未来を夢見る。
未来に、夢見る。
「ということで、いってらっしゃい!」
出勤早々、書類一式を渡され、何の説明もないままにこの言葉。
「いくつか質問しても良いですか、社長」
「手短にね。キミの持ってる切符を見てわかるように、残された時間は短い」
約一時間後が表記された指定席券を見て、諷永は脱力しかけるが、そんなことをしている場合ではない。
これから一旦帰って、最低限の支度をして、駅に向かって……。
「行くわ」
慌てて出て行こうとすると、岑羅が呼び止める。
「向こうで、人に会って。携帯番号は入ってるから」
「了解」
どんな関係だとか、聞いてる暇はない。
諷永は急いで事務所から飛び出した。
救世主。
まるで、天使のように降り立ち、救ってくれる。
何から?
――これは、夢だ。
自覚する。
都合がよすぎる幻想。
逃げにすぎない。救世主なんてものを仕立て上げて。
その子どもが、妙に尊敬する友人に似ているのも、すべて。自分の弱さ。
早く目覚めなければ。これ以上、情けない己を自覚する前に。
はやく。
子どもの姿をした救世主が、邪気のない声で呼ぶ。
それだけで、安らぎを与えるように。
「微妙に悪夢」
新幹線のなかで、いつの間にか眠ってしまったようだ。
目の奥が痛い。
泣き出したいような、懐かしいような。
大切な友人を思い出す。
こんな時、どうするだろう。
今、どうしているだろう。
「ばかばかしい」
小さく、声にする。
比較しても仕方ない。自分は自分でしかない。
ぼんやりしているから、余計なことを考えてしまう。
諷永は渡されていた書類をひらく。間にはさまっていたメモがひらりと飛ばされ、慌ててつかむ。
名前なのだろうか。『ラキ』の文字の下に十一けたのナンバーが記されている。
その文字と番号を自分の携帯に登録したところで、車内アナウンスが間もなくの到着を告げる。
広げていた書類をまとめ、きっちり顔をあげて背筋を伸ばす。
さて、仕事だ。
改札を抜け、書類の中にあった地図に示された場所に、たどり着く。
歴史のありそうな図書館。
木々が深く、せみの声がうるさいくらいに響く。
夏休み中なだけあって、学生のものらしき自転車が駐輪場からあふれている。
皆、冷房の効いた建物の中にいるのだろう。屋外に人気はなく、諷永はのんびりと敷地の奥へ足をするめる。
「もったいないなぁ、気持ちいいのに」
樹が多いせいか、暑さは我慢できないほどではなく、時折吹く風が心地良い。
まぁ、受験生だったら、そんなことは言っていられないだろう。この夏で、道が大きく分かれかねないのだから。
木の下のベンチに座り、大きく呼吸をする。
なんとなく、まだ夢が頭の残っているような感覚。
リセットしなければ。仕事に差し支える。
がさばさ。
鳥か?
諷永が視線を頭上に向けると、樹葉が大きく揺れている。
ぱさん。
軽い音をたてて何かが飛び立ち、体重を感じさせず、目の前に舞い降りたのは性別不詳の子ども。
夢の続きかと、諷永は目をしばたかせる。
十歳くらいに見えるその子どもは、おもむろに携帯を取り出し、何らかの操作をする。
呼応するように自分の携帯がなっていることに気がつき、諷永は慌てて取り出す。
「はじめまして。イズミ、フーエイ? おれが、ラキです」
目の前の子どもがにっこり笑って、携帯を持つ手を小さく上げる。
「……はじめまして」
呆然としながら、諷永は返す。
まさかこんな子どもと会うことになるとは予想していなかった。
「シンラのことだから、どうせ何も伝えてなかったんだろ?」
大人びた苦笑。
ラキの自然な口調に諷永もため息で応える。
「どこまでがわざとで、どこからボケなのか掴めないとこが痛いよな」
「あーんなの、全部ボケで上等」
身も蓋もない言葉に反して、表情にはあきらめたような許容が浮かんでいる。
「仲、良いんだ?」
ごく普通に尋ねたにも関わらず、すごい勢いでラキは顔をしかめる。
「そういう反応ってアリ? ……ま、いいや。中に入ろうか」
疲れたよう呟いて、ラキは先に建物の方へ向かった。
「なにか、見える?」
しんとした図書館の中、ラキが静かに訊く。
「見えない」
諷永は小声で返す。
うっすらとした、霧の中に入ってしまったような感覚。
思考が分散していく。
「っていうか、……眠い」
意識を引っ張られるように、まぶたが下がってくる。しゃがみこまないよう、壁にもたれる。
「ホントに感覚強いなぁ。制御、覚えた方が良いねぇ」
ラキに手だけでかがむよううながされ、諷永は壁をすべるように姿勢を低くする。
目線が、同じ高さで合う。
静かな色。少しくもった湖面のような。
「っ」
その瞳に気をとられている間にラキの手が近づき、額を指で弾かれる。
それ自体の衝撃以上に、なかで何かがはじけた。
「視界、クリアになっただろ?」
何らかの術を使ってくれたようだ。
言葉通り靄は消え、見通しがよくなった上、眠気も飛んだ。
「ありがと」
「どういたしまして。じゃ、働いてもらおうか。とりあえず、館内だけでいいから異常確認してきて。閉館までにはおれのとこ来て。その辺にいるから」
あまり親切ではない指令を出すと、ラキはそのまま本棚の陰に消えてしまう。
諷永はひとつため息をつき、逆方向へ足を向ける。
書棚の間をゆっくりと歩きながら、ぼんやりとラキのことを考える。
さすが岑羅の知り合いというべきか、かなりマイペースだ。
高校生の自分と、小学生のラキの組み合わせは、人目を引きかねないので別行動は良いとしても、根本的に説明が足りない気がする。
岑羅のことをどうこうと言える立場じゃないだろう。
最上階である四階にたどり着き、諷永は足を止める。
フロア全体が学習室になっているようだ。
静かにドアを引くと、密度の濃い静寂が流れ出してくる。
かすかに伝わるペンの走る音や、紙のめくれる音が、静寂をより深くしている。
明るい未来のために、現在を犠牲にするのを当然としたものたちの集い。
諷永は空席を見つけ、その中に紛れる。
なんとなく、としか言えない違和感。
ぼんやりと座っているのは無駄な上、目立つので、持っていた課題を取り出す。
周囲とは緊張感に差はあるが、それなりに没頭して課題をこなす。
ねむい。
ふと耳に届くささやき。
自分の内からかと訝しむが、それは外から。
ねむい、ねたい。……ねたくない、ねむい。
ねむれ。……やめてしまえ。やめたい。ねむい。
声。
頭に直に届く、靄のように、まとわりつき、止まらない。
まずい。引きずられる。
諷永はペンを置き、断ち切るようにして、立ち上がる。
思った以上に大きな音が学習室に響く。
それにも関わらず、誰も振り返らず、顔さえあげない。
諷永は適当に荷物を片付け、逃げるように学習室を出た。
「ラキ」
閲覧室で何冊も本を広げているラキを呼ぶ。
「ひどい顔してる。座って」
冷静な表情をくずさず、ラキは隣の椅子を引いてくれる。
崩れるように座り込むと、諷永は目を伏せる。
「わるい」
「いや。仕方のないことだから」
ラキの指が、額に何かを描く。
身体にたまった妙な力が抜けていき、それにあわせてこびりついていたコトバが溶けていく。
「治ったみたいだね。じゃ、答え合わせでもしようか」
「……もう?」
閉館までまだ時間があるのに。
「とりあえず、出来たところまで」
諭すような声は、教師のようだ。
「受験生の怨念」
簡単すぎる答えだとは思ったけれど、他に適当な言葉が思い浮かばずため息をこぼす。
ラキは苦笑のような、大人びた表情を浮かべる。
「八割正解あげるよ」
「眠りたい、という欲求と、眠らないっていう意思と……自分ひとり勝ちしたい欲望と、排他と」
ひとつじゃない感情。混じりすぎて掴めない。
「七割に減らして良い?」
ラキは笑みを子どもっぽいものに変えて言う。
「遠くなってる?」
しまった。言わなきゃ良かったか。
「そういうワケでもないんだけどね。ま、とりあえず宿に行こうか。予約とってあるし」
ラキは伸びをして話しを終わらせる。
「りょーかい」
諷永もとりあえず同意を示し、立ち上がった。
「疲れただろ。かなり、気に当てられてたから。今日はもう動かないし、寝て良いよ」
手配されていた部屋に入って早々、ラキは冷蔵庫をあけ、取り出したビールを諷永に放る。
それを受け取り、諷永は素直に頷く。
疲れたというより、ただ眠い。
半分ほど飲んだビールをサイドボードに置き、ベッドの上に身体を伸ばす。
睡魔が降りてくる。
「おやすみ」
ずいぶん遠くに、ラキの声を聞いた。
――――
「諷永っ」
「――っ」
飛び起きる。
夢。
仄暗いなか、ラキの顔がすぐそばにある。
「目を閉じて。……息を整えて。……ゆっくりと」
諷永の手を握る、ひんやりとした小さな手。そこから、落ち着いてくる。
「声に出さないで、夢を順に……逆順でも良いから、たどって。……ゆっくり」
芯に響く声に従う。
辿ってみれば、ずいぶんとくだらない夢。
何がそんなに怖かったのだろう。
強張った自分の表情が、緩んでいくのがわかる。
「辿れたね? ……目を開けて」
そこには、おだやかなラキの微笑。
「お茶いれるよ」
ラキは立ち上がり、備付けのポットのスイッチを入れる。
「今の、なに?」
その背中に尋ねる。
「
ホテル備付けのティーバッグのものとは思えない、良い香りが漂い始める。
ラキの差し出したガラス製のカップは完全にホテルのものではない。
「これ、どこから出てきたんだ?」
ラキの持っていたのは小さなかばんひとつで、とてもカップが入っていたとは考えられない。
ラキはいたずらっぽく笑う。
「魔法」
「……いただきます」
ゆっくり口に含む。
紅茶に、はちみつのやわらかな甘さ。
「今度は、良い夢が見られるよ?」
「魔法使いのコトバは信じることにするよ」
諷永はカップを置いて、再度睡魔に身を任せた。
「おはよー……ラキ、寝なかったのか?」
すっきりと目覚める。
夢の欠片も残っていないほど、熟睡できた。
小さな机で、パソコンを使っていたラキは顔をあげる。
「寝たよ」
たしかに、眠さの欠片もないすっきりした表情。
しかし、隣のベッドは使われた形跡がなく、シーツがぴんとのびたままだ。
そのあたりを指摘しても、どうせまともに答えはしないだろうとつっ込まず、諷永はベッドから降りる。
「シャワー、行ってきます」
「はーい。いってらっしゃい」
開館三十分前の図書館は、さすがに自転車は一台もない。
ただ、せみの声だけが変わらず響き渡っている。
「何でこんな早くから……散歩?」
そんなワケはないだろうと思いながらも、館内に入れない時間に来る意味がわからず諷永は尋ねる。
「おれ、そんな暇人じゃないよ?」
言いながらも、指示を出すわけでもなく、ただ諷永の少しうしろをついて来る。
足の向くままに、奥へと進む諷永は古い建物の前で歩を止める。
レンガ造りの蔵のような建物の扉には大きな閂がかけられ、入ることは出来なさそうだ。
傍らに建てられた碑には、この図書館の創設者の略歴が刻まれている。
来てはみたものの、とりたてて異常は感じない。それにも関わらず、何故か立ち去れない。
諷永は首をめぐらせ、周囲をうかがう。
わからない。
「……フーエイ。その樹のウロ」
ラキが碑の真後ろの樹を指差す。
言われるままに、ちょうど背の高さほどにあるウロに手を差し込む。
ひんやりと湿った空気のなかに、紙の感触。
かなり、沢山あるようだ。
諷永が引っ張り出した紙をラキは受け取り、地面に描かれた円の中に置く。
大きさも紙種もまちまちなそれらに書かれているのは合格祈願だ。それぞれ言葉は違っても。
そんななか、目立つ、何枚もの和紙に書かれた文字。すべて同じ筆跡で。
諷永はラキを伺うように見つめる。
「何やってるんだ」
咎めるような声に顔をあげると、諷永と同年代の少年が和紙を手に立っている。
「だめじゃないか。みんなそれなりに信じてやってるんだから」
少年は円の中にある紙の山を見てため息をこぼす。
「そういう、おにーさんもその一人? 毎日、来てるみたいだけど」
首をかしげて、可愛らしげにラキは尋ねる。
「ま、気休め以上にはなってるよ。……遊び半分で始めた日から、体調はすこぶる良いしな」
人当たりのよさそうな少年は、ラキの言葉にやさしく応える。
「このおまじない、流行ってるの?」
「結構な。男のおれが知ってるくらいだし」
ラキの笑みがつよいものになる。
「でも、おにーさんには、ちょっと効きすぎてるね?」
確かに、日参しているらしい少年から、強い気配を感じる。学習室にあったものより、強固な。
少年は気にした様子もなく応える。
「睡眠時間が減っているわりには、調子が良いことは確かだ」
「随分、やわらかい表現ですね。何日、眠っていないんです?」
ラキの口調が、静かな大人びたものに変わる。
しかし、少年はそれより、言葉の内容に引っかかったようだ。
「なんで」
「って言われてもね。わかる物は、わかる。ねぇ、おにーさん。何を目指しているか知らないけど、自分で勝たなきゃダメだよ」
ラキは少年の手から和紙を抜き取り、円に入れる。
それを見つめて、ひとつ手を打つと、炎が紙を包む。
呆然とそれを見つめる少年に、ラキは静かに告げる。
「
「……誰にも、迷惑かけてない」
少年は炎に目を奪われながら呟く。
「それは、おにーさんが気付いてないだけ。影響を受けてる人はいるよ。おにーさんのかわりに眠り続けてる人も、眠れなくなる人も。浅い眠りに悪夢を見続ける人も」
その影響を、諷永も受けたということなのだろう。
やさしくて、哀しいラキの声。
「そして、こんなものを生み出してしまった」
消えた炎の中、円から出られずに動く黒い物体。
外国のアニメに出てくるような、体長十センチ程度の全身真っ黒な悪魔。
「これは、最終的におにーさんを破滅に追い込む。初めは喜ばせておいて、ね」
ラキはポケットから取り出したナイフを悪魔に突き刺す。
嫌な断末魔。声が耳に残る。
糸が切れたように少年がへたりこむ。
「おにーさんは、さ。大丈夫だから。こんなものに頼らなくても。……オヤスミナサイ」
ラキのやわらかな声に促されたように、少年は眠りに落ちる。
「ラキ、あれいなくなってる」
円の中、突き刺されたはずの悪魔の姿がない。
地面から抜いたナイフを、樹のウロに放る。
「あぁ。消滅したんだろ……終り」
ラキは表情なく言う。
「結局、何もやれなかったな」
「いや。充分。じゃ、解散」
ラキはひらと手を振って、行ってしまう。
あっけない。
「またな」
予感がある。
近いうちにまた、会えると。
「終了」
ラキは電話口で簡潔に告げる。
「オツカレサマでした」
媚びるような岑羅の口調に、ラキは先手を打つ。
「言っておくけど、代金は先回の分も含めて支払ってもらうから」
「貧乏起業家から、なけなしのお金取るなよ」
情けない声をラキはさっくり無視する。
「それより、フーエイ。良いのか、あれ。ほっといて」
「……何。確信もった?」
岑羅の声が真面目なものに変わる。
「可能性は高いよ。一応、初歩は教えたけど」
「俺より、おまえのが適任だよな」
岑羅は苦いため息を吐く。
「もっと適任もいるけどね。気が進まない」
「ま、しばらく様子を見るさ。基礎なら俺でもどうにかなるだろ」
二人は同時にため息をついて、どちらからともなく電話を切った。
Aug. 2000
【トキノカサネ】