tear of water



「いないのかぁ?」
 受話器に返ってくるのは呼び出し音に岑羅(しんら)はぼやく。
 出る気がないなら留守電にしていると思うのだが、そろそろコールは三十を越している。
「……しつこい」
 一旦切ろうかと思った瞬間、耳元に不機嫌な子どもの声。
「おひさー」
「おれは仕事明けだ」
 こちらのペースに付き合う気のない冷淡な口調。
 が、あえて知らぬフリで明るく話を進める。
「それは何より。次の仕事の依頼だよー。商売繁盛。うらやましい限りだねぇ」
「自分のトコでさばけない仕事、引き受けるな」
 冷ややかというより無感情な口調は変声期前の可愛らしい声に非常に不釣合いだ。
「話くらい聞いてくれよ。俺とラキの仲じゃないか」
 耳元に深々とした諦めのため息が届く。
「三十分で良いから、眠らせてくれ」
 こちらの返事を待たずに、遠くで受話器を置く音が聞こえた。


「で、なんだって?」
 きっちり三十分後、律儀に電話をかけ直してきたラキは、しかし目が覚めきっていない風な気だるげな声で尋ねる。
「『涙するマリア像』の調査をして欲しいなーとね」
「泣かせておいてやれよ。マリアだって泣きたい時くらいあるだろーよ」
 発言がちょっとずれている。寝ぼけてるのか?
「そういう問題、か?」
 恐る恐る尋ねる。
 本当に寝ぼけているのなら、もう一時間ほどおいて電話をかけなおした方が良い。
 が、思いに反して至極真っ当な言葉が届く。
「っていうかさぁ。そんなの、おれが出るほどの仕事じゃないだろ。ありがちな話だし。自分のとこの従業員にやらせろよ」
 確かに、それほど手間のかかる仕事にはならないだろう。
 返事をせずにいると、何度目かのため息が届く。
「ま、いいけど。それほど切羽詰ってないだろ」
「二、三日は休暇とってもらって問題ない」
 人命が関わっているわけでもない、単なる調査にすぎない。
「ん。わかった。資料送っておいて。そっちもいろいろ手続きあるだろ」
「じゃ、三日後。事務所に一旦来てくれるか」
 ラキの了解の声を聞いて岑羅は通話を終了した。


「割増料金とるからね」
 腰に手をあて、仁王立ちしたセーラー服の少女は口をへの字にまげる。
「おう、似合う似合う」
 少女の前に「美」をつけても良いくらいだ。
「アタリマエ。……じゃなくて、なんで女子校潜入なわけ? おまけにトーアの学校の中等部ならトーアにやらせればいいのに」
「それはダメ」
 即答した岑羅をラキは冷ややかな目で見る。
「サイテー、な。おまえ」
「わかってるよ」
 簡単に内心を察したラキに、岑羅は静かに笑う。
「処置ナシだね」
「自覚してますよー」
流希(りゅうき)の代わりにしようとしてる?」
 ど真ん中を突いてくる。
「違うな。流希に出来なかったことを、トーアにしようとしてる」
 疑問符もつけずに、まるで託宣のように妙に厳かに。
「なにか、問題でも?」
 ここまでバレバレなら、開き直るしかないだろう。
 ラキは一つため息をついて話題を変える。
「依頼人は誰?」
 基本的にこういう事を聞くのはルール違反だ。そのことをわかっていながら聞いている辺り、ある程度予想がついているのだろう。
「『知りたがり』だよ」
 ラキも知る、お得意様の通り名を上げる。
「あの、物好きな暇人め。……じゃ、いってきます」
 ラキはため息一つついて、事務所を出た。


※  ※  ※

 玄関ホールのマリア像前に立つ一人の少女。
「ホームルーム、始まっているよ」
 背後から声をかけると、少女はふりむき、笑みを浮かべる。
 見慣れない顔。
 全校生徒の顔を覚えているわけではないが、これだけ造作の整った顔立ちなら印象に残っているはずだ。
「すみません。職員室はどちらでしょうか」
 転入生が来るという連絡は確かにあった。
 たぶん、その転入生なのだろうが、職員室の場所がわからず、ここで人が通るのを待っていたのだろうか。気が長いというか、機転がきかないというか。
「転入生?」
 一応確認すると少女は頷く。
「はい。池知(いけち)です」
「キミの入るクラスの副担任の若王子(なこじ)です。私も職員室に戻るところだから、一緒に行こう」
「よろしくお願いします」
 少女は丁寧に頭を下げた。

※  ※  ※


 第一印象。
 おしとやか、というよりは覇気がないと言ったほうが近いだろうか。
 普通、転入生なんていう目新しいものが来たら、もう少しざわつくものだと思うのだが、教室内はしんと静まったままだ。
 仮に、表面に見せないようにしていたとしても、感情の揺らぎがあれば気付く。しかし、そんな素振りもなく、完全に凪いでしまっている。
 いくらお嬢さま学校だとはいっても、この年頃の女の子がこんなんで良いのか? と少々心配になる。
「池知です。よろしくお願いします」
 でたらめな偽名でラキは転入の挨拶をすると、担任教師に示された席に着く。
 一限目は、そのまま担任受け持ちの教科らしい。静かに授業が始まる。
「すみません。教科書、見せていただけますか?」
 隣の席の少女にそっと声をかけると、小さく頷き机を近づけてくれる。
「ありがとうございます」
 教師が読んでいる部分を指でなぞって教えてくれる少女にラキは微笑んでお礼をいう。
 特に無関心ということもなく、普通によく気のつく子だ。
 覇気がなく見えるのは、やはりお嬢さま学校所以の奥ゆかしさかもしれない、ということにしてラキはとりあえず授業に身を入れる。
 ふと前を向くと、黒板の上に小さなマリア像があるのが見えた。


※  ※  ※

「池知さん?」
「若王子先生」
 裏庭のマリア像の前に佇んだ転入生は、ふり返る。
「何をしてるんだい、こんな時間まで」
 下校時刻間際の今、ほとんどの生徒は下校している。
「校内の探索をしていたんですが、すみません。もう、下校時刻なんですね」
 空を見上げて、ふわりと笑う。つかみどころのない子だ。
「早く、帰りなさい。帰り道は、わかるね?」
 職員室までたどり着けなかったのに、家まで帰れるのだろうかと、若王子は少々心配になりつけたす。
 少女はくすりと笑う。
「大丈夫です。ありがとうございます」
 校門に向かううしろ姿を一抹の不安を抱きながら見送った。

※  ※  ※


「っていうかねぇ。どのマリアなの? あちこちにありすぎ」
 玄関ホール、講堂、校庭、裏庭に、ある程度の大きさのもの。各教室には小振りのマリア像。
 構内を廻り、粗方のものをチェックしたが、どれもこれも不審なところはない。
 そして今いる、立ち入り禁止の屋上にあるマリア像も同様だ。
 二日目にして既に手詰まり状態。
 第一、それらしい噂話一つ聞こえてこないのもおかしい。
 クラスメイトにそれとなく話を向けても全くの無反応。
 涙するマリア像、なんてネタ自体がガセだったというほうがしっくりきそうな状況だ。
 ため息をつき、下校していくまばらな人影を眺める。
「大体、転入してくる必要なかったんじゃないのか?」
 人のいない夜に忍び込んで調査した方が、能率が良い。絶対。
 マリア像の台座にもたれて、深々とため息をつく。
 夕闇の中、足早に下校する人影をマリア像は慈愛に満ちた眼差しで見守る。
「ワタシにもご加護を頂けませんかねぇ」
 心のこもらない口調で願うと、ラキはマリア像を見つめた。


「さ、て」
 周囲が闇に包まれ、人気のなくなったことを確認してラキは立ち上がる。
 目を伏せ、感覚を鋭敏にし、わずかな綻びを探る。
 そして、辿る。
――
 聖堂、と言えるほど立派な建物ではない。
 些細な違和感を追ってたどり着いたのは、裏庭の端にある手入れのあまりされていない木立。
 その中に、忘れ去られたように建つ小屋のドアを開く。
 木造の古びた扉は、抵抗なくするりと開く。
 正面にはマリア像。
 古ぼけてはいるが、立派な代物だ。
 そっと、その像に触れると景色がたわむ。一瞬。
「大当たり、みたいだね」
 そのまま見つめていると、マリア像の目元がしっとりと濡れてくるのがわかる。
「何に泣くんですか? マリア様」
 意識的におのれを無防備にする。
 相手を掴むために。そのエサとなるために。
 たゆる。
 水のイメージ。ひたひたと周囲を包む。波に、引きずり込まれるように。
 そのまま身を任せていたい程にやわらかな感触。
 目を閉じる。
 より的確に掴む為に、無防備にさらしながら、神経を研ぎ澄ます。


「ぉいっ」
 唐突に肩を掴まれ、場が崩れる。
「……若王子先生」
 あと、もう少しで掴めたのに。
 落胆の色を見せないように、夢から覚めたような演技をしてふり返る。
「何をしてる、なんてもう聞かないぞ。同調しすぎることが危険なことくらい教えてもらっているだろう」
 ラキが調査員だと気付いていながら知らないふりをしていたはずの若王子は、この状況を見て、それを捨てることにしたらしい。
 ある意味人が良いというか、なんというか。
「そんなへまはしませんよ」
 ラキはマリア像から離れて、ドアを背にした若王子と向き合う。
 薄暗い中、眉をひそめたのがわかる。
「軽く考えていると、取り返しのつかないことになるよ。この仕事は、それほど甘いものではない」
 どれだけ危なっかしく見えていたのだろう。
 こちらの素性を知らなければ仕方ないかもしれないが。
「そのままお返ししますよ。好奇心だけで、なんにでも首をつっこむのは良いことだとは思えませんが」
 半分くらい猫をぬいでみせて、ラキは首を傾げた。
 

※  ※  ※

「ねぇ、『知りたがり』の若王子先生」
 マリア像を背にして、やわらかにも見える深い笑み。
 とても中学生には見えない。
「キミは、誰だ?」
 ただの依頼先の従業員だと思っていた。ずいぶんな素人を寄越したものだと落胆もしていた。
 が、素性を隠していたこちらの正体に感づいている辺りからも、そうではないことがわかる。
「気付いてみえなかったんですね。私はラキと申します」
 さらりと名乗り、何度か仕事を頂いたこともあるんですよ。などと続ける。
 こんな子どもに依頼などしたことはないと口を開きかけて、告げられた名に思い当たる。
「ラキ、だぁ?」
 顔は合わせたことはないが、確かにいくつかの調査を頼んだことがある。
 年齢性別不詳。仕事はきっちり。その筋では評判の良い何でも屋。
「女だったのか」
「……着目するのはそこですか?」
 呆れたように軽く肩をすくめると少女はマリア像に再び近づく。
 目尻にたまった水滴を、指でそっと拭ってやっている。
「穏便に済まそうと思っていたんですけどね。恨むなら若王子先生を恨んでくださいね」
 何故そうなる、と苦言を発しようとして、止める。
 少女は無造作にマリア像の中からなにかを引っ張り出す。
 半透明のマリア像の形をしたモノはゆるりと形状を曖昧なものに変えていく。
「ゴメンね。キミの餌場を侵食して」
 やさしい声。
「キミが、いたずらに奪っていたわけじゃないことはわかっているんだよ」
 口をはさむことすら出来ない空間。
「だから、とりあえずこれで我慢して?」
 少女の背に遮られ、何が起こったかわからなかった。
 ただ、半透明の物体がうっすらと赤く染まっていくのが見えた。

※  ※  ※


 生きる為に食するということは、当たり前のことで、それによって犠牲があることも当然だ。
 でも、生きる糧に必要でないものを殺すということは。
 忍ばせていた細い刃を握りこむ。
 滴る、液体。
 しばらくの、次の餌場に定着するまでの養分にはなるだろう。
 それを掴んだままのマリア像の中身にたらす。
 緩やかに、それが伝わり淡い赤に染まる。
「つぎは、もう少し目立たないところで」
 囁いて、それをとばした。


※  ※  ※

「何をしてるんだ」
 半透明の物体を消滅させた少女に近づき、怒鳴りつける。
 無感動に少女はこちらを見る。
 先ほど聞いたやさしい声の持ち主だとは思えない醒めた目。
「何がです?」
 握っていた刃を無造作にポケットにしまいこみ、ため息をこぼす。
「血を流す必要がどこにあった。あの程度の小物、消滅させることなど難しいことではないだろう」
 『ラキ』であるなら。
 一瞬、鋭い目がこちらをさす。が、すぐに無表情に戻る。
「この程度の傷はすぐにふさがります。……報告はどうします? 書面がよければ明日まで待っていただかなければいけませんが、口頭でよければ、すぐ出来ますよ」
 傷口をハンカチで押さえながら少女は事務的に言う。
「口頭で構わない。このあと時間は大丈夫なのかな?」
 構わない、どころかその方がありがたい。
 この得体の知れない子どものことを、もう少し知りたい。
「問題ありません。では、場所を移しましょうか」
 表情を変えないまま、少女はマリア像を最後に一瞥して小屋をあとにした。


「着替えてくるので、少し待っていて下さい」
 テキパキとお茶の準備をしてテーブルの上に置くと、少女は別室に入っていく。
 通されたマンションの一室は最低限の家具は揃っているが、生活臭はない。普段からここに住んでいるというわけではなく、今回の調査に限っての仮宿りだろう。
 出されたお茶に手をのばし、のどを潤す。
 しかし、少々問題があったかもしれない。
 転入時の書類では兄と二人暮らしとなっていたが、当然それはウソのはずで、つまり一人暮らしの女子生徒の家に入り込んでいることになる。
 当人は気にも留めず着替えてくるなどと平気で言っているが、いろいろとどうかと思う。
「すみません。お待たせしました」
 Tシャツにジーンズというラフな格好で、髪を無造作にくくって戻ってきた少女は制服のときとずいぶん雰囲気がかわった。
「……い、や」
 圧倒させられる。そこに座るのは子どもに過ぎないのに。
「さて。概要はわかってみえますか?」
「マリア像の中にいたものが、涙を流していたということか?」
「涙、というか食べ滓ですね。アレは人の感情を食するものです。食べ過ぎで溢れたものが涙という形で顕れた」
 冷めかけたお茶を飲み干し、少女は続ける。
「気付きませんでしたか? 生徒の感情が徐々に希薄になっていることに」
 別段責めるでもなく、淡々とした声。
 この少女の方が、よほど感情の起伏がない気がする。
「それは気がついていたよ。全体的に元気がないな、とは思っていた」
 だからといって、即対処しなければならないほどの危うさはなかった。元来、物静かな生徒が多いし、テストも近いせいもあるだろうと。
「喰われたんでしょうね。どうやっておびき寄せていたかは今となってはわかりませんが……若王子先生はマリア像が泣くなんてどこで知ったんです?」
「アレは、べつに若い女の子に限ってなかったみたいだよ?」
 どこか懐かしい音が聞こえた。
 微かな、しかし決して風音に阻まれることがなかった。その音の元を探して、あのマリア像に行き着いた。
 近づくのはあまりよくなさそうだと察して、早々に立ち去り、依頼をかけた。
 それを話すと少女は苦笑いを浮かべる。
「雑食にも程がある」
「さすがに分をわきまえて触れはしなかったから、その後のことはキミの方が良く知ってると思うけど?」
「イヤミだなぁ。分をわきまえた人間は、あの状態のところに割り込まないと思うけどねぇ」
 いつの間にか言葉遣いがくだけている。
 無表情より断然良いが、つかみどころがないことに変わりはない。
「ところで、感情を喰われてしまった子たちは、あのままで問題ないのか?」
「徐々に取り戻すはずです。完全に欠落してしまったわけじゃないですから。ほかにご質問は?」
 取り立てて思いつかないが、このまま帰る気にもならない。
「……とりあえず、お茶をもう一杯いただけるかな?」
 苦し紛れの言葉に、少女は何も言わず立ち上がった。

※  ※  ※


「遅くまでお疲れ。こっちは終わったよ」
 軽いノックの音に続いてかけられた声にふり返る。
「そっちこそ、おつかれ」
 仕事を中断し、岑羅は冷蔵庫から水のペットボトルを取りだし放る。
「若王子に報告も済んでる。これ、報告書」
 渡された書類にざっと目を通す。完璧。
「相変わらず仕事早いねぇ」
「さっさと片付けて、休みを取りたいだけだよ」
 ラキは水をあおる。
「で、問題なし?」
「一応ね。喰われちゃった分に関しては、後日様子を見ながらケアするつもり」
 契約外であっても、こういうところをきちんとしているのが、優しいというか、甘いというか。
「言いたいことがあるならはっきり言えば?」
 見透かしたように苦笑いする。自覚はあるらしい。
「何にもないですよー。じゃ、報酬はいつものように」
「さっさと一括で払ってね。……とりあえず、帰って寝るよ」
 ラキは大きな欠伸をして、立ち上がった。


 うっすらと夜が明けはじめた学校。
 もう涙を流すことのなくなったマリア像。
「ごめんね」
 自己満足の謝罪を口にする。
 マリア像は相変わらず微笑んだまま。
「ばいばい」

【終】




Sep. 2004
【トキノカサネ】