sea beckons



「波打ち際で足を引かれると訴える人が続いているようです。大きな事故にはなっていないし、気のせいの可能性もありますが、一度調査してください」
 気弱そうな男が【うしお海水浴場協同組合 石川卓】と書かれた名刺を差し出す。
「この時季に海に入る人が?」
 九月半ばを過ぎて海水浴客がいるとも思えない。
「ボードとかをやりに来る人はいますね」
「なるほど。それでは現象はいつくらいから」
「はっきりとは。海水浴シーズンは人も多いですし、人ごみで足を取られたと感じる方もいらっしゃったでしょうし」
 視線を落として石川はぼそぼそと答える。
 シーズン中から訴えはあったけれど、黙殺していたのだろう。
 書き入れ時に妙な噂が流れてしまったら商売あがったりだろうし。
 大きな事故になっていないなら尚更だ。
 第一、普通に考えればただの偶然、気のせい、で済ませる話だ。
 怪現象だろうとわざわざ調査を依頼しに来る方が珍しい。安くはない依頼料もかかるのだ。
「うちに依頼に来るような訴えや事故があったんですか?」
 その辺を踏まえて尋ねると石川はゆるりと首を振る。
「いえ。ただ、海水浴シーズンも終わったので、一度調べていただいた方が良いのではと言う声が組合で上がったので」
 どちらかといえば気のせいということをはっきりさせたい、といった感じか。
「石川さんや、他の組合の方で足を引かれた方は?」
「いえ。おりません」
 顔を上げてきっぱりと石川は言い切る。
 その後、いくつかを確認して、とりあえず依頼は引き受けた。


 正直、ありがちな、そして大したことのない案件だ。
 最終的な処置は自分がするにしても、調査は諷永と透亜に任せても良いかもしれない。
 それでも一応事前に現地を見ておこうと、来てみて大きくため息がこぼれた。
「これは、ダメだ」
 天気は良く、寄せては返す波の音がゆったりと続く。
 砂浜を散歩する人もいれば、砂遊びをする子供もいる。遠くでウエイクボードをやっているらしき姿も見える。
 普通に見れば、穏やかな風景。
 ただ、『見える』身としては、陽光にキラキラと光る波ににじむ黒い靄に不穏しか感じない。
「とりあえず、すぐにってことはなさそうか」
 持ってきたいくつかの札をライターの火にかざし吐息をかける。
「『施』」
 見えない粒光が砂浜に広がったのを確認して、その場を後にした。


 いくつか確認のための聞き込みと調べごとを終えて海岸に戻った時にはすでに夕暮れだった。
 さすがに沖に出ている人はいないが、砂浜には犬連れの親子や、ランニングする人などがぽつぽつと通り過ぎていく。
 砂浜のコンクリートの階段に座り、空の色が変わっていく様子を眺める。
 陽が完全に落ち、わずかに明るさを残した紺色の空と海も完全に黒く染まった頃、波間から黒い靄が這い出してきたのを確認し立ち上がる。
 靄がゆっくりと人の形を取る。小さな、子どものかたち。
 驚かせないよう、なるべく静かにそれに近づく。
「ママ!?」
 足音に気が付いたのか、子どもは嬉しそうに振り返り、こちらを見てあからさまにがっかりする。
 四、五歳の痩せた男の子。
 日中はまだ暑い日もあるが、夜になれば少々冷えるこの季節に半袖半ズボン姿が寒々しく見える。
 本人は気にしていないだろうけれど。
「ママじゃなくてごめんね。ママを待ってるの?」
 子どもの前にしゃがみ、できるだけやわらかな声音で尋ねる。
「ママ、むかえに来るって言った」
「そっか。えらいね。ちゃんと待ってて」
 できるだけ穏便に済ませたい。幼い子どもに余計な負担をかけたくない。
 子どもはゆるゆると頭を振る。
「ママ、おともだちと遊んで待っててって。でもだれも、遊んでくれない。えらくない」
「じゃ、俺と遊ぼうか」
 うつむいた子どもの顔が、期待に満ちた目でこちらを見つめる。
「うん! 海、はいる? いつもおともだち誘うけど、だれも一緒に来てくれないの」
「海はつめたいから、砂遊びしようか。山を作ってトンネルを掘ろう」
 子どもは一瞬がっかりした顔をするが、すぐに砂を集めだす。
 片手でそれを手伝いながら、後ろ手でライターを灯し幻像の術札を燃やす。
「カイト」
 浮かび上がった女性の虚像に子どもはうれし気に飛びつく。
「ママ!」
 灯火で浮かび上がった虚像と、子どもだった黒い靄は、溶けて混ざってそして消えた。


 幼い子どもが海の事故で亡くなった。
 置き去られた子どもだった
「後味悪くて、嫌になるねぇ」
 母親の言いつけを守って、遊んでもらおうと悪気なく波間から手を伸ばし、通り行く人の足を引く。それが大きな事故を引き起こさなかったのは幸いだったけれど。
 苦しかっただろうに、残っていたのは、ただ母親に会いたいという思いだけだった。
「これはただの憂さ晴らし」
 砂の山に火をつけると白い煙がふわりと浮き上がり、とおく流れていく。
 あの子どもは決してこんなことを望まないだろうけれど。
 亡くした後でさえ会いに来なかったあの母親に。
 波に残る子どもの記憶を届ける。
「後悔できると良いねぇ」
 夢に見て、少しでも思い知ると良い。
 そして、二度と。
「ごめんね。助けられなくて」
 満ちてきた波が足を濡らす。
 もう、足を引くものはいない。

【終】




Sep. 2021
【トキノカサネ】