qualitative analysis



「……(あくた)さん?」
 少々の間は、どう反応してやろうかと逡巡したのだろう。
 そして届いたのは苦い声。
「ご無沙汰しております、だな」
 態度を決めかねるのもこちらも同じだ。
 お互い、動向の把握はしている。
 しかし、出来るだけ関わりを持たないようにしているのも事実。
「で、わざわざお電話いただいてまで何の御用でしょうか」
 口調に「ろくでもない用件に違いない」との思いが混じっている。
 少しもそれを隠そうとしない辺り、疲れているのか面倒なのか。
「ラキから、話は聞いてるか?」
「いちいちラキの行動に干渉などしてないですが」
 態度を崩さない相手との探りあうような会話に見切りをつけ、さっさと本題に入る。
「『指導師』に仕事を依頼したい」
「指導師など、私でなくても。……資格はないにしろラキもそのレベルにあると思いますが」
 迂遠な言い回しをしているが、簡単に言えば「断る」ということだ。
 無茶な依頼だという自覚はあるので、つよく返すことは出来ない。
「ラキは忙しいらしくてな。それに、俺の立場じゃあ下手に指導師を探すわけにもいかないし」
「芥さん、それは私の言葉です。あなたはご存知のはずでしょう。私の立場も」
 感情を殺した言葉。
 そんなの、わかりすぎるくらいわかっている。
「悪い」
 本心から謝ると、電話のむこうでため息まじりに微苦笑が聞こえる。
「……お引き受けしますよ。私も本当は会っておきたいと思っていましたから」
 ぎりぎり、最終的なところでやさしい。
 というか、甘い。
「大感謝」
「迷惑リストのトップには君臨させて差し上げますよ……場所はお任せします」
 一瞬見せた本来の姿はすぐに隠して感情のない声が耳に届いた。


 またか。
 こんな扱いに慣れてきている自分に少々同情する。
 岑羅(しんら)から渡されたのは住所の書かれた地図と鍵。
 抗議する気力もなく、指定されたマンションの一室に入ってみれば、そこには誰もいなかった。
「どうしろって言うんだろうねぇ」
 諷永(ふうえい)はぼやきながら室内を眺める。
 必要最低限の家具は置かれているが、生活臭がなくショールームのように感じられる。おそらく、普段は使われていない部屋なのだろう。
 見ず知らずの他人の家に一人でいるというのはひどく居心地が悪い。
 溜息をつく。
 それに混じって鍵を開ける音が聞こえ、諷永は立ち上がり玄関に向かう。
「はじめまして(いずみ)諷永くん?」
 玄関に立っていたのはスーツをかっちりと着た、同年くらいの青年。
 かけている眼鏡のせいか、どことなく神経質そうにみえる。
「はい」
 声は穏やかにみえるのに、どこか冷たい印象。
「私は吟樹(ぎんき)(りょう)です。芥さんに依頼されて参りました」
 ……ギンキ?
 聞き慣れた、友人とおなじ苗字。
 知っている人物と似ているところはないようにみえる、が。
 靴を脱いでさっさと部屋に向かう背中に声をかける。
「あの、(せい)とは」
「兄です、青の」
 友人の名を持ち出すと、あっさり答えられる。
 その存在を知った時、一度会ってみたいと思った。
 しかし想像とは随分違う。
 やわらかな雰囲気の人だと思っていたのに、正反対とも言える、とっつきにくい、淡々とした口調。
 これなら一人でいた方がよかったかも、と諷永はこっそり前言撤回してみる。
「……何にも用意してない。さすが芥さん」
 冷蔵庫の中を確認した良の冷えた声。
 諷永がちらりと覗くと、確かに冷蔵庫は空っぽに近い。
 飲料は多少入ってはいるが、固形物は皆無だ。
 諷永は心底雇用主を呪いたい気持ちになる。針のむしろだ。
「大変だね、泉くんも」
 同情なのか嫌味なのか判別の付かない口調に、深々とため息をつきたい気持ちになる。
 帰りたい。
 そんな諷永の気持ちを知ってか知らずか良はソファに身を埋める。
 ひどく疲れているように、見えた。
 ネクタイをゆるめる仕草をなんとなく見つめる。
「……何か? 座ったらどうですか?」
 ちらりと目を上げ、感情なく言われる。
「す、みません。何でもないです」
 座る。
 どうしてこんな所にいなきゃいけないんだろう。
 理由が知りたいとは思うが、相手の雰囲気がそれを許さないような気がする。
「……失礼」
 微かな振動音。
 良が内ポケットから携帯を取り出す。
「ぁあ、こっちにいる。……なに? じゃ、買い物行ってきてくれ。ちゃんとつまみ以外のものも買って来いよ?」
 良の纏った空気がゆるむ。
 口調がくだけ、親しげな雰囲気。
 ほっとする。
 電話の相手が誰だかはわからないが、ずいぶん気を許しているようだ。
 その人物が来るとなれば、このいたたまれなさもなくなるだろう。電話の相手に感謝だ。
 電話を切った良は、元の取っつきにくい空気を発している。
 諷永は時計を見上げて、何度目かのため息を気づかれないように吐いた。


「ごくろー」
 良が突然顔を上げて声を出す。
「気づいてるならドアぐらい開けようとか思わないか、普通」
 気配もないのに背後で声がして諷永は振り向く。
(にん)?」
「おどろいた?」
 やわらかな笑顔が空気を和ませる。
「驚かせようと思ってたヤツの言葉じゃないだろ。……悪いな」
 良は立ち上がり忍からスーパーの袋を受け取る。
「いや、いいけど。本家行ってたのか?」
「いつものことだろ」
 冷蔵庫に食材を片付けながら良は平然と呟く。
「諷永、良にいじめられてなかったか?」
 良の言葉にはコメントを返さず、苦笑いをうかべた忍が尋ねる。
 何と返答していいものか。
 諷永が迷っていると、良が口を挟む。
「いじめてはないけど、八つ当たりしてた」
「おまえね、初対面の相手に八つ当たりしてどうするよ」
 同意を求めるように忍が諷永を見る。
 賛成したいのは山々だけれど。
「やっぱり初対面の相手って緊張するだろ?」
 振り返って仄かに微笑う。
 それのどこが八つ当たりの理由になるのだろう。
 それにしても、印象の定まらないヒトだ。
「運、悪いよなぁ、諷永って。良の機嫌の悪いときに初対面を果たすなんて。おれならいくら積まれてもぜーったいヤだね」
 忍も以前会ったときよりもコドモっぽくみえる。
「それにはおれも賛成だ」
 まじめな顔で言うと、良は缶ビールを各々に渡す。
「認めるなよ。大体、眼鏡外せば? 陰険さ二割り増しだぞ?」
 隣に座った青年の眼鏡を忍は抜き取る。
「……」
 良は応えず、軽く肩をすくめるにとどめている。
 初めて、まともに目を合わせた気がした。
 淡い、淡い碧の目に惹きこまれる。
 記憶に埋もる……。


「寝ちゃったか」
 結局、開けられなかった缶を諷永の手から抜き取り忍は息を吐く。
「初期はひどく消耗する。よくここまで保っていたものだと呆れるよ」
 言った良本人も疲労をかくせないでいる。
「何で引き受ける気になったわけ? そんな顔色してるクセに」
 他人には無茶するな、とか限界を考えて動けとか口うるさく言うくせに。自分を棚上げするにも程がある。
「とりあえず泉くんを寝室に連れて行ってくれないか?」
 ぐったりとソファにもたれ、目を伏せて良は呟く。
 一人でか?
 文句を言いかけ、相手のあまりに疲れた顔に忍は素直に頷いた。
「了解」
――。
「で?」
 新たな缶ビールを持ち出して忍は尋ねる。
「芥さんの方から言い出したことだよ。断る理由もなかった。泉くんには、一度会ってみたいと思ってたし」
「じゃ、目的はもう果たせたな。おれが替わるよ」
「おまえは指導師じゃないだろ」
 静かに返ってきた正論に、忍は苦く返す。
「資格はなくても一通り勉強はしてある。問題ないだろ」
「勘弁してくれ。藍方(あいかた)が指導師やったら同調しすぎて、絶対おれの二度手間になる。芥さんがおれに頼んだのもその辺が理由だろ」
 淡々、淡々。
 的を射ているだけに、かわいげのない。
「おまえは平気なのかよ、良」
 同調するのは、同様の力を持つ良も同じはずだ。
「おれはいーの。……とりあえず今日は来てくれて助かった。どうも余裕がなくて、気遣えなかったから」
 良は穏やかな微笑をうかべる。
 たまにこんな風に素直で、困る。
「つらかったら、言えよ?」
 他人に弱みを見せたがらない良に、無駄を承知で伝える。
「いつも言ってるだろ?」
 本気で言っているらしい言葉に、忍は脱力した。


「あの。昨日確認するのを忘れてしまったんですけど、ここで何をするんでしょうか」
 整えられた朝食の席で、諷永は切り出す。
 昨日ほどのとっつきにくさは感じないけれど、丁寧語を使わずにはいられない妙な威圧感は変わらない。
「そんなに緊張する必要ないよ。消化に悪い。……昨日、いじめすぎちゃったね」
 微苦笑。
 どうも目を惹く人だ。独特の雰囲気がある。
「芥さん、何の説明もしなかったんだね。相変わらず」
「仲、悪いんですか?」
 良の口調の端々に岑羅に対するトゲが見え隠れする。
 そぐわない質問だとはわかっていながら、諷永は思わず尋ねる。
「どうなんだろうね」
 決して考えを悟らせない表情。
 笑みを湛えてはいるけれど、そこには強固な意志がある。
「あ、の」
 それてしまった話を元にもどそうと口を開いた諷永をさえぎるように良がいう。
「ここに来てもらったのは、泉くんの能力開発のため。昨日はゆっくり眠れた?」
 まっすぐな視線に呑まれるように頷く。
 どうやってベッドに行ったか全く記憶がなく、その上朝までぐっすりだ。
 このところ、よく眠れなかったのが嘘のようだ。
「藍方のご利益だな」
 良がため息まじりのやさしい声を漏らす。
「忍?」
 答えを求めるように問い返しても、それには曖昧な微苦笑が戻るだけで、何のことかさっぱりわからない。
 手強い。
「時間もないことだし、食べ終わったら早速はじめようか」
 さらりと発せられた言葉の裏に、不穏なものを感じたのは気のせいではなかったと思う。


「おはよー」
「来たのか」
 気配を消してきたのに驚きもせず、良は静かな声を返してくる。
「難しい顔。どう、調子は」
 忍は傍らのベッドに座り、パソコンから目を離さない良に尋ねる。
「どうだろうな」
「三日じゃ、短すぎるよな」
 指導に使えるのは、諷永の学校が休みであるこの連休の間だけだ。
「少なくても、やるしかないしな」
 ため息のように良は零す。
 良自身、そうそう時間の取れる立場ではないはずだ。
 その上、こんなことに関わっていることが知れたら、いろいろ支障が出ることは明らかだ。
 それでも、引き受けてしまうやさしさ。
「どこまで進んだ?」
「『夢追』はラキが教えてくれてたから、『拒夢』と『承夢』の基本的なことを」
「なんで、そんな難しいところから教えるかな。普通は『識夢』からだろ」
 最終段階で教えることだ、それは。
 いくら期間が短いとはいっても、型破りすぎる。
「そんなの経験で身につく。時間がないんだ」
 画面から目をはなし、良は忍を見る。
「なに、ずいぶん焦ってるな」
 基本的に冷静沈着な良にしては珍しい表情。
「思った以上にまずい状況だったんだ、泉くんは。制御できなければ格好の餌食だ」
「シンが良に連絡取った時点で予想はついてたけどな」
 決して仲が悪いわけではないのに、馴れ合いがばれれば面倒なことになると、お互い関わらないようにしていた。
「予想以上だよ。……芥さんには割増料金もらわないと」
「また、そういうことを」
 表情をゆるめ、軽口をたたく良に忍は苦笑いする。
「泉くんの理解力の早さで助かってるな。……詰め込みすぎによる弊害は怖いが」
 本来なら時間をかけ、ひとつずつ覚えていくべきもの。そうしなければ、暴走を起こしかねない。
「諷永の容量の多さに賭けるしかないか」
「一度くらい経験させておくのもいいかもしれないけどな」
 良は疲弊した顔で少々不穏なことを言う。
「疲れた頭で考えてても仕方ないだろ。寝ろ」
 忍は横から手を出し、パソコンの電源を勝手に落とす。
 文句も言わず、その様子を黙って見ているということは、良自身、自覚があるのだろう。さすがに。
「お望みなら子守唄でも詠おうか?」
 忍の言葉に良は肩をすくめる。
「それは泉くんにしてやれよ。昨日、よく眠れたってさ」
「気付いてたのか」
 おだやかな眠りの場を作るための術。
 昨夜、部屋に連れて行ったときにそれをした。
 かすかな笑みで肯定し、良は立ち上がり伸びをする。
「藍方も早く帰って休め。おれなんか構ってないで」
「諷永の寝顔見てから帰るよ」
 疲労をかくしてみせた良に、忍はかるく手を上げ部屋を出た。


「おはよう」
 リビングのドアを開けるとすぐに声をかけられる。
 テーブルには今日もすでに朝食が並べられている。
 早起きで、まめな人だ。
「よく眠れた?」
「はい。ここに来てからずっとよく眠れてます」
 渡されたコーヒーを受け取り、諷永は答える。
「体調は? 気持ち悪かったり、どこかにしびれがあったり。普段ない症状が出てたりは?」
 矢継ぎ早に尋ねられ、諷永は束の間考える。
「特に、ないです」
「少しでも変調に気付いたら言うように。気のせいだとか判断せずに」
 どこか事務的な口調は、親身に心配されているというより医者の問診を受けているような気になる。
「はい」
「おれは、結構無茶をさせてるから。それは自覚しておいて」
 素直に頷いた諷永に、良がわずかに表情を和らげる。
「無茶、って。どういう風にですか?」
 良は視線をさまよわせる。
「大体、三日で身につけさせるっていう計画からして無謀なんだ。通常、何ヶ月もかけて少しずつ馴染ませていくものだから。こんな方法を採れば負荷が強すぎて、身体に異常を来たしかねない」
 それでも無茶をする理由があるということだろう。その理由も知りたいが、食事を再開している良にそれ以上の説明をもらうのは不可能に感じられる。
 釈然としないまま、朝食を胃におさめる。
「さて、時間もないことだし始めようか?」
 やわらかとは言いがたい微妙な笑みをうかべた良が食事終了を告げた。


「調子はどう?」
 なんとなく寝付けず、布団の中に入りながらぼんやりしていた諷永は、突然の声に慌てて起き上がる。
「忍っ。気配させて入ってきてくれっ」
 ベッドのすぐそばに立つ忍に文句をつける。
 何度やられても慣れない。
 諷永自身、どちらかといえば気配に敏いほうなのに、気付かせないほど忍は気配が薄い。
「寝てたら悪いなぁ、と思って」
 薄明かりの下、忍の微苦笑が浮かび上がる。
「あ、そっか。……何か、寝付けなくてさ。神経高ぶってるのかな。慣れないことして」
 睡眠に関してはここに来てから調子がよいくらいだったのに。
「『未来視(さきみ)』はどうしても消耗が激しいから、そのせいもあると思うけどね。寝ると夢を見て、それが未来視につながるかもしれないから眠れない。でも疲れは蓄積していく。悪循環だね」
 忍は一つため息をついて続ける。
「寝な。眠れるようにしてやるよ」
 やわらかな声に従い、大人しく布団に戻った諷永の目の上に、忍が手のひらをのせる。
「あ、気持ちいい」
 やさしい冷たさに目を閉じると、ゆっくりと眠気が降りてくる。
「……良さんって、おれのこと嫌ってる?」
 その心地いい空気にゆだねて諷永は尋ねる。
「ん? 良は嫌いなヤツに関わったりしないよ」
 ふわふわ、声が舞う。
「態度悪いのは、立場上仕方なくだよ。……もう眠りな。おやすみ」
 声は遠くなり、意識が途切れた。


「また来たのか」
 相変わらず気配のない忍に声をかけると、不満げな答えが返る。
「もう少し、言い方ないか?」
「今更?」
 ベッドから身体を起こす気にもなれない。
「調子、悪いのか?」
 忍の口調が心配げなものになり、良は細く笑む。
「そんなことない。時間をかけて、自分で鍛錬すれば、いい夢視使になる。泉くんはやる気あるし、教えたことはきちんと吸収するし、生徒として申し分ない」
 時間がないので、どうしても知識を詰め込ませるだけの指導になっているが、身についているか確認をすると、たどたどしくても、きちんとものにしている。
 あとは慣れの問題で、それは諷永自身の気持ち次第だ。
「それは何より、だけど。おれが言いたいのは良の調子」
 わざとらしく藍方は肩を落とす。
「見てのとおりだよ」
 言うまでもないだろうと、諷永のことに触れたのだ。
 慣れないことをやっているのだから、疲れるのは仕方がない。
「諷永が気にしてたぞ?」
 体調に関して、それ以上つっこむことなく忍は別のことを口にする。
「あぁ。……フォローしてくれたんだろ?」
 こちらの態度を気にしているのは知っていたが、これ以上あまい感情で動くわけにもいかず放っていた。
 忍もそれをわかって毎日顔を出してくれているのだろう。
「そのくらいはね。ほら、さっさと寝ろ」
 忍の声をひきがねに、良はゆっくりと眠りに落ちた。


「藍方?」
 ソファの上に伸びている友人を見つけて良はため息をつく。心配で、泊まっていってくれたのだろう。
 まだ時間は早いし、もう少し眠らせておこうと思ったところで鳴り出した電話に良は思わず舌打ちする。
「……また?」
 いつも電話音程度では起きない忍が、不穏な気配を察したのか起き上がる。
 かるく顎を引き肯定してから良は携帯を耳もとでもつ。
「はい」
 内心とは全く違う、おだやかに聞こえる声を作る。
 忍は呆れたような、困ったような表情を浮かべ、視線を逸らす。
「……承知しております。……とんでもありません」
 相手の嫌味など聞き流し、服従のポーズを見せる。
 どうでも、いい。
 いつか逆転させる、その時まで。
「もちろんです。……それでは、後ほど」
 今は、まだ。
 通話を終え、笑みをはく。
「良」
 とがめているようにも取れる呼び声に、良は静かにため息をつく。
「表敬訪問してくるよ。悪いけど、あと頼む」
「了解。最終確認と、ケアだけだろ?」
 事務的に済ませてくれる忍に頷く。
「そう。じゃ、行くよ」
 のんびりしていれば、また電話が来てしまう。顔を合わせなければならない上、何度も電話で話すなどという面倒は避けたい。
「おれは、味方だよ」
 背中にかかった唐突な声に力が抜けかける。
 何を今更。
「知ってるよ」
 ふり返るのは止めて、良は声だけを返した。


「忍?」
「ぉはよ」
 今日は何も乗っていないテーブルに頬杖をついた忍が眠そうに顔をあげる。
 いつも朝食を完璧にそろえて待っている良の姿が見えず諷永は尋ねる。
「えーと、良さんは?」
「急用が出来て、おれが代理」
 忍は半分寝ぼけたようにぼんやりと笑う。
 少し、ほっとする。
 テキパキ隙のない良より、忍の方が断然とっつきやすい。
「朝ごはん、食べる?」
「おれはいらない。諷永、食べたければ自分でつくってね、悪いけど」
 忍は言い残すとテーブルに突っ伏す。
「コーヒーは?」
 自分ひとりしか食べないなら、トーストにコーヒーだけで充分だ。
 食パンをトースターにつっこみ、やかんを火にかける。
「……ほしい」
 よほど睡眠不足なのか、寝起きが悪すぎるだろう。
 反応がいちいち鈍く、声もまだ寝ぼけている。
 諷永はフィルターにコーヒーを多めに入れ込んだ。
――。
「で、今日の予定は?」
 簡素な朝食をすませた諷永はコーヒーを飲んでいる忍に尋ねる。
 ようやく目が覚めきったように見える忍は、コーヒーを飲み干して息をつく。
「最終確認して、終わりかな。さっさと終わらせて帰ろう。明日から学校だし、今日はゆっくり休まないと」
 ぐい、と伸びをして忍は立ち上がった。


「ただいま」
「おう。おつかれ」
 本当に疲れた顔をした諷永に、岑羅はいつものように声をかけ給湯室に入る。
「コーヒー、ちょうだい」
「了解」
 声はだるそうだが、気配が澄み、鍛えられてきたのがわかる。
「ご褒美にスペシャルコーヒー」
 さっそく報告書を書き始めている諷永の前にカップを置く。
 よく頑張りました、だ。
「ありがとー……って、あまいっ」
「疲れたときには甘いものって相場が決まっている」
 砂糖ミルク抜きのコーヒーを飲みながら岑羅は自分のパソコンを眺める。
 受信した二通のメールにはそれぞれ忍と良からの報告書が添付されている。
 さすがに仕事がはやい。
 内容にざっと目を通し、大きく息を吐く。
 大感謝だ。
「あまい、なぁ」
 これは、この先どう転ぶかわからないことなのに、最善を尽くしてくれた。
「コーヒー、甘すぎ」
 ぼそり、つられて諷永が呟く。
 ちがう。そういう意味じゃない。
「文句言ってないで、さっさと終わらせて帰りなさい」
 とりあえず行けるところまでは、歪ませずに。
「わかってるよっ」
 思惑を知らずにいる諷永は、拗ねた顔で報告書を岑羅に渡す。
「帰る」
「おつかれさま」
 うしろ姿を見送る。
 目を閉じる。
 だから、このまま。
 まだ。

【終】




Feb. 2002
【トキノカサネ】