誰かいる?
忘れ物を取りに戻った化学室に、静かな気配を感じとり、そっとドアの隙間から覗きこむ。
窓際に人影。
「
静かだけど透る声。
逆光に目を細め、影の主を探る。
声とシルエットから
「吟樹くん?」
かすかに笑ったような吐息。
「こんな所で、何してるの?」
部活動の喧騒が遠くからとどく。
ごく当たり前の風景の中、佇む姿。
「忘れ物を取りに来たんだよ。で、外を眺めてた」
空気にとけそうな柔らかい声。
すこし、得体が知れないところがある。
トップではないが、必ず成績上位者に名前があって、運動神経も割とよくて、でも物静か。
感情を高ぶらせて、怒ったり笑ったりせず、友人たちの輪の中で、いつもにこにこしているイメージ。
大っぴらに騒がれるタイプではないが、女子には割と人気がある。
そのくせ、彼女なし。
「不思議だよね、吟樹くんって」
「何が?」
傾きはじめた陽は影を伸ばし、吟樹の穏やかな表情が見えるようになる。
「なんか……そう、悟りをひらいてるみたいな感じ」
その言葉に苦笑いが返る。
「全然だよ。おれは、欲の塊だから」
「そういう反応がね。……なんか、違うよね」
おもしろいと思う。もちろん、いい意味で。
「それに、欲のカタマリって言うわりに、告白みんな断ってるじゃない」
女子の間で、その手のネタは筒抜け同然だ。
「あぁ。それは、もっと遠大な野望があるからだよ」
何を考えているかさっぱり読めない表情で謎の言葉を吐く。
「もったいない。吟樹くんって、すごく大事にしてくれそう、って評判いいのに」
「おれを彼氏にするには、かなり覚悟がいると思うけどね。だいたい、戸叶さんこそ、引く手数多でしょ」
微苦笑を浮かべながら、するりと切り返してくる。
絶対、おもしろい。
「私は、自分の時間と天秤にかけて、それより興味深い人に出会えなかっただけ」
反応を見たくて、友人から、他人に言うな、と忠告されている理由を口にする。
断るのは面倒なんだけどね、と付け加える。
吟樹は、くすくす笑いだす。
「戸叶さん、いいね。そういうの、大事だよね」
やさしい声。
よし。
「ありがと。で、今。吟樹くんに、とっても興味があるんだけど、私。とりあえず付き合えば、断るのに手間はかからないし、どうかな?」
結構ドキドキしながら、それでも平静に見せかけていう。
薄暗くなりつつある化学室で、吟樹はまじめな表情を浮かべる。
「おれはね、性質悪いよ。恋愛じゃないけど、一番を決めてしまっているから。……いつ、いなくなるかわからないし」
丁寧な口調できっぱりと告げる。
単に断るだけで済む話なのに、妙なところで生真面目だ。
「いいよ。私も束縛されるの嫌いだし。とりあえず、今は恋愛じゃなくて、興味だから」
ただ、まだ。
この言葉に、意外にも吟樹はいたずらっ子のように笑ってこちらに近づいてくる。
やさしい手があたまに触れる。
顔が近づく。
「じゃ、……契約の、しるし」
伏せられた目。
くちびるが触れた。
レンアイに変わったのは、いつだっただろう。
観察していて、わかった。一緒にいて、知った。
基本的に、他人と一線を引いていること。
適度に実力をセーブしていること。
柔和な笑みをたたえた裏で、かなり厳しいこと。他人にも、自分にも。
人には言えないようなアルバイトをしているらしいこと。
そして山ほどの隠し事。
初めの、得体の知れないとの思いは変わらないどころかより深くなった。
それなのに。
一旦許容した人間には、ものすごく甘くて、大事にしてくれるのは、ホントで。
「やっぱり性質は、わるいけどね」
小さく呟いて、ゆっくりと息をつく。
「吟くん、ごちそーさま」
店を出て、お礼をいう。
恒例のようになった、月一程度、学校帰りに二人でとる夕食。
割り勘でという申し出は完全却下され、毎度、吟樹のおごりで、高校生にしてはお金をかけた食事。
「戸叶はおごり甲斐あるよな。食べてるとき、本当にシアワセそうだし」
「子ども扱いしてるな?」
下に兄弟がいるせいか、どうも言葉の端々にそういう雰囲気がある。
指を差して指摘すると、やはり子どもを宥めるような笑みを浮かべる。
「してないって。……」
言った吟樹から笑みが消え、目線がふわりと遠くへ動く。
その視線の先には、髪の長い華奢な少女。
「
吟樹がぽつりと呟く。
「久しぶり、良にぃ」
少女の静かな笑み、声。
「元気?」
吟樹が柔らかく尋ねると少女は頷く。
「うん。じゃあ、」
こちらに少し頭を下げて立ち去った少女を、吟樹はどこか辛そうな目をして見送る。
声をかけづらい雰囲気。どうしていいかわからず、ただ小さくなっていく少女の背を見つめる。
「あれが、おれの一番。……妹みたいなものだけど」
ため息と一緒にこぼれた言葉は、痛々しく聞こえた。
顔を傾け、うつむいた吟樹の眼をのぞく。
「ねぇ。わがまま言っていい?」
言葉に嘘はないのだろう。嘘なら、もっと上手につくことも、知ったから。
「何?」
いつの間にか、いつものやさしい表情に戻ってしまっている。
弱味、見せるのキライなんだから。ホントに。
似たもの同士なのかもしれないな、結局。
息を整える。
「いなくなるときは、教えてね。……止めたりは、しないから」
ぅわ。
頭を抱えられる。吟樹の腕の中にいる。
耳元でささやく声。
「そういうの、わがままって言わない。……好きだよ、戸叶」
「ずるい、よ。吟くんは」
先に言ってしまっては。
もう、興味だけではないのに。
解放された頭を上げると、素知らぬ微笑。
恨めしげに見つめると、こちらの考えなどお見通しといった風に、額を指で弾かれる。
いたい。
「戸叶」
静かに呼ぶ声。
なんとなく、話の内容は察しがついていた。
ここのところ、忙しそうにしているようにみえた。
こちらには、相変わらず何も見せてはくれなかったけど。
聞けなかった。
「うん」
はじめの、化学室。
あの時と同じ、陽の沈みきる前の時間。
約一年、つづいた。
「行くから。……ごめん」
染みとおる声。
「うん」
謝らなくていいのに。
はじめから、そう決めてあったことだから。
「忘れていいから。……おれは」
淡々とみせて。でも、少し、弱気?
吟樹と目線を合わせる。
「忘れないよ。この先、吟くん以外の人を、好きになったとしても」
「おれも、忘れないよ。ずっと」
かすかな笑み。
大きな手が、頬に触れる。
やさしい、やわらかな、何でも見透かすような目がまっすぐ、こちらを見る。
すごく。
「好きだよ」
大好きだった。全部。その、微笑った顔も。
顔が近づき、触れる。
「ばいばい。戸叶」
そのくちびるから、告げられた言葉。
返事はせずに、吟樹のうしろ姿を見送った。
またね、といえば良かったかもしれない。
まだ、当分好きでいる。
そして。
いつか。
Jun. 2000
【トキノカサネ】