守りたかったものは、いとも容易くこぼれおちていった。
「おれは動くよ。思ってもいないかたちで時が満ちた」
真面目にスーツをきた青年の声が、どこか沈痛に響く。
「僕、は」
「決定は、急がなくていい。まだ」
隙のない微笑をたたえて、青年は話が終わると背を向ける。
同様に、こちらも素知らぬふりで歩き出す。
誰にも気取られてはならない接触は、ぶじ果たされた。
淡い青空の下。
妙な緊張感をもって、禁域へ足を踏み入れる。
木々に囲まれた古よりありし神殿。巫女の住まう宮。
世俗から取り残されたような場所でありながら、それでも確かにここは中心地だ。
迷いがあるまま建物に入る気分にはなれず、庭を散策する。
覚悟がなかったから、後延べしていたのに、こんなところで遭ってしまうなんて。
樹の幹に寄りかかってうたた寝する少女。
一目で、わかってしまった。
「おはようございます」
気配を感じたのか目を覚まし、こちらを見つめると淡く微笑う。
「ちがった……はじめまして」
寝とぼけた内容と裏腹に、感情の薄い、透る声。
予想外に、ほやんとした雰囲気。
「はじめまして。
深く、頭を下げる。
これが、あの青年が至上にしている巫女姫かとおもうと、少々腑に落ちないものを感じる。
確かに、巫女としては申し分ない静謐さはある。
しかし、あの曲者が擁護するようなタイプには見えない。
風が吹いたら折れそうな、虫も殺せそうのないか細い少女を。
「銀女、じゃない」
淡い色の瞳がまっすぐこちらを射抜く。
どこか不安げにも見える拒否。
「
それを助けるかのように、苦笑い混じりの声が降ってくる。
耳を疑う。
こんな、やさしい声をだすような人物だとは思ってもいなかった。
「
姫君は振り返り、相変わらず淡々とした声で呼ぶ。
「今朝まで熱があったんだから、部屋で大人しくしてろよ」
おだやかな笑顔。やさしく姫君の額に触れる。
いままで自分が相対してきたのは、顔がおなじ別人だったといわれた方が、まだ驚きは少ないかもしれない。
「良にぃは過保護すぎ。そう、思わない?」
どう応えたものか。
「とにかく、中に入れ。……空も」
姫君を促し、初めてこちらを見た青年の浮かべた表情で、やはり同一人物だと確信する。
つよい意思をひめた静かな笑み。
「はい」
うなずき、建物へ向かう。
先に歩き出した姫君の細い背中から、目が離せなかった。
「どうだった、流希の印象は」
良の私室にしているらしい部屋で、お茶を出される。
ここに来るまで誰ともすれ違うことなく、ずいぶん人気が少ないとは感じていたが、お茶を出す人間さえいないのか?
「どう、と言われましても、挨拶を交わしただけですし」
水とか、空気とか、そういうものに似ている気がした。
そこにあるのに、つかまえることができないような。
出されたお茶を口に含む。
「本音を言ってもいいですか?」
「どうぞ?」
おもしろがったような、一癖以上ある笑み。
「あなたが大事にするようなタイプに見えないですね。たしかに、綺麗な姫君ではありますが」
ただそれだけだ、とまで言ってしまうのはさすがに問題があるだろうと口をつぐむ。
「あれが、そんな一筋縄だったらおれはさほど苦労せずに済むんだけどねぇ」
苦笑いが、そういうところがかわいくて仕方ないと物語っている。
そんな手に負えないような姫君には見えなかったが。
「なに、
ノックの音に、良は短く尋ねる。
ドアが開き、顔をのぞかせた青年はこちらを見て屈託なく笑む。
「はじめまして。青です。詩当さんのことは兄からよく伺ってます」
「お兄さん?」
というと、この正面にいる良のことだろうか。
「似てないでしょう。よく言われるんです」
こちらの考えを見透かし、にこにこと無邪気に答える。
「青、無駄口はいいから。用件」
この、何を考えているかわかりづらい策士の良と、裏表のない素直そうな青とが兄弟だとは信じられない。
面立ちもあまり似ていないように見える。
「ああ、そうだった。流希が、いないんだけど。って報告」
もう少し、緊迫感というのを持ち合わせたほうがいいのではないだろうか。
その存在は確かに価値のあるものなのだ。
一般に存在を知られているわけではないとはいえ、それなりにその存在も価値を知る者たちはいる。誘拐等、事件性を考えた方がしっくりくる。
「……探しに行けよ」
がっくりと呟く良に、青は肩をすくめる。
「ムリ。っていうかムダ。どうしてもっていうなら、兄貴自分で行けば?」
あっさりと言い切る。
この口調で良に返せるというのはやはり弟だからできる業かも知れない。
どちらにしろ、この様子をみると、逼迫した状況ではなく姫君の意思で行方をくらましたようだ。
「僕が来たのが、何か気に障ったんでしょうか」
こちらの呼びかけにどこか頑なな表情を浮かべていたのを思い出す。
「関係ないだろ」
「流希の脱走は今に始まったことじゃないから、気にしなくてもいいと思う」
異口同音に兄弟がそれぞれ否定する。
脱走が茶飯事の姫君?
「せっかく来てもらったのに、悪かったな」
良がため息まじりに苦笑いを浮かべる。
「いえ。一応、お会いすることはできましたし」
あれだけの会話で、気持ちが定まりはしないけれど、これきりというわけでもない。
「どうする。今日はこのまま泊まっていくか?」
「帰ります。考えたいこともあるので」
良の申し出を断る。
まだ、抵抗がある。
ずるずると流されて、い続けることになりそうで。
「オレ、そこまで送ります」
青は大きくドアを開けて、懐っこい笑みを浮かべた。
「ここは、人気がないんですね」
しんとした廊下で、となりを歩く青に尋ねる。
「あのさ、詩当さん。同じ歳なんだし、丁寧語、ナシにしない?」
困ったように切り出す。
「これは、僕のクセですから気にしないでください。青は普通にどうぞ」
「なら、いいけど。人気が少ないっていうか、オレと兄貴と流希しか住んでないんだよ」
あたりまえのように答えているが、問題ではないだろうか。
「普通、最低限の雑務をする人間がいるんじゃないですか?」
宮の形態は謎に包まれているので絶対そうだとは言い切れないが、少なくとも巫女付の侍女はいるものだろう。
「さぁ? オレは、ずっとむこうで暮らしていたからこちら側の普通がどういうものかわからないけど。別に困ってないし、気楽だし、いいんじゃない?」
確かにそうかもしれないが、大雑把すぎる。
玄関まで来ると青は立ち止まる。
「空が嫌じゃなかったら、また遊びに来てよ。オレは、ほとんど外に出られないから退屈してるし」
どういう意味だ。姫君でさえ、脱走しているというのに。
不審の表情は読み取ったはずなのに、青は何も答えずに笑った。
まっすぐ帰途につく気にはならなかった。
同居人は家にいるだろうし、そうすれば何も話さないわけにはいかないだろう。例え、詮索をしてこないにしても。
クセとは怖い。
一人で考え事をしたいとき、いつも来る川原へ意識せずにたどり着いている。
だいじな異母妹の亡骸が眠る地。
今は、葉も花もつけない桜の下で。
「銀女君?」
樹の下にあるうしろ姿に声をかける。
見間違いではないかと思った。
脱走とはいっても、こんな外れまで来ているとは思いもしなかった。
「何をしてみえるんです?」
振りかえらない背中に尋ねる。
「……花見」
聞き逃しそうなほど小さな声が、耳に届く。
「花なんか、咲いてないでしょう。いつから居るんです? 風邪をひきますよ?」
そういえば、熱があったとか言ってなかったか。それにも関わらず、間もなく冬だというこの時季に上着も着ずに。
「詩当殿は?」
何もかも見透かしたような目がふり返る。
「僕は、……そうですね。報告に」
本当は迷っていた。ずっと。まだ。
ここで眠る妹を、それだけを大切に想ってきたのだ。そして永劫、赦さないと決めていた。
これからも、それは変わることはない。
だから、この決意が良い方に出るかどうかはわからない。
お互いにとって。
まっすぐにこちらへ向く、拒絶にもみえる表情を見返す。
「あなたのそばに居させてください、流希」
称号でなく、名前を呼ぶ。
「なぜ?」
再び、背が向けられる。
明確な答えなど持ち合わせていない。間違っているかもしれない。
「……内緒、です」
「私は死神だよ? それでも?」
風に流されて届く、ひどく本気の言葉。
何に囚われているのだろう。崩されることのない頑なさ。
「僕は、こう見えて悪運だけは強いですから」
返事は、風邪にかき消えて聞き取ることは出来なかった。
「流希っ」
「……見逃して?」
窓枠に足をかけているのを見つけて、空は呼び止める。
「何がですか。毎日毎日、いい加減にしてくださいっ」
目を離すといつの間にか居なくなっている。それを見咎めなければならないこちらの身にもなって欲しい。
「空。最近口うるさいよ?」
窓枠に腰かけて流希は眉をひそめる。
「誰のせいですか」
「……わかった。大人しくしてる」
苦く言うと、不精不精といった体で呟く。
「お茶に呼びにきたんです。どうしますか?」
「行く」
かるく窓からおりて横に並ぶ、細い身体。
気付いているだろうか。ここにいる理由。
「空?」
流希が訝しげにこちらを覗く。
これは代替行為。
気づいていないはずがない、この聡い姫君が。
「何でもないですよ」
気付かないふりをしてもらうことに甘えたままで。
今度こそ、守りたい気持ちだけは嘘ではないから。
空は笑顔を返した。
Apr. 2002
【トキノカサネ】