勿忘草(わすれなぐさ)



 予感。
 予兆。


「何してるんだ、流希(りゅうき)
 聞くまでもない気がしつつ、(りょう)は一応そう声をかける。
 窓枠に足をかけていた流希は平然とふり返る。
「空気の入れ替え」
 淡々と紡がれる、適当な回答にため息をつく。
「空気の入れ替えで、何で体が半分外に出る必要があるかな」
 少し目を離すと、すぐに抜け出そうとしている。
 縛り付けるつもりはないが、それでももう少し立場というものを考えて欲しい。
「良にぃは出かけるの?」
「だったら何」
 これに続く言葉も、見当はつく。
「私も、外行きたい」
「却下」
 お互い答えがわかっていてやっているあたり、根競べと化している。
 流希を窓から抱きおろす。
「ずるい、良にぃだけ」
「流希とおれは、違うだろ」
「どこが?」
 わかっていないはずがない。それでも、流希にとって受け入れがたいことだということも承知はしている。
「とりあえず、今日は大人しくしてなさい」
 わざと、子どもに言い聞かせるような口調を使い、良は続ける。
「おみやげ、持ってきてあげるから」
 その言葉に流希は肩を落とす。
「良にぃ、小さい子じゃないんだから」
「そう?」
 かわらない。ずっと。
「大丈夫。大人しくしてる」
 観念したように返す流希を、良はかるく小突く。
「じゃ、行ってくるから。みやげ、期待してな?」
「……何か、企んでる?」
 それを否定せずに、良はただ微笑んだ。


「また寝てるし」
 こちら側に来ている時のほとんどを寝て過ごしているのではないかと疑いたくなる。
 むこうでの生活が忙しいためだとはわかっているが。
「起きろ」
 だらりとリビングのソファに倒れこんでいる藍方(あいかた)を足で揺り起こす。
「んんー。あと、一時間四十七分待って……」
「何でそんな中途半端な……おい」
 根拠不明な時間を呟いたあと、再び寝息をたて始めた藍方を揺する。
 一時間四十七分後、目を覚ますかといったら、絶対ない。
 まったく。
「せっかく、心の準備をする時間をやろうと、早めに来てやったのにいい態度だ」
 独り言にしては大きめの声に藍方は軽く身動ぎするが、すぐに平和そうな寝顔に戻る。
 もう一押しか?
「まぁ、寝ててもらった方が、持ち運びは楽だけどな」
 いつまでも起きるのを待っていても時間の無駄だ。
 食材の入った袋を持ってキッチンに向かう。
「……もちはこぶって、なに?」
 背後から嫌そうな声。
 半分寝ぼけたようなそれに、良はふり返る。
「流希にみやげを持って帰る約束したんだよな」
 淡い色の眼が見開き、おそるおそる口を開く。
「確認したいんだけど」
「確認するまでもないと思うんだが、みやげはおまえ自身」
「じょーだんっ」
 効果覿面。
 叫ぶように吐き出して、藍方はがばりと起き上がる。
「いや、本気。おまえ、ほっとくといつまで経っても踏ん切りつけられなさそうだし」
「だからって、なにも今日の今日じゃなくても」
 ぼそぼそと呟かれる文句を聞き流し、良は冷蔵庫に食材を詰め込む。
「良ー」
「おれは、一旦決めたことは覆さない」
 情けない声に、良はわざと厳かに宣言する。
 今日、はじめて言い出したことならともかく、前々から会うように言っていたのだ。
 それを今まで逃げていたのが悪い
「どんな顔して、会えって?」
 感情を消した藍方の平坦な声に、良はため息をつく。
「そんなこと、知らないな。何をそこまでこだわる必要があるんだ?」
 向かいに座り、改めて尋ねる。
 藍方は自嘲まじりの苦笑いを誤魔化すように煙草をくわえる。
「強くなるって約束したんだ、流希と。……今のままじゃ、守られかねない」
 こういう時の言葉、声、表情は、どうにも似ていて、血のつながりの深さを思う。
「藍方は自分で思うほど弱くないだろ。大体、目指す自分になんて、一生なれないんだから」
 所在なさげに煙草を吸う藍方に、良は静かに言い切る。
 半ば、自分にも言い聞かせるように。
「知ってるよ」
 煙まじりの声。
 たどり着きたい場所はずっと高くて、近づくたびに遠くなる。
「大丈夫。会って、そこで成長が止まるわけじゃないんだろ?」
「もちろん。止めるつもりはないよ」
 煙草を灰皿に押し付け、藍方は強い瞳で良を見返した。


(そら)、出かけてるのか?」
 いつも律儀に出迎える空の姿が見えず、良は首をかしげる。
「ちょうどいいよ。情けないとこ、見られたくないし」
 言葉の割に吹っ切れた表情で藍方は苦笑う。
 ここまで来て、ぐずつくようでは困るけれど。
「流希がいるところ、わかるか?」
「大丈夫だよ」
 わからないはずがないと言わんばかりの微笑を見せ、藍方は迷いなく階段を登っていく。
 そのうしろ姿を見送って、息をつく。
「手のかかる兄妹だね、全く」
 会ったら、どんな顔をするだろう。
 察しのいい流希のことだから、すでに藍方が来ていることに気付いているかもしれないけれど。
 十余年ぶりの再会で、囚われていたものからわずかでも解放されればいい。


  ◇  ◇  ◇

 ドアを開く。
 そっと。
 古びた本のにおいがたちこめる中、傾いた陽光が窓に反射して書庫を照らす。
 その中に、細い人影。
「……」
 出す言葉が見つからない。
 静寂の空気を壊さないように息さえ潜めながら、そっと近づく。
 長い髪。細い、肩。
「……おそい、よ」
 小さな、泣き出しそうにも聞こえる声。振り返らない。
「うん。会いたかった」
 こんな簡単なことだったのに。
 流希の顔を見ないまま、藍方はそっと背後から肩を抱きしめる。
「ごめん」
 謝る。
 苦い断片が流希から伝わる。
 普通なら、触れるだけで『過去視(かこみ)』できることなどない。
 それだけ、流希は特別だ。
 意識せずとも、引きずられる。
 近すぎて、同化する。
「ごめん」
 もう一度、重ねる。
 その場所に、いられなかった自分。
「なんで? あやまるのは、私だよ」
 謝罪の意味など、わかっているはずなのに。
「ごめんね、(にん)ちゃん」
 小さい頃のままの呼び方。
 気持ちが、痛い。
「もういいよ。……やめよう。これからは、ちゃんと会えるから」
 藍方の言葉に、流希は小さな頷きを返した。



 守るための第一歩。
 一緒に、行くための。

【終】




Sep. 2001
【トキノカサネ】