多分、その時は疲れていたのだ。
いつもなら、例え視界の端に入ったとしても気付かないふりをして通り過ぎるのに。
しまった。と思ったときはもう遅かった。
奇妙な違和に振り返った先にいた小学校低学年程度に見える女の子としっかり、ばっちり目が合ってしまっていた。
逸らせなかった。
「おじさん、私のこと見えるんだ?」
にっこり。
無邪気なようでいて、どこか計算づくの笑顔が近づいてくる。
長い、まっすぐな黒髪。淡いピンクのワンピース。どこにでもいる、かわいらしい女の子だ。
もう、生きていないことを除けば。
「だったら、何?」
驚いた顔ひとつ見せず、人気のない路地に入っていく青年に背中越しに尋ねられる。それを追いながら少女は束の間、考える。
「たなぼたー、じゃなくて渡りに船? 飛んで火にいる夏の虫?」
気持ち的にはぴったりな言葉だけど、これから先のことを考えると、どれも不適切な表現だったかもしれない。
青年は厄介なものにつかまったと言いたげな深々とした溜息をつく。
それを無視して少女は手を合わせる。
「お願いが、あるんだけどなぁ」
出来るだけかわいらしい声を作って、青年をそっと見上げる。
目が合うと満面の笑みが返ってくる。
脈アリ? オーケー?
「おじさん、子どもは嫌いなんだ」
何それ。笑顔で言うこと?
「そぉくる? いたいけな子どもの姿だったらほだされると思ったのに」
ムカつく。期待させておいて。
大きく息を吐き、本来の姿を思い浮かべる。
「これなら、どうよ」
青年との目線がだいぶ近くなる。
高校生の姿に変わったのを見て、青年が目を瞠るのがわかる。
どうだ、まいったか。
「おじさんから見たら、まだ子どもだなぁ」
目を細めて苦笑いを浮かべられた。
「あの、さぁ。さっきから自分でおじさん、おじさんって。なに? そんな歳じゃないでしょ?」
確かに言い出したのはこっちだけれど、それはあくまでその方が気を引きやすいと思ったからであって。
「高校生から見たら、充分おじさんですよぉ? 二十代も後半になればねぇ」
イヤミったらしい言い方だなぁ、もぅ。
「全然、若いって。で、おにーさん。お願いがあるんだけどな」
割と本気で言って、再度手を合わせる。
「おじさんでも、おにいさんでも構わないけど、俺は無償労働は嫌いなの。ちなみに幽霊なんかに関わるのも嫌」
静かに、しかしきっぱりと言い切る。
うゎ。言うか、そういうこと。大人が。断るにしてももっと婉曲な表現しないか、普通。
でも、こんなことで諦めるわけにはいかない。
「子どもが嫌いで、無償労働も嫌いで、幽霊も嫌い。ワガママだな、おにーさん」
「なんとでも。……そのうち、きっと子ども好きの慈善家で幽霊大歓迎な奇特な人間が通るよ。その人に頼みな」
そんないるかどうかもわからない人間、待っている時間はない。
幽霊相手に平気な顔してる人間つかまえられただけでも奇跡だというのに。
「実はおにーさん、割と人が好いでしょ」
何の根拠もないけれど、直感。
無表情の青年に続けて言う。
「大体、返事した時点でもう手遅れだと思うんだよね。関わっちゃったんだから、腹をくくろうよ?」
青年は諦めたように、ひとつ息をつく。
勝った?
「で、お願いって?」
壁にもたれた青年は、めんどくさそうに尋ねる。
「母親に会いたいの」
「……家に行けば良いだろ」
そんな簡単なことなら、わざわざ頼まない。
「家にいないから、頼んでるんだけど」
青年は軽く眉をひそめて、目で続きを促す。
「死んでるの、もう」
「……それは事故かなんかで一緒に死んだのか、それとも先に他界していたのか、どっちだ? どちらにしろ、人間がみな幽霊になるわけじゃない。成仏してるんだろ」
感情のない声。ビルの隙間から見える空を青年は見上げる。
「どっちでもないし、幽霊になってるのは確実」
「どういう意味だ?」
不審げにこちらを見つめる。
「話すと長いんだけどさ……まず、私は交通事故で死んだのね。即死。で、気付いたときには幽霊になってた」
そして自宅に、母のそばに戻っていた。
母には自分の姿が見えていなかったけれど、ほかに行くところもなかったから。そして母の挙動がだんだんとおかしくなっていくのを何も出来ずに、ただずっと見てた。
「父親は?」
「しばらくは母のそばにいたけどね。ま、忙しい人だから」
もともと仕事人間だったし。
「そうか」
静かな声が、少しやさしく響く。
「うん。うちの母親って結構うるさい人で、私もそれに真面目に応える良い子だったんだよ」
中学生くらいまでは。
母を怒らせたくなかったし、理想の娘をするのも別に苦にならなかった。
「今でも悪い子には見えないが?」
「まぁね。……ただ、お母さんは気に入らなかったみたい。『はい』の返事しかしなかった娘が思い通りにならなくなったら、仕方ないのかもしれないけれど。……髪もこんなにしちゃったしね」
長めのショートカットの髪をつまむ。
「何で? 似合ってるけど?」
しれっと、普通に言うし。この人って……。
「女の子は、女の子らしくって人だから。ずっと、伸ばしてたし」
そういう細かないろいろが面倒になってきた。
「自分の意見の一つや二つ、通しても良いと思ったんだけどね」
根本的に変わったわけじゃない。授業をサボるわけでもなく、成績は維持して、今時ありえない門限七時だって、たいていは守ってた。
「話が逸れちゃったね。えぇと、お母さんは記憶が混乱しちゃって、私が死んだことを忘れて、私が高校生だったことも忘れて……そして従順だった小学生の私を探し始めたの」
ため息が重なる。
「それで最初、あんな格好してたのか」
「うん。はじめはもちろん生きてたんだよ。ただ、もういない私を探している時に事故に遭って」
母子続けて交通事故とか、呪われてるんじゃないだろうかと少し思った。
まぁ、周囲の状態がかけらも目に入っていない母親のあの状況じゃ、仕方ないことだったとも思う。
「それで、幽霊になってることを知っているというのは見かけたってことだな?」
「うん。……まだ、探してる。単に探してるだけなら良かったんだけど」
別に自分を見つけてくれなくても、それは仕方ないと思ってた。
「けど?」
青年の目が少し険しくなる。
「見ず知らずの子どもを連れていってる。の。私だと思って」
引っ張っていって、その子どもは事故に遭って……。
小さな舌打ち。全て言わなくても、正確に伝わったようだ。
「つまり」
「お母さんを止めて欲しいの」
これ以上、見たくなかった。
「なんで、たまたま目が合っただけの俺が願いごとを解決できるなんて思ったんだ?」
ため息まじりの静かな声。
「何でだろ。今まで、私のこと感付いたっぽい人はいたけど、気付いてくれた人はいなかったし。おにーさん見た時に、この人だって感じたんだよね」
根拠ないけど。でも、この手のことは割と当たる。昔から。
青年は小さな苦笑を漏らす。
「まったく、勘が良いというのか、運が良いというのか」
「どういう、意味?」
「人選ばっちりだってこと。俺はこういうことを仕事にしてるから」
「幽霊お助け業? 幽霊からどうやってお金取るの?」
無償労働はキライって言ってたよね。大体、報酬がなければ仕事とはいえないだろう。単なるボランティアだ。
「なに、幽霊お助け業って。違うよ。どっちかといえば悪霊退散する人」
拝み屋さん? お坊さんには見えないけど。
「私は、悪霊じゃないよ」
たぶん。
「わかってるって。悪霊だったら相手にしない」
あぁ。お母さんのことか。
視線を落とすと、上からやわらかな声が降ってくる。
「名前は?」
「……なんで?」
今更聞くかな。
「依頼人の名前くらい、知っておきたいから」
依頼人って。
「引き受けてくれるの?」
あんなにやる気なさそうだったのに。無償労働だよ?
「しょうがないからな」
言葉とは裏腹にやさしい声。
気を変えられる前に名乗る。
「有紀」
「……ゆーき、ね」
静かに微笑む。なんだか、変な感じ。
「俺は芥」
「あくた、さん?」
「そ」
かるく笑う。なんだか、ざわざわする。
「ほら」
芥は手を差し出す。
「なに?」
「お手」
犬じゃないんだけど。
「芥さん、私が幽霊だってこと、忘れてる?」
あまりにも自然に話しているから、自分自身忘れてしまいそうになっているけれど。
例え手を出したとしても、すり抜けてしまうだろう。
「ちゃんと覚えてるよ。いいから、ほら」
手が触れる。すり抜けもせず、ほんのり温度だって感じる気がする。
「……なんで?」
「何故でしょうねぇ」
いたずらっぽい笑み。
ぎゅっと手に力をこめると大きな手にそっと包まれた。
なんか。
「行こうか」
「……どこに?」
尋ねてから、気がついた。聞くまでもないことだった。
「有紀のお母さんを探しに、だよ」
芥は先に歩き出した。手はつないだままで。
ふらり。引き寄せられるように子どもが車道に踏み込む。
「『縛』」
芥は鋭い声をとばす。同時に道路から子どもを抱き寄せる。
《ワタシの、子よ……返して》
道路の真ん中に立つ女が、怒りをたたえた眼で芥を睨む。
「おかあ、さん」
こちらには気づいていない母親を呼ぶ。
「あんたの子じゃ、ないだろ」
気を失っている子どもを街路樹にもたせかけ芥は平然とその視線を受け止める。
《ワタシの、子》
「違うって言ってんだろ。……有紀。そのままでいろ」
小学生の姿に変わろうとする有紀の手を芥は握る。
「だって」
今なら、子どもの姿になれば、身代わりになれるかも知れない。あの子どもの。
「大丈夫。今は動けないようにしてあるから。誰のことも引っ張れない。……それとも一緒にいきたいのか?」
「……」
「有紀自身を見つけてくれない母親に、それでも付き合う気はあるのか?」
やさしい声音。どこか冷たい。
「……わかんない」
「俺は、有紀を生贄みたいにあそこへ放り込むことも、そんな事せずに母親を止めることも、どっちも出来る。……結果が同じならどちらでも俺としては問題ないんだ。依頼主は有紀だ。自分で決めろ」
突き放すような声。でも、待ってるから。そう聞こえた気がした。
「…………わかんない」
無感情な芥の目が有紀を見る。
「ねぇ、冷たいのかな。やっぱり。……キライじゃないの。全部許せないわけじゃなかったの。でも、……お母さんが欲しいのは私じゃなくても良くって。言うことを良く聞く、従順な子どもであれば。……なら、イヤだなって思うのは。私じゃなきゃ、ダメなら良かったのに」
「……うん」
「ごめんね、おかあさん」
一緒には行けない。とぽつりとつぶやくのを聞いて芥が有紀の頭を抱き寄せた。
ライターに火がともるのが視界の隅に映る。
「『浄』」
声と同時に風が啼く。悲鳴のように。
芥の腕から有紀が抜け出したときにはそこにはもう何もなかった。
「ごめんな」
ライターをポケットにつっこみながら小さな謝罪。
「……なに、が?」
「いろいろ……全部」
「……? 芥さんには感謝してるよ? ありがとう」
芥は目を細めて有紀の頭をなでた。
小さなころ、お母さんが褒めてくれた時みたいだった。
「あれで、良かったのかな」
「想いは変質するんだよ。一つのことに囚われすぎて、見境つかなくなってた。それ以外が一切なくなってた。……だからあれは有紀のお母さんであって異なるものだよ。有紀を見つけられなかったのもそのせい」
独り言めいた呟きに芥はまじめな顔で少々ずれた応えを返す。もともと答えの出る問題でもないのだけれど。
「……ねぇ、芥さん」
見あげるとそこにはやわらかな眼差し。
「なに?」
「芥さんはさぁ……私が芥さんのこと好きっていったら困るかな?」
こんな言い方しかできないのってイヤなんだけど。どうにもならないことだってわかっているから。
「いや? うれしいよ」
微笑。言われ慣れてる?
「あのさ、おねがいもう一個追加しても良い?」
「なに?」
「成仏の仕方わからない、から。だから」
やさしい顔してくれているけれど、ずっと一緒にいられるわけじゃないってちゃんとわかってる。
最後まで言わなくても、わかってるよという風にあたまに手が置かれる。
「うん。いいよ」
ふと、唐突に風を感じる。
「……ホントは、ちょっと怖い」
「うん」
「なんで、幽霊になっちゃったんだろうって思ってた。お母さんが小さい私を探してるのだって見たくなかったし……事故に遭うところも見たくなかった。見ず知らずの子どもを引っ張るのも見たくなかった。気づいて欲しかったし……幽霊なんかにならずにすっぱり消えていたかったんだよ」
「うん」
当たり前のように肯定する声。なきたくなる。
「でもさ。芥さんに出会えたから帳消しで良いや。芥さんのやさしい手が、大好きだよ。……ばいばい」
「有紀の強がってて、元気でいじっぱりでまっすぐで。そういうところすごくかわいいと思ってたよ」
やさしく抱き寄せられる。
ありがと。芥さん。
声は空気にとけた。
冷たい風。
そこにあったはずの手ごたえはなくなった。ただ感触だけが手に残る。
「優しい手、だったら良かったのになぁ?」
そんなものじゃないことは自分が一番良く知っている。そうであれればどんなに良かっただろう。
「おやすみ。やすらかに」
言葉が何の意味を持たないことがわかっていても。ねがう。
Dec. 2005
【トキノカサネ】