(けつ) ―盃月(さかつき)



「あ、さ?」
 カーテンの隙間から射しこむ光に流希(りゅうき)は目を細める。
 随分久しぶりに熟睡できた気がする。
 夢に苛まれることなく。
 それは自分のしたことに対する当然の報い。
 しかし、それから解放されたことに喜ぶ自分。
 苦い笑みを浮かべ、流希はベッドから降りる。
 開けたカーテンから見える陽は随分高く、もう昼近いようだ。
「……(りょう)にぃ」
 昨夜、ここにいたのは夢ではないだろう。
 建物内の空気がやわらかくなっているのも、それ以前に流希自身がきちんと眠れたことも、すべて良が来てくれたおかげだ。
 甘やかされている自覚はある。
 一人で、いかなければならないと思っているのに。
 結局弱いまま、守られることに慣れてしまいそうなことが怖い。
「甘えてるな」
 責任転嫁でしかない弱音。
 出来ることを、出来るだけするしかないことはわかっていたはずだ。
 苦笑ひとつして弱気を振り払い、時計に目をやる。
「そろそろ、かな」
 起き上がることも出来ずにいた自分を毎日見舞ってくれていた友人は、きっと今日も顔を出すだろう。
 流希はお茶の準備をすべく、キッチンにたった。


「……?」
「……」
 ドアを開け、諷永(ふうえい)(せい)と顔を見合わせる。
 昨日までとはうって変わってというほどではないにしろ、あきらかに淀みが薄れている。
「オレ、今日家に帰りたくないなぁ」
 遠くを見つめて突然ぼやく青に諷永は眉をひそめる。
「青?」
「いいや。忘れとこ」
 うかがう諷永には応えず、青は一人納得している。
 さっぱりわからない諷永を残して、さっさと流希の部屋に向かう青の後を諷永は追いかけた。


「おはよ」
 静かな微笑に迎えられ、諷永はまじまじと流希を見つめる。
 ベッドの中、まるで死んでいるかのように白い顔でいた昨日までが嘘のように、顔色がいい。
「兄貴、来てたんだ?」
 深々とため息をついて青が尋ねる。
「うん。昨夜」
 青の口調を意に介さず、流希はさらりと応える。
「青、お兄さんいたんだ」
 今まで、そういう話が出たことがなかったので全く知らずにいた諷永は少々驚く。
 先ほどの「家に帰りたくない」の発言はその兄に会いたくないということだろうか。普通、一緒に住んでいれば毎日顔を合わせるものだろうし、そう考えるとおかしい話だ。
「あれ、言ったことなかった?」
 諷永の疑問に気付かず、青はあっさりと応える。
「仲、悪いのか?」
 耳元でこそと、単刀直入に尋ねると青は肩をすくめる。
「いや。そういうわけでは、ない」
 基本的に屈託ない青のめずらしく、微妙に歯切れの悪い口調。
「この、空気作ったの、お兄さんなんだろ?」
 あれほどの淀みが、まるでなかったかのようにやわらかく、やさしさに満ちた雰囲気。
 これほどのことが出来る人が、青が微妙な口ぶりをするような問題ある人だとは考えにくい。
 会ってみたい。
「お茶、入ったよ?」
 少々呆れたような流希の声に、二人は話を途切らせた。


「よ」
 サボり部屋にいる見慣れた顔に諷永は短く挨拶をする。
 久々の登校にも関わらず授業に出ていないのは、らしいというべきか。
 どちらにしろ、遅刻してきた自分が言える立場ではないので口をつぐむ。
 なにより、こうして学校に出てこられる程度の快復したことに、ほっとする。
「あげる」
 呟きと同時に無造作に投げられた小さなものを慌てて掴み取る。
 銀色の硝子玉
「なに、これ?」
 ビー玉大の透き通る銀を、諷永は落とさないように気をつけながら眺める。
「……おまもり」
 その一言の前に、沢山の言葉を飲み込んだように見えて諷永は眉をひそめる。
 流希は窓の外を見たまま振り返らずに、続ける。
「どうしてもダメだと思ったら、割り砕いて」
 親切とは言えない短い説明。
 やはり少し雰囲気が変わった。
 当然だ。
 あれだけ大きなことが、影響を与えないはずはない。
「流希、さぁ。何かまだ言いたいことあるだろ」
 深い、深いため息。そして振り返った流希は苦笑いを浮かべていた。
「かなわないな、諷永には。……行くよ。決めた」
 決めたも何も、その過程も前提も全く知らされていない。
 そんなことをあたりまえに告げられた自分がため息をつきたい。
「いつ」
 潔さ。
 そういう迷いを見せないところも、尊敬している。言わないけれど。
「そんな、顔しないでよ。二度と会えないわけじゃ、ないんだから」
 行き先など、知らない。
 ただ、簡単に行き来できる場所ではないことは察しがつく。
 特別な人間。
「抜け出してくるし」
 ぽそりと付け加えられた言葉に、諷永は小さくふきだす。
 流希らしすぎる。
「そういえば、青は?」
 真面目に授業を受けているのだろうか。
「職員室。……じゃ、いくね」
 答えの意味を量りかねていると、流希はさっさと立ち上がる。
「何しに来たんだよ、流希」
 いくら病みあがりだからといって、授業ひとつもでずに二限目半ばあたりの時間で帰るのはどうかと思う。
「退学届け、出しに。あと、諷永に会いに」
 言い残して、流希はすぐに窓から出て行ってしまう。
 引き止める間もなく、呆然とそのうしろ姿を目で追う。
「あ、諷永来てるし」
 見計らったかのように、入れ違いで青がドアから入ってくる。
「流希なら帰ったぞ」
 諷永の拗ねたような口調に、青は声を立てて笑う。
「ゆるしてやれよ。流希だって、気持ちに折り合いつけられないんだろ、さすがに」
 それは、別れがつらいと想ってもらえていると自惚れてもいいのだろうか。
「じゃ、オレも無事に退学届けが受理されたので」
 あたりまえに、おなじ道を歩く青を、少しうらやましく思う。
 こんなにあっさりと、終わってしまう。
「大丈夫。流希はオレと違って『界渡(かいわたり)』が負担になったりしないから、ちょこちょこ戻ってくるよ」
 フォローのつもりなのか青はにっこり笑う。
 しかし、それは青とは会えないということか?
「界渡って」
「んー。あちら側に行くための移動術。基本的にはそれが出来ないと行き来できない」
 ごく当然の知識なのだろう、青にとって。もちろん流希にとっても。
「遠いな」
「平気だって」
 楽観的というか、前向きな青のこの姿勢は実はすごくありがたい。
「……でも、一旦お別れだな」
 愚痴っていたからといって、なにかが変わるわけではない。
「またな」
 諷永は青と静かに笑みをかわした。


 この場所で。
 いつか、追いつくまで。

【終】




Apr. 2001
【トキノカサネ】