという気持ちは欠片も思い浮かばなかった。
ふとした拍子に泣いてしまいそうで、そんな姿を誰かに見られるのは、絶対嫌で。
だから電車に乗らず、人気のない道を選んで、何も考えないようにして、足下だけを見て、ひたすら歩いてきたのに。
ものすごく、はらただしい気持ちになる。
幸い、と言って良いのかどうか。
その桜のある家は長く人が住んでいない風情で、入り込んでも咎められる心配はなさそうだった。
草がのびのびと育った敷地に入りこむ。
庭の片隅に、ごつごつとした黒い幹。
桜なんて、嫌いだ。
大嫌いに、今日なった。
持て余していた腹立ちをたたきつけるつもりで、脚を上げる。
「申し訳ありませんが、蹴り倒すのは止めていただけませんか?」
背後からの唐突な声におどろき、中途半端な体勢が災いして、しりもちをつく。
「大丈夫ですか?」
やわらかな声音は、すこし笑いが混じっている気がした。
馬鹿にしてる。誰のせいだと思って。
声と同じくやわらかな雰囲気の青年が差し出してくれた手を払いのける。
「蹴り倒したり、しない」
できない、が正しいけれど。
反論すると青年は困ったような笑みを浮かべる。
「古い樹なので、あなたの一蹴りが致命傷になりかねないんですよ」
たたかれる。
払いのけた手が顔に近づいてきて、反射的に目を閉じた。
「なにか、困ったことでもありましたか?」
ほっそりとした指が目の縁をなぞるように撫でた。
そっと目を開けると、青年がしずかに微笑んでいた。
いたわるようなその表情が不思議ですこし首を傾げる。
「気づいてないんですか? 泣いてますけど」
「え?」
またたきしたら、涙が頬を伝った。
……いつのまに。
自覚したら、次々涙があふれる。
「座ってください」
そっと手を引いた青年は、古そうな縁台に薄藍色のハンカチを敷いてくれる。
声を出したら、本格的に泣いてしまいそうで、お礼のかわりに小さく頭を下げて座る。
ばかみたい。
知らない人に、泣いてるとこ見られて。かっこわるい。
こんなことで、泣きたくなんかなかったのに。
――――
けっこう長い時間、泣いていた。
その間、青年はただ黙ってそこに居てくれた。
「……あの、ごめんなさい。いろいろ」
勝手に家に入りこんだことも、桜を蹴ろうとしたことも、突然泣き出したことも。
「いいえ。こちらこそ、驚かせてすみませんでした。こんな廃墟に誰かいるなんて思いませんよね」
理由も聞かずに、何もなかったみたいに笑ってくれる表情がやさしくて、どうして良いかわからずうつむく。
「落ち着くまでここにいると良いですよ。……話したほうが楽になるなら、ぼくでよければ聞きます」
人一人分くらい空けて、青年は隣に座る。
やさしいな。すごく、こっちの気持ちを汲んでくれてる。
あまえても、良いのかな。
「つまんないことなんだよ。ほんとに、くだらない」
横に居る青年を見て小さく笑ってみせる。
「無理して笑わなくても良いですよ。それに、つまらないことなんてないです」
いたわるような声が心地良い。
「ふられちゃったの。すごく好きで、去年、私から告白して、OKもらって、うれしかった。ふつうにうまくいってたと思う。たまにはケンカしたりもしたけど」
それでもすぐ仲直りはしたし、だからまだずっと続くと思ってた。
「むこうがね、ちょっと遠くの大学行くことになって、でも遠恋でも大丈夫だよねって、あっちから言ってきたし、さみしいけど、でもそうやって言ってくれたことがうれしかったのに」
昨日の夜、会おうってメールが入った。
引越し前、最後に会おうってことだと思って、あわてて支度して出かけていった。
「やっぱりムリだから、別れようだって。初めから諦めるなんて、……駄目になるまでは続けようって言ったのに」
めんどくさいって言った。そこまでしたくないって。
「なら、はじめっからそう言えばいいのに。あんなこと言って、期待させるのって……」
ずるいっていうか、卑怯っていうか。
青年は口を挟まず、頷いてくれていた。
なんか、すごくわかってもらえた気がして、力が抜ける。
「それが桜の下だったから、つい、目に付いたここの桜に八つ当たり……ほんとに、ごめんなさい」
見上げると、夕焼け空に色素の薄い満開の桜。
きれいだな。やっぱり。嫌いにはなれない。
「見に来る人のない桜だから、よろこんでますよ、見てくれる人がいて」
青年はうれしそうに笑む。
思わずつられて微笑む。
「だったら良いな。……いろいろ迷惑かけてごめんなさい。話、聞いてくれてありがとうございました」
立ち上がり、頭を下げる。
全然つらくないといったら嘘だけど、それでももう大丈夫だ。
「気をつけて帰ってね」
やさしい声に見送られて、門を出る。
ひらり、花びらがひとつ降ってきた。
「桜魔(おうま)、何また人間を誑かしてるんだよ」
夕闇に紛れて現れた知人のあまりな言葉に桜の化身たる青年は苦笑を返す。
「失礼ですね。うちに迷い込んできた子を丁重におもてなして、おかえり頂いただけですよ」
自分の身を守るために声をかけたにすぎない。
「ま、桜は人を惑わすのが基本だからな」
人聞きの悪いことを言いながらも、目を細めて桜をたのしむ知人に文句も言えず、桜魔は本体の古木に身体を預けた。
Apr. 2012
関連→連作【神鬼】