satisfy one's desire



 散り始めた桜の下、立っているのは一人の女。
 顔の造作は何一つ判らない。
 ただ、微笑みを湛えていることだけはわかる。
 まるで、知っているかのように。


「夢か」
 帰ってきた従業員の「ただいま」の声に起こされた岑羅(しんら)は欠伸まじりに呟く。
「おかえり、とか言えないのか?」
 呆れたように文句をいうと、諷永(ふうえい)はもどってきた足そのまま給湯室にむかう。
「俺、コーヒー」
「仕事サボって寝てたやつが厚かましい」
「俺、一応雇用主なのに」
 ワザとらしくへこんだ声を出され、諷永は苦笑いする。
「ウっザイわ。ほら、入れてきてやったぞ」
 カップをテーブルにおいて諷永は正面に座る。
「諷永、やさしー」
「茶坊主、おれだしな。……ところで、なんの夢見てたんだ?」
 コーヒーを飲みながら諷永はなんとなく気になって尋ねる。
「んー。最近、同じような夢ばっかり見ててさ、眠りが浅いのかねぇ」
「全然、答えになってないんだけど。言いたくないならそう言えば?」
 はぐらかすような岑羅の言葉に、諷永は怒るでもなく応じる。
 岑羅はコーヒーをすすり、少し考えるように間を空ける。
「そういうわけじゃなくて、漠然としたイメージしか残ってないから説明しづらいんだよ」
「ふーん? でも、何回もみるなんて意味深。正夢とか?」
 諷永の言葉に岑羅は苦笑いする。
「まさか。俺に未来視能力はないよ」
 主に夢により未来を見透かすという力は相当『感覚』が強くなければならず、強かったからといって必ずしも顕現する力ではない。
 そこまでの『感覚』能力をもたない岑羅としてはありえないと断言できる。
「未来視なんて、ないならない方がいいし」
 ひとり言に近いような諷永の言葉を、岑羅は静かに受け流した。
「かもな」


「また寝てる」
「……起きたよ」
 諷永の溜息まじりの声に、岑羅は机から頭を起こし苦く応える。
「また、あの夢?」
 買い込んできた備品を片付けながら、諷永は確認に近い問いを放つ。
「まぁね」
 ここ三日ばかり、居眠りしている姿を毎日目撃されている岑羅は疲れたように返事をする。
 その岑羅の顔をまじまじと見た諷永は眉をひそめる。
「顔色悪いぞ。急ぎの仕事がないんだったら、帰って寝れば?」
「俺もトシかねぇ。寝不足が顔に出るようじゃ」
 しみじみと岑羅はぼやく。
「冗談じゃなくて、ほんとに」
 近くで見ると、より顔色が悪いことが良くわかり、諷永はまじめに言う。
 その顔を見てごまかせないことを悟ると、岑羅は深々と溜息をつく。
「じゃ、あと適当にして帰ってくれればいいから」
「わかった。寄り道せずにまっすぐ帰れよ」
 小学生に対するような注意をかけられ、岑羅は脱力する。
「了解」
 その言いつけを守り、岑羅はまっすぐに家に向かった。


「桜、」
 窓にもたれ、ベランダから街並みを見るともなしに眺める。
 布団に入ったところで、どうせまともに眠れない。だからといって、頭を使うなにかをする気にもならず、ビール片手にぼんやりと過ごす。
「花の下にて春死なむ……亡骸」
 桜の下に死体が埋まっているといったのは誰だっただろうか。
 頭の端でとりとめのないことを考える。
「死体といえば、幽霊」
 寝不足のせいか、連想が貧困だと自覚する。
「幽霊に好かれても、なぁ」
 夢に出てきた女に、幽霊という形容が妙にはまっている気がして、岑羅は苦く呟く。
「幽霊。……思い残しか? ……少なくとも害意はないよな」
 声に出さなければ考えがまとまらないほどぼけた頭を働かせる。
 眠れないという害は被っているが、それは結果としてであって、あの女自体の害意による物ではない。
 が、このままでは身がもたないのも確かだ。
「十二時すぎ、か」
 いい加減、安眠を取り戻したい。
 岑羅は飲みかけのビールを置き、上着を掴んで家を出た。


「ここか?」
 適当に歩いていれば、そのうち引っ張られるだろうと高をくくって歩き始め、二時間弱。
 岑羅は公園の前に立ち止まる。
 すべり台とブランコと砂場。それだけの、視界に収まってしまいそうな小さな公園。そのはしに、一本だけの大きな桜。
 女がいないことをのぞけば、夢とまったく同じものだ。
 岑羅は大きく息をつき、神経を集中させると公園内に一歩踏み込む。
 すでに断片としか残っていない女の記憶に気付き、足を止める。
 目を閉じ、他の欠片を探る。
 細く吹く風の中、岑羅は目を開けると、ゆっくりと桜に近づいた。


「俺を、呼んでいたのか?」
 細い月明かりを受けた桜の下、何も語らず自分を見つめる女に、岑羅はまじめな顔で尋ねる。
 清澄な空気に女の想いを感じ取り、岑羅はやさしく微笑む。
「長い間、こんなところで?」
 岑羅の声に女も微笑む。
 その女の細い肩を、壊さないようにそっと抱きしめる。
「もう、良いから。ありがとう。……いきな」
 欲しかったはずの言葉を岑羅が女の耳元にささやくと、するりと溶けるように女の姿がなくなる。
 腕からのなかにいた女が消えたことを確認して、岑羅は満開の桜を仰ぎ見る。
 今更再会できるはずもない、好きだった男を何十年も、ひたすら待ち続けた女。
 たまたま似ていただけの岑羅が還したことは、欺瞞でしかない。
「ま、自分の安眠を取り戻すためだしな」
 気にしても仕方ないと割り切ることにして、岑羅は女のように細い月を眺め、微笑んだ。

【終】




Jan. 2000
【トキノカサネ】